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●とある朝・日常

 


「あっ、おはようツトム」

「おはよう」

 早朝――五時。いつも通りの時間、運動着に着替えて外へ出て、家の前の通りで柔軟をしていると、隣の家から同じく運動着姿の初見が出てきた。

 俺の姿を見るや、初見は満足気に頷く。

「うんっ。今日は、ちゃんと起きれたみたいね」

「あ、あぁ」

 昨日のことを言っているのか。

 俺がやらかした寝坊。これは相当根に持っているようだ。当分は言われ続けることになるかもしれない。

「悪かったって。この通りです」

 とはいえ、今回はどう考えても悪いのは俺なので素直に頭を下げる。

「よしよし。反省しているのなら許してあげましょう」

「ん、サンキュ」

 頭を上げると初見は再度頷いて、おもむろに長い髪をヘアゴムで後ろに束ね始める。いわゆるポニーテール姿。運動する時の初見はいつもこうして髪を後ろで結わえている。

「ちょっと待ってね、軽く体操する」

「おう」

 初見が屈伸や前屈をしている間、俺は腕時計のタイマーをセットする。

 今日も天気は晴れ。朝靄がかかった町の様子もハッキリ見える。

「お待たせ。いきましょ」

「よし」

 声を掛け合い、どちらともなく走り始めた。

 早朝のランニング。昨日はうっかり寝坊してしまったため不覚にもサボってしまったが、特別な事情がない限りは殆ど毎日行っている習慣である。

 走る。いつものペースでいつものコースを。

 空気は少しばかり秋めいて、肌寒い。しかし規則的な呼吸を繰り返すうち、徐々に程良い涼しさに変わっていく。

「……はっ、……はっ」

「…………」

 左側を走る初見の規則的な足音と、呼吸。

 ――今日は、少しペースが早いか?

 そう思って、少しだけ速度を緩めた。

「……っ、ツトム……っ?」

「あ、悪い。ちょっと速いかと思って」

「へ、平気っ……、さっきの、ペースで……」

「了解」

 微妙にペースを戻す。今よりは速く、先程よりはやや遅い微妙な加速で。

 初見は俺のペースに合わせてか、速く走りたがる傾向にある。その心意気は立派だと思うが、それじゃ身体が持たない。ランニングは多少ゆっくりめでも決めた時間をきっちり走る事の方が重要なのだし。

 とはいえ、今回は余計な気づかいだったようだ。少なくとも減速に違和感を覚えられる程度には、今日の初見はまだ余裕がある。

「……はっ、……はっ」

「…………」

 ――いつもこんなもんだったかな?

 違和感というほどではないが、微妙に走りがしっくりこない。一日間が開くと、それだけでペースが掴みにくくなる。何事もサボりはよくないことの好例だろうか。


 町内を一周して、自宅近くの信号まで戻ってきた。ここからは徐々にスピードを落とし、歩いて家まで戻る。走り終えてすぐに立ち止まると、筋肉の血流が悪くなってしまうためだ。

 タイマーを見れば、大体普段どおりの時間。……いや、少し早いか?

「はぁっ……はぁっ……!」

「お疲れ。初見」

「……お疲れ、さまっ……ツトム……」

 走り終えた初見は苦しそうだ。目をきつく閉じながら、肩を落としてうなだれている。

 だが、荒かった呼吸も数秒と経たず復帰してくる。

「ふぅっ……、今日は、ちょっと頑張ったよ」

「そうだな。やっぱペース速かったか。でもちゃんと走り切れたじゃないか」

「うんっ」

 嬉しそうに頷く。その表情は以前と比べ随分と余裕が感じられた。始めたばかりの頃は、この半分の距離でも、走り終えたら動けなくなってしまっていたぐらいだし。

「そろそろ、島本たちと合流してもいい感じかもな」

「えっ、本当?」

「あぁ。大分持久力付いてきたっぽいし、立ち直るのも早くなってきてるだろ。この調子なら多分もうついていけるよ」

「あはっ、やったぁ!」

 Vサインをする初見。成長を感じられて嬉しそうだ。

 俺が小学校高学年からトレーニングの一環として行っていた朝のランニングに初見が参加するようになったのは半年ほど前、高校入学と同時期のことだ。

 初見が参加するまで、俺は加山や島本と一緒に走ったりしていたが、ランニング初心者の初見が島本と同じ運動量をこなせるわけがなかったため、まずは俺と二人で短い距離から慣らしていこうという話になったのだ。

 だけどそれからはや半年。横で見ている限り、初見もかなり走り慣れてきた感がある。あまりだらだらしていてもマンネリ化するだけだし、ぼちぼちハードルを上げてみるのも悪くなさそうだ。

