晩酌
少しずつの更新ですが、楽しんでいただければ幸いです。
佐倉の案内でやってきたのは、川沿いの民家の中の一軒だった。木造の年季の入った家屋だが、軒先に可愛らしい金魚の風鈴が揺れているところを見ると、住人はそれほど年輩ではないかもしれない。庭は手入れが行き届き、一画には家庭菜園もある。なすやトマトがつやつやしていて、夕飯のおかずにするならとあれこれ想像してしまった。
玄関はガラスの引き戸のようだ。呼び鈴を鳴らして待っていると、縦に細かく入った木桟の間にちらちらと人影が映る。カラカラカラ!と音を立てて出てきたのは女性だった。
「あら、佐倉さん。こんな時間にめずらしいですね」
小さな口から耳に心地よいソプラノが響いた。ボブに揃えた柔らかそうな髪が輪郭を覆い、色白の肌と茶色の瞳が愛らしい。が、身につけている割烹着はサイズが合っていないらしく、彼女の見た目からも浮いている。
「こんばんは。源さんはご在宅かな」
「はい、いらっしゃいますよ。あら?」
割烹着の女性は美月夜に気がつくと、目を瞬いた。それから、彼らがところどころ怪我していることにも気がついたようで「あらあら、ちょっと待ってください」と奥へパタパタと消えていった。しばらくすると、清潔な手ぬぐいを山ほど、さらに往復して、たらいにお湯を張って持ってきてくれた。
「あ、お風呂にご案内した方が良かったかしら」
はたと気づいたようで、すまなそうに言う割烹着の女性に、佐倉は「じゃあ」と提案する。
「俺は風呂を借りてもいいですか。その間にこの子を手当てしてやってください」
「わかりました。お湯がためてあるので使ってください。さっき張り直したところなのできれいですから」
佐倉は礼を言い、何枚か手ぬぐいを取って奥へ入っていった。割烹着の女性は美月夜を框に座らせ、濡らした手ぬぐいで傷口をそっと拭う。
「痛かったら言ってくださいね。ええと、お名前を伺っても?」
「あ、吉良美月夜です。はじめまして」
「みつやちゃん、素敵な名前ね。私は坂東めい。よかったら仲良くしてね。近所に同性で年の近い子があまりいなくて」
穏やかに微笑んでめいが言う。こんなに可愛らしい人と知り合いになれるのは嬉しいが、何と答えていいのかわからなくて返事ができなかった。
彼女の口ぶりだと、美月夜は当分ここにいるのが当たり前だと捉えているようだ。
「もしかして、まだ何も知らないの?」
細い指を揃えて口に当て、めいが驚いて問いかけてくる。
「その、これから会う人がいろいろ教えてくれるって聞いてて……」
「佐倉さんたら。みつやちゃんがあんまり可愛いから動揺しちゃったのね。気持ちはわからなくもないけど、みつやちゃんにはあんまりだわ」
めいはこめかみを押さえる仕草さえ絵になる。思わず見惚れていると、にっこり笑いかけられて慌てて真面目な表情を取り繕った。
「じゃあ、ぱぱっと手当してとにかくお話を聞かなくてはね。たぶん、佐倉さんが会わせたいのは家の人だわ」
家の人、と聞いて美月夜が想像したのはめいの父親だった。めいのように優しく穏やかに今の状況を説明してくれるなら大変ありがたい。もう少し肩の力を抜いても良さそうだと思ったのは、とんだ早とちりだった。
包帯まで巻いてもらってから、手ぬぐいとたらいを片付けるのは自分でやりたいと申し出た。赤と茶色に変色した手ぬぐいを台所でザブザブ洗っていると、めいが救急箱を抱えて風呂場から戻ってきた。
「みつやちゃん、もういいよ。あとは浸け置きしておくから。佐倉さんと居間でお茶でもどうぞ。麦茶でいい?」
「はい、ありがとうございます」
手を拭いて振り返ると、めいからコップと麦茶の瓶を手渡された。
「これ、お願いできる?ごめんなさいね、お客様に。そろそろ寛治さんのおつまみがなくなる頃だから、夕飯の準備をしないと」
「そうだったんですね。お忙しいのにすみません」
返事をしながら感心した。それほど年は違わないのに、てきぱき動くめいは優秀な主婦だ。浮いて見える割烹着だけ清楚なエプロンに交換すればさらに完璧なのに、という感想は胸に留めておく。
「おい、こっちだ」