「けど大丈夫か?島本のペース、俺でもたまにきついぐらいだぞ」

「う、そんなに……、で、でも、頑張る」

「覚悟はできてるか?」

「できてる!ツトムと一緒に走りたい!」

「そ、そっか。じゃあこれからも一緒に頑張ろうぜ」

「うんっ」

 そんな会話をしながら家の前まで戻る。その頃には呼吸も完全に落ち着き、すっかり普段どおりの初見に戻っていた。

 そのまま手足や足腰を中心に、それぞれ事後の体操を済ませる。

「ほら、ツトム。背中合わせよう?身体ほぐさないと」

「あ、うん」

 はやくはやく、と急かされて、俺と初見は背中合わせに立つ。

 互いの背中をくっつけ、腕を絡め合った。走り終えた後の高い体温が、密着した背面からじんわりと感じられる。

「……、大丈夫か?」

「うん、平気。持ち上げるよ?」

「ん、おう……」

 初見が前屈し、俺の身体が宙に浮く。

 両手を上に伸ばして、背筋がぐーんと伸びていく快感。

 男女の差はあれど、身長と体格は大体同じな俺と初見。二人でストレッチをやるには調度良かった。

「……重くないか?」

「ん?うん、全然平気だよ?」

 返答と共に身体が小さく上下に揺れた。軽く膝の屈伸をしているらしい。

 今でこそ随分余裕そうにしている初見も、最初は潰れてしまいそうだった。それを思えば、なんというか、頼もしい限りだ。

「…………」

 とはいえ、男として女の子に軽々と持ち上げられているというのはなんとなく釈然としないものがあったが。

「今度はこっちだな」

「はーい、よろしくね」

「あいよ、っと」

 だからというわけではないが、上下を交代する時、ちょっと勢いをつけて初見を持ち上げてみせる。

「えっ、きゃあっ」

 初見の足が九十度ぐらい跳ね上がった。その負担は当然真下の俺に来るが、まぁこのぐらい余裕で耐えられる。

「い、いきなりやんないでよ!落っこちそうで怖かった!」

「わ、悪い……」

 叱られた。背中の上で、もぞもぞと体勢を直す初見。

 ――いかん、何を安っぽい対抗意識燃やしてんだ俺は。

 反省し、大人しく前屈姿勢を維持することに務める。俺が静止したことで初見も緊張を緩め、全身を弛緩させた。

「はぁ……」

「…………」

 俺の背中に寝そべった状態で、深呼吸をする初見。そのゆるいリズムが背中越しにつたわってきて、俺もそれに呼吸を合わせた。

「空、青いね」

「あぁ」

 初見のポニーテールが俺の頭の横に垂れ、風に吹かれて頬を撫でてくる。

「はぁー、なんかこうしてると気持ちいい。寝ちゃいそう」

「おいおい……」

 しみじみとそんなことを言い始める初見。

 まぁ、このままの体勢でいるぐらいは別にどうということもないが。

「あ、ごめん……。そろそろ降りるね」

「ん?別に平気だぞ」

「……お腹空いてきちゃった。前みたいに鳴ってるとこ聞かれたら恥ずかしい」

「……あぁ、そういう」

 そう言えば前に、そんなことがあった。

 持ち上げる時と違って緩やかに前屈を解き、初見を地に下ろす。

「なんかずっと浮いてたから、地面が変な感じする」

「わかる」

 そんな会話をしながら、改めて二人して体側や手足のストレッチを済ませた。


「じゃあ朝飯だな。今日はうちで食べていくんだろ?」

「あ、そっか、うん。じゃあお願いします。お風呂入ったらすぐ行くね」

「了解。じゃ、またな」

「うん、またね」

 互いに手を振って、それぞれの家に戻る。

 見送る初見の足取りは安定していて、今朝だけでも再三感じた運動面での成長を強く感じさせるものだった。

 ――初見。ホントに、慣れてきたなぁ……。

 高校から運動部に入ったということも大きいのだろう。

 小中と特に運動をしてこなかった――身体を動かすことに慣れていなかっただけで、初見はひょっとして俺なんかよりもずっと運動神経が良いのかもしれない。

 変わっていく。

 強く、前を向いて。

 ――俺も頑張らないとな……。

 肘を抱えて肩の筋肉を伸ばしながらそう意気込んで、俺も玄関をくぐった。



 シャワーを浴びて制服に着替えた辺りで初見が家までやって来て、俺の両親も交えた四人で朝食を取った。

 昨日約束した通り。とはいえこれも然程特別なことでもなく、初見がうちで朝食を取るのは割とよくある光景だったりもする。

 初見のことを気に入っている俺の母親は昨日そのことを話したらそれはもう大層喜んで、結果として今日の朝食では普段よりおかずを二品ほど多く用意していた。味噌汁の具も心なしか豪華だった。

 歓迎するのはいいことだけど、その辺りは別に普通でいいのに。

 子供の頃からの付き合いだし今更恐縮するとも思えないが、もしそれで初見が気を使われたと感じてしまったら本末転倒だ。

 ……それを話したら、俺は俺で気にしすぎ、という話になってしまったのだが。

 ともあれそんな感じで過ごしていると、ほどなく登校時間がやってくる。


「いってきます」

 朝食の後片付けをする母親のいる室内へ声をかけ、家を出て行く。洗い物の音と共に「いってらっしゃーい」と元気な声が聞こえてきた。

 一緒に食事をとっていた父親のほうはもう既に家を出ている。何事にもそつのない俺の親父は、朝食後は余計な休憩など挟まず即座に出社する習慣の持ち主だ。平日朝に起きて顔を合わせても大体いつも背広姿なのだからその用意の良さは徹底している。

 息子としてはそんな父の真面目さをできるだけ見習わなくては、とは思うものの……言うは易く行なうは難く。

 今日もこうして先を行かれてしまっている。

「ツトム」

 玄関を出ると名前を呼ばれた。

 家の反対側――閉じた門扉の向こうに先に家を出ていた初見が待っている。俺は手を振り返して、小走りで門の外へ向かった。

「おまたせ」

「うん」

 向かいの家の塀に預けていた背を離し、飛び跳ねるみたいにこちらへ一歩踏み出してくる初見。そのまま踊るようにステップを踏みながら、俺の左隣に並んだ。

「朝ごはん、おいしかったよ。おばさんによろしく伝えておいてね」

「あぁ。こっちこそありがとな。親父たちも初見が来てくれて嬉しそうだった」

「うん。ありがとう」

 はにかむ初見。おせっかい焼きの母さんの質問攻めに遭わせてしまったのは、ちょっと申し訳なくも思えたが。

「でも、やっぱりツトム、朝いっぱい食べるんだね」

「あ、やっぱ量多かったか?ごめんな、母さん調子に乗っていっぱい作るから」

「あっ、ううん。そういうつもりで言ったんじゃないよ。あのぐらいなら食べられるから」

「そうか?それならいいんだけど……」

「けど……」

「けど?」

 言いよどむ初見。

「その……やっぱり、朝走ったりしてるとお腹すくな、って思って」

「あぁ……、そりゃまぁ、そうだろうな」

「うーん。食べ過ぎ、かなぁ……」

 初見は遠い目をして空を見上げた。もしかして、朝食を食い過ぎたことを気にしているのだろうか。昨日もユキちゃんとそんな話をしていたし。

 運動しているのだから多少多く食べるぐらいがむしろ適当だろう。気にすることはないと思うのだが……、女子的にはそう簡単な話でもないのだろうか。

 ――食事、ねぇ。痩せる時より身体鍛える時にこそ重要かとは思うけど……、……と、そういえば。

 食事で思い出した。

「あ、話は全然変わるんだけどさ、初見。今日、桜さん来るって」

「ほんと?じゃあみんなでお昼ごはんね」

「あぁ。予定、大丈夫か?」

「うん。夕方までなら。その後ちょっと……用事、あるから」

「……あ……そか」

 初見の言った「用事」という単語に言葉を返しそこなう。

 ――そっか……。今日は第二土曜か。

 ちらりと。視線だけ移すようにして、初見の表情をみやる。

 でも――、

「顔色いいな、今日は」

「え?」

 俺の言葉におかしそうな表情を返してくる。

「いきなり何言ってるの?」

 呆れたような笑みを向けられて、ちょっと唐突だったかな、と思う。

 けれどそれでよいとも思う。今の初見の表情を見れば。

「なんにせよ、みんなでどこか行くの、楽しみだね」

「そうだな。楽しみだ」

「うん、あははっ」

 楽しげに笑う声。元気そうだ。

 安心する。

 だから、俺はそんな初見を見て、

「初見」

「うん?」

「今日も、騒がしくなるな」

 ……今日という日を、仲間たちと一緒に、精一杯楽しくしようと誓うのだ。


「うんっ、楽しくなるね!」

 そうして初見が元気でいてくれたら、それはとても喜ばしいことだと思うので。



 そうして初見と二人並んでの通学路。

「……よお」

「おはよう、ハッちゃん!ツトムくん!」

 二つ目の曲がり角に和泉とユキちゃんがいた。

 登校時には大体いつもの顔ぶれが揃うものだけど、この二人だけというのはちょっと珍しい組み合わせだった。

 自然な形で一つにまとまる俺たち。

「ユーミンは?」

「日直だから先に行くってー」と答えるユキちゃん。心なしか少し残念そうだ。

 加山と島本は先日のように神出鬼没が常なので、この場にいない理由も特に誰も触れず。

「あ、ユキちゃんさ、今日の放課後あいてる?」

「あいてるよ? なに?みんなでどっか行くの?」

 やたらと察しが良かった。

 ユキちゃん、遊ぶの大好き少女。さすがである。面白イベントの匂いは必ずキャッチ。

「桜さん来るって。みんなで昼飯食いに行こうか」

「やったー!」

 バンザイをする。そしてそのまま初見の手を取って、二人してキャンプファイヤーのようにくるくる回りだした。

 ……そこまで派手に喜ばれるというのもなんだか妙な気分ではあるけど。戸惑いつつも普通に応じている初見の様子も含めて。

 まぁ、楽しそうなのはいいことか。

「ああ、昨日桜が言ってたヤツか」と和泉が言う。今思い出したような顔だ。

「忘れてたのか?」

「オレはお前らと違って色々考えてるもんでね」

 軽く頭を下げつつ言った。いちいち反応が鬱陶しいヤツだなぁこいつは……。

 慇懃無礼というにも白々しい。

「和泉くん、彼女との約束忘れるなんてサイテー!」

 初見と抱き合ったまま、ユキちゃんが和泉をびしりと指差す。

「うるせえよ。誘ってやってるのはこっちなんだから感謝ぐらいしろ」

「べーだ」

「フン」

 またケンカだ。この二人の仲の悪さは一周回って相性が良いとすら見えてしまう。

「和泉くんにイジメられたーって、桜さんに言いつけちゃうよ!」

「勝手にしろ」

 歩みを再開してからも、俺と初見は二人のそんな牽制の合間に立たされることになった。

 しかし、攻撃しているのはユキちゃんだけで、今日の和泉の対応は割にクールだ。

 機嫌が良いのかもしれない。俺たち同伴とはいえ、桜さんと遊びに行けるのは和泉としてもやはり嬉しいんだろう。