いつの間にか廊下で佐倉が手招きしている。めいから借りたのか、黒のスラックスに履き替えていた。板敷の廊下に出ると両側に整然と障子が並んでいて、居間とおぼしき部屋のところだけ明るい。佐倉はそっと障子をノックした。
「源さん、佐倉です」
「お入り」
想定していたより若い男の声が返ってきた。佐倉の背中から顔を出して部屋を覗くと、中で寛いでいたのは色っぽい長髪の男性だった。
「おや、これはまた可愛らしいお嬢さんだ。どうぞ、お座り。のんびりしていたところだったのでね。こんな格好で迎えてすまない」
古参であろう扇風機がカタカタ首を振り、男の前髪をそよがせると、花の香りでも漂ってきそうな風情だ。さっき知り合っためいもそうそう見掛けないきれいな女性だったが、この男はさらに桁違いだ。色素の薄い猫っ気の髪は緩く後ろでまとめられ、藍色の浴衣からのぞくうなじが攻撃的なまでに艶めかしい。座布団に胡座をかいて、酒の肴にきゅうりとなすの浅漬けをパリパリいわせているのに、少し薄めの唇や長いまつ毛の造形が美し過ぎて文句のつけようがない。
「こちらこそ、夕飯どきに申し訳ない。用件はこの子の事だ。ついさっき『ここ』にやってきた」
佐倉が小さな座卓を挟み、源さんと呼ぶ男の前に腰を下ろしたので、習って横に正座した。
「は、はじめまして、吉良美月夜です」
名乗るだけで緊張してしまう。なんとか目を合わせたが、薄茶の瞳に見返されると、硬直してつばも飲み込めなくなる。ふふっと鼻の付け根にしわを作って、浴衣の男は笑った。
「そんなに緊張しなくても。源崎寛治です。よろしく」
くつくつと楽しそうに笑う様がもう目に毒だ。そう思っても目が離せず、困惑する美月夜の態度がまた可笑しかったらしい。しばらく笑いを治めるのに時間をかけてから、源崎は佐倉に向き直った。
「ふう、お前のところにもようやくヤドカリがきたね。変化のときだよ、聡一郎」
青く透き通る酒瓶を手に取った源崎から、佐倉がそれを丁寧に取り上げる。源崎が氷の入ったグラスを手に取るまで静かに待つ佐倉は、いかにも目上の者に対する態度だ。でも、美月夜は違和感を持った。どう見ても、佐倉の方が源崎よりずっと年上に見えるのだ。源崎は二十歳を過ぎたばかりで、佐倉は三十路に近いようだと思っていたのだが。
「俺には荷が重すぎます。めいもいるんだから、ここに来たほうがいいと思って連れてきました」
苦りきった表情で佐倉が告げると、「だめだよ」と源崎はグラスに口をつけた。
「最初に出会った者と暮らす決まりだからね。聡一郎も独りになってから長い。私には来るべくして来たヤドカリだと思える」
佐倉は返答に困って黙ってしまった。源崎は埒が明かないとばかりに鼻を鳴らして、さっさと矛先を美月夜に変えた。
「置いてきぼりかい、お嬢さん?」
「え?はい、まぁ…」
美月夜の反応を観察しつつ、源崎はきゅうりを口に放り込む。
「気の毒に、この分だと何も聞かされていないのだろう?聡一郎は口下手なんだ。代わりにおしゃべり好きな私がお相手しよう」
口調はにこやかで気遣いが感じられるが、何故か彼の思惑に乗せられて操作されそうな意図を感じた。美月夜を捉えているのは、遊べそうな相手を見つけて上機嫌な猫の目だ。このままからかわれて遠回りをしていては、結局知りたいことなど何一つ得られず、はぐらかされて終わってしまいそうだ。
美月夜は意を決して、背筋を伸ばし顎を引いた。
「ヤドカリとか、迎える番とか、あなた方の話は私にはわかりません。ここは何処で、私はどうなったんですか」
源崎も佐倉も息を呑んで動きを止めた。急に二人の視線が肌を刺し、ピリピリ刺激を与えてくる。返答がないので、もう一度同じことを言おうかと前傾になると、源崎が「わかった」と片手を挙げた。
「肝の座った子だね、君は」
この一言から源崎の様子が変わった。明るく振る舞うのをやめた途端、彼を取り巻く雰囲気が妖艶さを帯びる。
「直球勝負なら受けて立とう。君は死んだんだ。ここは死後の世界だ」
「は…?」
予想のはるかに上をいく答えをあっさり放ってよこされ、美月夜は口を開けたまま固まった。
死?いま、この人死んだって言った……?