 ……まぁ、それを指摘したら不機嫌になってしまいそうだが。

「むー!ユミくんがいたら和泉くんなんかやっつけてくれるのに…………っひゃう!」

 突如妙な声を上げたかと思うと、ユキちゃんが立ち止まる。突然のことに他の三人も足を止めた。

 見れば、うつむき、片手で顔を覆っているユキちゃん。

「ど、どうしたの、ユキ!」初見が慌てて側に駆け寄る。「大丈夫?どこか痛いの?」

 それに対してユキちゃんは、手を振って大事ないことをアピールしてくる。

「へ、平気……ちょっと、いきなり……」

「……?」

 声は平気そうだったが、苦しげなことに変わりはない。状況がわからず心配そうにしている初見だったが、俺はユキちゃんの様子を見てなんとなく状態を察する。

「今日、乾燥するってテレビで言ってたぜ」

「ああ……そなんだ」俺の言葉にユキちゃんがこくこく頷く。「っはぁ、いたた……風吹いてきたかと思ったら、いきなりさあ……」

 その涙声に初見も「あぁ、ゴミが入ったのね」と得心がいったようだった。ホッとしたように、ユキちゃんの髪を優しく撫でる。

「もぉ、びっくりさせないでよユキ」

「ごめ~ん、でも痛いんだよ~」

「目薬持ってる?」ユキちゃんにたずねる初見。

「うー、もってない」

「二人は?」

 と、俺たちのほうへ向き直って来る。俺は「持ってないよ」と言い、和泉も黙って首を横に振った。

「そう……、どうしよう?目をつぶってれば涙で自然に流れると思うけど……」

「う、うう、いたいよう……」

「あぁもう、目こすっちゃダメよユキ。傷ついちゃうから……!」

 痛がるユキちゃんに諭す初見の姿はまさしく「仲良し姉妹」なのだが、ただ我慢して目をつぶっていろというのもなんだかやるせない話だ。

 と、そこで俺の脇に立っていた和泉がユキちゃんたちのほうへ一歩踏み出す。「いい手があるぜ」と言わんばかりの顔。

 ……だが、俺は少々嫌な予感がする。和泉のあの表情は大体ろくでもないことを考えている時の顔だからだ。

「おいユキ、オレがなんとかしてやろうか?」

「……ふぇぇ?」

 涙目で和泉を見上げるユキちゃん。

 対する和泉はわずかに身をかがめながら、すかさずその小さな顎を指でくいと押し上げる。二人は自然と、至近距離で向きあうようなカタチに。

「え、え……ちょっと、なに……?」

 突然のことにたじろぐユキちゃん。

 だが、和泉はそんな彼女の様子を楽しむようににやりと笑って、

 ……ユキちゃんの瞳を、舌先で舐めた。


「ひゃ、あん……っ!?」

「………………」「………………」

 奇声を発して後ずさるユキちゃんと、思わず絶句する俺と初見。

 和泉のヤツはくっくと満足げに喉を鳴らしているが……、おい待て、おまえ今何しやがった……?

「取れたか?悪い、今ちょっと失敗したな。なんならもう一回――」

「バカ!調子に乗んな!」

 もう一回やる、という感じでユキちゃんに再接近していく和泉に俺はすかさず横あいから蹴りをいれた。右足――太ももの外側、膝で蹴られると激痛が走るあの場所だ。

「いぎ――っ!」

 突然の痛みに悲鳴を上げながらピョンピョン飛び跳ねる無様な和泉。

「てめえ!なにしやがる!?」

「おまえが何してんだよ!ユーミンの彼女だぞ!」

「バーカ、勝手に邪推してんじゃねえよ。目にゴミが入ったって言うから、なんとかしてやっただけだ」

「だからって、あんな……っ」

「あんな?」

「…………っ……」

 見透かしたようにニヤついている和泉に、俺は閉口せざるを得ない。

 ――……くそ、何言おうとしてんだ、俺。

 和泉がユキちゃんの瞳を舐めた時、俺は不意に心臓がドキッとするのを覚えてしまった。思えば随分と下劣な感情である。親友の彼女が別の親友に舐められている様子を見て胸が高鳴るなんて……、

「ゆ、ユキちゃん……平気か……?」

「と、取れたよ……! もう平気だから……」

 たずねるや、慌てて身を離される。

 ……俺まで警戒されていた。他意がないことを示そうとしたのが裏目に出てしまっている。悲しかった。

「うぅ……! 信じらんないよっ!」そして悔しそうに言う。「サイテーだとは思ってたけど……まさか、こんなことまでされるなんて……!」

「けどゴミ取れただろ。感謝ぐらいしろ」

 顔を覆うユキちゃんに対して和泉は変わらず満足げに舌なめずりをしている。

「でも、でもぉ……、目の上に一瞬、和泉くんの舌がざらぁって……、うぅ、まだちょっと感触が残ってる……っ!」

「それは悪かったな。ちょっと失敗したんだ。成功すれば触れずにゴミだけ取れる。器用なもんだろ?」

 したり顔で言っているが、舌が器用とはこれまた結構下品なセリフだ。

 ちなみに和泉は、サクランボを種と茎がつながった状態のまま残して食べられるという稀有な特技の持ち主でもある(ついでに言うと、サクランボの茎を口の中で結ぶことも当然のようにできる)。

「うー、あたしの……あたしの、おめめふぁーすとがぁ……、」

 ユキちゃんが再度泣きそうになっていた。ゴミは確かに取れたようだが、目尻をこすりながらうなだれている。

「最悪だよっ、ユミくんにあげるはずだったのにぃ!」

 憤るユキちゃん。

 ……とはいえそれもどうなんだろう?言いたいことはわからなくもないけど、果たしてユーミンはユキちゃんの瞳を舐めたいとか思うのだろうか?

 おめめふぁーすと。

 初めて聞いた。そんな言葉。


 と、そこで不意に真横から袖を引かれる。

「ん?どうした初見?」

 目の前では和泉とユキちゃんがまた言い争いを始めていたが、俺は隣に立っていた初見に視線を移す。

 そうして、わずかにうつむいていた初見の顔が持ち上がった時に目が合って、それが微妙にうるんでいるのに気づいて、ドキッとした。

 ……なんというか、色々な意味で心臓が跳ねた。

「つ、ツトム、……あのね」

 叱られることを恐がる子供みたいな顔をしていた。袖を引く力が少し強まる。

「私も……目、ゴミ入っちゃった……から……」

「…………おい?」

 タイミングが良すぎるだろう、とは思った。

 けれもど、そんなことは言えるはずもなく。

「で、……目薬、持ってないじゃない……だから、……」

 珍しく弱々しい感じで哀願される。

「さっきの、和泉くんみたいに……」

「…………」

 ……、舐めろってのかよ……。

 この場で?

 ――いや……、なんというか……それはダメだろう。

 色々と。

 ……瞳を舐める。その行為には、目に入ったゴミを取るという本来の意図以外に、含まれるものが多すぎる。

 舐めるという行為は最も踏み込んだ接触だ。手ならば相手の身体に触れるだけだが、舌はこちらの唾液という痕跡を相手に残す。

 まして目のように身体において重要な部位ともなれば、その感覚は一層強まるのではないかと思う。より明け透けに、より侵略的に、相手の身体に接触する。

 だから躊躇われる。

 今のところ、俺には目を舐めた経験も舐められた経験もなく、どっちの欲求もない。そんな俺としては初見にいきなりそんなことしていいはずないのだ。

 和泉はひどいヤツだ。あいつはどうせユキちゃんにそういうイタズラをしたかっただけで、善意なんてそれに隠れる程度の量でしかなかったに違いない。

 ……自分や和泉の行動に、そういった下劣な感情を想定してしまうのは単に俺の品性の問題で、本来の目的を果たすための手段でしかないと言われてしまえばそれまででもある。

「だ、ダメ……? 目、ごろごろするの……」

 弱々しく言われて一層心が揺れる。初見が苦しんでいるのを助けたいとは思う。

 だけど、だからこそ駄目だろう。

 例え外面がどうでも、本来の目的よりも前にあらぬ妄想を抱いてしまった俺は、情けないが間違いなく不純で、そんな俺がその不純さを隠して初見にそういうことをしてしまうのは、……なんというか、もう不徳と言っていい。