死という言葉から体の輪郭が霧散していくイメージを抱き、慌てて自らの腕を掴んだ。でも、手のひらより少し冷たい二の腕の感触は確かにここにある。
「何を言って……私はまだここにいます!」
「それは君が覚えているから在るように感じるだけだ」
カラン、と源崎がグラスを傾けて氷を鳴らす。
「こういう物もそうだ。氷を忘れなければ感じることができる。音や温度や形を覚えているまま再現しているんだ。正確に言えば、私が感じている氷と君の感じている氷は別物ということになる」
源崎は淡々と語った。疑いようのない事実なのだから仕方ないだろうとでも言うようだ。扇風機がまた彼の髪を揺らすが、今度はその風から凍てつく冬の気配を感じた。雪女もかくやという冷たい眼差しに愕然としてしまう。
「忘れたら、消えるんですか?」
佐倉もさっき言っていた。まだ消えない、と。記憶を頼りに存在するなんて、ひどく不確かで脆そうだ。
「さあ?忘れたことがないからわからんな」
美月夜が目の前で震え上がっていることは意にも介さず、源崎は酒を舐める。
「ただ一つ言えるのは、この世界は我々の意志のもとに存在している、ということだ」
「意志…ですか」
美月夜の呟きに、源崎は首肯した。
「我々はここを『中州』と呼んでいる。三途の川の中ほどに、死んでも死にきれないと思う者達が作り出した世界。人の思いというものは存外強いものだぞ。ここで一時を過ごし、納得できれば輪廻に戻るも良し、居座るも良しだ。私なんかもうどれだけ居座っているのか覚えていないな」
くくっと源崎が自嘲したとき、タイミングを見計らっていたのだろう、廊下からめいが声を掛けてきた。
「お話中すみません、夕飯の支度ができたのですが」
「ああ、ありがとう。では移動しようか」
どうやら話は一旦ここまでのようだ。過多な情報の処理に意識を持ってかれていたので曖昧に肯く。源崎が立ち上がると、佐倉はその場で頭を下げた。
「ありがとうございました。俺はこれで」
「え?」
美月夜は佐倉の急な退場の申し出に焦ってしまった。どうしたらいいのかわからず、佐倉のシャツの端を掴む。
「わ、私は?」
置いていかないで欲しい一心で、佐倉を見上げた。すると、また怒ったような顔で「いや」とか「その」とか呟いたが、これといった返事はなかなか出てこない。
「こんなに頼られているのに、置いて行きやしないさ」
断定したのは源崎だった。
「聡一郎も美月夜も、夕飯を食べていきなさい。めいはいつも作り過ぎるから丁度いいよ」
微笑む源崎は、もうさっきまでの妖しい空気を取り去っていた。今はまだ言われたことをまるのまま信じることはできないけれど、彼の言葉はインクの様に胸にじわりと染みこんで消えそうもなかった。
「もう離してくれないか」
掛けられた不機嫌な声で我に返ると、佐倉が居心地悪そうに横に座ったまま、解放を待っていた。すぐに手を離したが、ただでさえくたびれていたポロシャツは、引っ張られてみっともなく伸びていた。
「わ、ごめんなさい…」
さすがにもう気にするなとは言ってくれないか、と佐倉を伺うと、眉がハの字になっていた。
「お前は、俺に謝ってばかりだな」
ぽつりとつぶやくと、佐倉は立ち上がって源崎について行ってしまった。確かに、出会ってからこちら謝り続けていると自覚したが、何がそんなに彼を悲しませたのか、美月夜にはわからなかった。
ありがとうございました。
次回更新もできるように頑張ります!