「ね、ねぇ……ツトム」

「…………」

 しかし、だとすれば俺はどうするべきだろう。

 俯いて痛がっている初見を助けるために、何をしてやれるだろう。

 初見の不安が蓄積してしまうまでの一瞬の間、俺は考えて、考えて――、

「っ……ほら、初見」

 ――答えを確信する前に、手を差し伸べた。

「え……?」

 薄ぼんやりと開いた瞳でその手を視認した初見は、困惑した表情を浮かべる。俺の意図が正確に解らないのだろう。

「その、舐めるとか、そんなヘンなことしなくてもさ、さっき初見も言ってた通り、目つぶってればゴミなんてそのうち流れると思うからそうしてろよ」

「え、でも……この、手は?」

「……目、閉じてたら、前見えないだろ。だからその間、俺が手引っ張ってってやるから。そうすれば、転んだりしないだろ?」

「あ……」

 そうして、まだ戸惑い気味の初見の手を、俺の方から握った。

 突然掴まれて驚いたらしい初見は一瞬その手を強ばらせるが、次の瞬間には応ずるように握り返してきてくれる。

「あ、ありがとう……ツトム」

「ん。平気か?これで」

「う、うん。しばらく……、手、つないでて」

 その言葉に、俺は安堵する。

 ――ま、これでとりあえずオーケーか。

 心を落ち着けて、状況を確認しなおす。

 思えば、そんな慌てふためくような話じゃなかった。

 直前に和泉が余計なことをした所為で、つい俺もヘンな方向で考えてしまいそうになったが、こうすれば何も問題はないのだ。

 ……大体からして、目に入ったゴミを取るために舐めるという理屈が既におかしい。目にゴミが入ったのなら、それが涙で自然に取れるまで待っていてやる。それが普通だ。

 加えて、こうして手を引いてやればユキちゃんたちを待たせることもない。

 確かに舐めればゴミは取れるかもしれないけれど、そんな恥ずかしいことを、こんな道の真ん中で初見相手にできるわけがないだろう。

 まったく……。


 とりあえず、学校へ向かおう。まだ言い合いをしている和泉とユキちゃんを止めて、初見が転ばないようゆっくりめの速さで。

 そう思い、俺が改めて前方に向き直ろうとした瞬間、

「イヤッホゥーイ!」

 と、軽やかな掛け声と共に、俺たちのすぐ近くにスタッと誰かが着地した。

 着地したそいつは両腕を広げて開放的なポーズを取りながら、飛んできた方向を振り返る。

「見ろ島本、この塀の間を突っ切ればお前の家からでもここまで五分以内に来れるぜ!」

 その言葉が発せられた直後、声の主の近くにドスンとまた誰かが着地する。

「ほう、本当だ。大発見じゃねえか」

「わはははは!この町には加山軍団すら知り得てない秘密がいっぱいあるようだぜ!」

 高笑いする高校生二人。

 ……加山と島本だった。

「……おまえら、明日からは普通に登校するって昨日約束しただろう」

 俺が呆れながらそう言うと、神出鬼没の二人組はそこで初めて気付いたとばかりにこっちを向いた。

「ツトムじゃねーか。初見ちゃんも。おはよーさん」

「お、おはよう……加山くんと、島本、くんも?」

 例によって目を閉じている初見は突然現れた加山たちにややおっかなびっくりな調子で加山たちと挨拶を交わす。

「二人とも何やってんだ?目つぶって手つないで、……肝試しごっこ?」

「そんな季節外れな遊びするか。もう秋だぞ」

 季節が合っていたところでそんな無意味そうな遊びしないと思うが。

 一体どこからそんな発想が湧いてくるんだか、こいつは。

「初見が目にゴミ入ったって言うから、目閉じてる間、手を引いてやってるだけだよ」

「はーん、なるほど。そりゃお前らしいね。んじゃま危なくないようにゆっくり行くか」

 うむ、といつもの調子で腕組みしながら頷く加山。

 今の発言のどの辺りが俺らしいのかは、よくわからなかったが。

「あーっ、加山くんと島本くん!」

「お?」

 俺と初見にとっての前方――加山たちにとっては背後から、ユキちゃんが声をあげて駆け寄ってきた。そしてそのまま、ぼふん、と振り返りかけた加山の身体に横から抱きつく。

「おお?なんだなんだ?」

「あーん、加山くーんっ。助けてよーっ!」

 ぐるんと背後に回り込み、加山の腰に手を回しながら隠れようとするユキちゃん。その頭を自然な所作で撫でてやりながら、加山はユキちゃんが指差す方向を見やる。

「…………」

 そこにはまたも例によって、憮然とした表情の和泉が立っている。それを見た加山は、「なんだよ、どんな悪党が出たかと思ったら和泉じゃねーか」と探偵のように下顎をさすりながら余裕げに笑んだ。

「ユキちゃん。和泉がどーしたって?」

「セクハラされたよっ!わたしが嫌がってるのに、無理やりっ!」

「なにぃー?」

 嗚咽を漏らすかのように加山の身体に顔を押し付けるユキちゃん。そのいかにも同情を誘う仕草を見て和泉は呆れた視線を向ける。

「おいコラ、ユキ。あんま調子づいたこと言ってると――」

「ふむ。ふむふむ」

 そんな和泉の反論を聞く気があるのかないのか、加山は神妙な素振りで何度か頷き、

「おい島本、和泉に落下傘」

「了解」

 ――そんな明らかに聞く気がない過剰防衛を命じていた!

「和泉、そこを動くな」

「んな――! ちょっと待て島本――!」

 指を鳴らしながら迫る島本。その剣幕に気圧される和泉。

 いやいやちょっと待て、確かに今回悪いのは和泉だったと思うけど、島本の落下傘はどう考えてもやりすぎ……というかおまえらはいくらなんでも話を聞かなすぎだ――――!



 そして、数分後。

 隔離されていた。和泉が。


 加山と島本が合流し、本日の登校はユーミンを除いた六人になった。

 平日の朝。まだ一通りの少ない道を、その六人は不自然な二列縦隊で歩いている。

 先頭に加山とユキちゃん。その後ろには俺とその俺に手を引かれている初見が続き、そしてその初見を背後からガッチリと固めるように立つ島本。

 前衛として先行する加山、後衛を預かる島本、さしずめ俺は初見直属の親衛兵か何かか。女子ふたりを襲ってくる敵がいようものならば一切の容赦なく迎撃を与えられる完璧な陣形……なのだそうだ。

 さっき加山がそう言っていた。そんなどこかで聞いたような設定がスラスラ出てくるこいつの気性に俺や島本は慣れたものだが、突如として完全防備の下に置かれた女子ふたりはやや困惑気味だ。

 ユキちゃんは単純な不慣れから。

 初見は目を閉じていて正確な状況がわかっていないから。

 ……というか初見はいつまで目を閉じているんだ。どうも予想以上に取れにくいゴミが入り込んでしまったらしい。

「ヒロインを守っての行進とは、男冥利に尽きる展開だな、島本!」

「おう」

 前後を歩く男子二名は無意味に楽しそうだった。


「……納得いかねえぞ、オイ」

 そして後方から和泉が低い声で言う。

 加山の命令を受けた島本による問答無用の落下傘は防げたものの、ユキちゃんへ狼藉を働いたことが明らかになった和泉は、罰として二人して最後尾を歩かされていた。しかも微妙に距離を離されて。

「ぬむうっ!?」

 しかし和泉が距離を詰めようとすると、すかさず島本が背後を振り返って、威圧を放つ。

 こちらから背中越しに見ていても、ゴゴゴと地鳴りめいた擬音を錯覚しそうなほど強烈な島本の気配。その眼光を直に向けられた和泉は思わず怯む。

 十年来の付き合いとはいえ、島本は顔がいかつくておっかないし、体格的にも俺の1.5倍近くある。慣れていてもああして凄まれると近寄りがたいものがあった。俺が和泉の立場だったとしても同じ気分だろう。

 実際、物理的なパワー面でも、島本と本気の取っ組み合いをして勝てる人間は俺たちの年代にはまず存在しないと思われる。

「チッ……」

 しぶしぶ歩調を緩める和泉。それを見て、島本は前方に向き直る。放たれていた威圧がその内側に消える。

「島本の杓子定規バカが。近づくヤツには問答無用で攻撃とはな」

 自動砲台かよ、と悪態をつく和泉。大げさなようだが、カタパルトめいた島本の鉄拳を食らったことがある俺たちにとっては的確な比喩かもしれなかった。

 島本は普通に数十枚単位で瓦割りができる。漫画のキャラばりの腕力だ。

「ま、調子に乗りすぎた和泉は少し離れて頭を冷やせー」

 先頭を歩く加山が楽しげに言った。

「団員同士のスキンシップにケチをつける気はねえが、清く正しい交流が我が加山軍団のモットーだ。ツトムと初見ちゃんならともかく、お前がユキちゃんにしたことは懲罰モンだぜー?」

「いやいや、俺と初見ならオーケーとかそんなことは別にないだろう」

 さっきの俺も一歩間違えれば和泉と同じようなことをしていたかもしれなかったわけで、それが加山の言う「清く正しい交流」になるとは思えない。

 まぁ、その健全志向自体には大いに賛成だけど。

 和泉も、ユーミンか桜さんがいればもうちょいおとなしいのだが。ユーミンがいればブレーキ役になってくれるし、桜さんがいると和泉はカッコつけたがるためだ。

「……フン」

 加山の発言に和泉はもう言葉を返さなかった。反省の沈黙というより、単純に反論するのがアホらしくなったというのが正しそうだ。


「そういやユキちゃん。ユーミンは?」

 一息ついたところで右側にたずねる加山。

「日直だからちょっと先に行っとくって」

「ほほう。まさかサボリってことはないと思ったが、さすがはユーミン」

 ちなみにこの集団で一番のサボリ常習犯は、ぬけぬけとそんなことを言っているこの加山である。次点が和泉。

 破天荒な連中が多いこの加山軍団だが、際立ってヘンチクなリーダーとナマケモノの和泉以外の面々はなんだかんだで割と真面目に登校している。

「加山くんじゃないんだから、ユミくんは学校サボったりしないよー」とユキちゃん。

 しかし、言われた加山も「ユキちゃんも手厳しくなったもんだなー!」と笑うだけだった。相変わらずのことだが、まるでこたえていない。

 時々思うが、こいつはマジで進級とか卒業とかできるのだろうか?

 加山は学校でもアホなことばっかりやっているせいで、まだ一年にも関わらず生徒会や風紀委員から目の敵にされている。F組の黒瀬曰く、「一年の中で一番放っておけない人物」とかなんとか。悪評とまではいかないものの、一般生徒としては高すぎる知名度だ。

 だが、本人はこの通り全く相手にしていないどころか、ブラックリスト入りしている自覚すらない。

 独立独行の加山。自分勝手とも言うが。

「安心しな。人様の迷惑になるようなことはやらねえから」と加山。「自分の行動には全部自分で責任を取る。あと俺はリーダーだから、団員の行動にも責任取る」

 そう言われると美しいが、俺たちの行動って全体的に見て、加山が介入した所為で無意味に拡大している感じがするのは気のせいか……。

 あと人様に迷惑はかけている。確実に。大体俺がそのフォローをしているのだから間違いない。

「加山くん、やっぱ言うこと大きいよねー」

 十年近く加山のこの手のフカシを耳にしている俺たちは今さら感動したりしないが、まだ歴の浅いユキちゃんだけは素直に感心していた。

「うちのクラスにも、加山くんのこと知ってる人いっぱいいるよ。有名人」

「へえ、そいつは光栄だなあ」

 有名人が必ずしも良い意味で使われないことを加山は知らない。というか知っていても多分気にしない。すべからくポジティブに捉えるヤツなのだ。

「クラスでも人気あるもんね」と今度は初見。「知ってる?加山くん、女子の中だとすごく人気あるのよ? 私も詳しくは知らないけど、ヨーコたちが言うには色々噂になってるみたい」

「ふーん、そうなのか」

 こちらは有名人という言葉ほど興味がなさそうだった。

「フン、勿体ねえヤツだな。ハーレム計画も夢じゃねえってのによ」

 そして、それを聞いた最後尾の和泉が懲りずにダメな発言を。

「……まぁ、ハーレムはさておいても、そういう浮ついた話って聞かないよな。加山って」

「頭の中がガキなんだろ」

 俺の言葉を拾ってなお、にべもない和泉。

「……でもまあ、いくら女子に囲まれてても無意味に愛想よく振舞ったりはしねえな」

「加山はいつもあんな調子だ」

 和泉の言葉に今度は島本が頷く。

 確かにいつもあんな調子――誰に対しても平等に愛想が良い。

「和泉は誰に対しても愛想ないけどな。それでもてるんだからすごいけど」

「……うるせえな」

 後ろを見つつ言ったらそっぽを向かれた。こういう持ち上げ方に弱いのだ。


「加山くん、カッコいいからねー。女の子にはモテると思う」

「そんなもんかねえ」

 そしてユキちゃんの言葉にも加山は相変わらず興味のなさそうな様子。あくびなんかしている。

「なーんか気のない返事だね。こういう話題って好きじゃない?」

「いや、そんなこともねーけどな」

「じゃあ、好きな女の子のタイプってどんななの?」

 ユキちゃんのストレートな質問に、俺と和泉は吹き出した。初見や島本は逆に興味津々という雰囲気。

 その性格的に色恋沙汰に無縁の加山だ。その手の話題の中心に据えられるのは珍しい。

「ふーむ……」

 そして割と真剣に考えている様子も珍しい。

 目を閉じて黙考する加山の顔を初見もユキちゃんも好奇のまなざしで覗き込んでいた。俺の後ろを歩く島本は相変わらず無言だが、その静けさは普段と少し違うような感じがする。

「…………」

 ――……というか傍で見ていても、加山の状況って嫌だなぁ。

 女子二人もいる中で異性の好みを聞かれるなんて、なんて居心地の悪さだろう。

 ……ちなみに今ここにはいないユーミンは、以前桜さんも加えた女子三人に囲まれて様々な嗜好の開示を強要されたことがあるそうだ。

 後になって「僕には男としての尊厳なんてもうないんだよっ」と俺の前でマジ泣きしていたユーミン。

 ……改めて想像したら胃が痛くなった。いじられキャラのユーミンには真剣に同情する。俺が一緒にいるときぐらいはできる限り助けてやらねば。


「和泉は――、」

 俺がそんな益体もない思考を渦巻かせていると、加山はぼんやりとなにかを言い始めた。

 ……って、和泉?

「和泉は、自分のことを理解してくれる女の子がいいって言ってた。中学の時にな」

「はあ――!?」

 声を発したのは後ろを歩く和泉だ。

「おいおい加山、お前突然何言って――!」

「ユーミンは――、」しかし加山は気にした様子もなく続ける。「――自分と一緒に夢を目指してくれる女の子がいいって言ってた」

 手を頭の後ろで組みながら、穏やかな口調で。

「修学旅行の時だったな。京都の旅館で、夜通しそんな話をした」

 加山の言葉は懐かしむような響きに満ちていた。

 色恋について聞かれたことで、かつてあった仲間たちとの出来事を思い出したらしい。

「――ありゃあ楽しかったよな。なあ?」

 そしてその言葉が、俺たちの中にもその記憶を喚起する。

 色々なことがあった。

 楽しい思い出があった。

 今この場において、初見は当時のその場面にはおらず、知り合っていなかったユキちゃんもその記憶を共有していない。けれども初見はそれに類する記憶を多数持っているし、ユキちゃんの中にも俺たちが語り聞かせた思い出話が詰まっている。

 実際に体験はしていなくとも、そこにそう大きな差はないようにも思えた。

「…………」

「………………」

「……」

「……………………」

「…………」

 しばらくの間、誰も声を発さなかった。

 その無言の時間の中に、なんとなく胸に詰まるような、心地よい感覚が俺たちの中に伝播していくような感覚があった。

 ……勿論、それは俺が勝手にそう想像しただけだが。

 実際はみんな違う理由で口をつぐんでいただけかもしれないが。

 とりあえず俺は、加山の言葉から懐かしい記憶を連想した。

 ……そしてそれは、なんというか、快い気分だった。


「わははは!」

 そんな中で、不意に加山は声を上げて笑った。

「いやいや、これからもそんな風に色々あるかと思うと……楽しくて仕方がねーよな、俺たち!」

 振り返る加山はとても楽しそうに笑っていて、


 それを見た俺たちも、それぞれの度合いで笑ったのだった。

 そうすることで、確信できる気分になれた。

 加山の口にしたように、今心に浮かんだような楽しい思い出たちが、これから先もどんどん増えて続けていくということを。

 ……今日の朝は、そんなことを思った朝だった。



 それはそれとして、


「ってか、結局良いコト言って話逸らしてただけじゃねぇのか?」

「ん?そういやなんの話してたんだっけ?」

 俺の指摘に、加山はキョトンとしている。

 すっとぼけているわけではなく、マジで忘れているようだった。

 さっきの加山は別に都合の悪い話題をごまかしていたわけではなく、本当にただ純粋に、ユキちゃんの言葉から昔のことを思い出して、喋っていただけらしい。

 色々裏があるようでいて大体は何も考えていない。それが加山だ。

 それで今回もこうしてすっかり煙にまいてしまうあたり、つくづくマイペースってのは恐ろしいものである。


 俺たちはこいつの思いつくままの言動に、いつも振り回されている。

 それが楽しいから、また困ったものなのだ。



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