●とある午後・放課後
愛すべき退屈さをもって、授業が終わった。
放課後となる。
「初見」
「うん。帰ろ」
どちらともなく帰り支度を始め、帰路につく。
登校時は揃うことが多い俺たちだが、下校時に全員が揃うことは少ない。
放課後ともなればなんだかんだでみんな忙しい。初見、島本、ユーミン、ユキちゃんの四人は部活をやっているので、普段放課後はそっちに参加している。桜さんに関してはそもそも学校が違うし、大学と高校とじゃ授業の時間帯も違うから、日によってはこの時間もまだ授業中だったりする。……まぁ、あの人の場合、サプライズ目的で予告なくこっちに遊びに来たりするけど、そういうのは例外。
みんなの部活がない日でも、学校帰りは各々用事を済ませに行ったりもするので、特段集まる予定がなければ放課後は集まらず、各自思い思いに過ごす……という感じだった。明確にそう決めたわけではなく、なんとなくそういうことになっているという、言わば暗黙のルールだ。
「今日はみんな、用事あるのかな」
「加山はバイトだって言ってた。和泉は……桜さんに会いに行ったりとかじゃないか?」
さっきも電話してたし。黙って消えたし。
和泉は基本的にこれから桜さんと会うといったことを俺たちに言わない。邪魔されるのが嫌だからだ。彼女と会うのだし、その思いは当たり前といえば当たり前なのだが、それでこうも筒抜けなのがなんともあいつらしいとも思えた。
「ユーミンたちも部活だしな」
「まっすぐ帰るの、私たちだけみたいね」
「……俺たちもどっか行く?」
「うん、いいよ」
何気なく出した提案に色よい返事があって俺は嬉しくなる。
集まるきまりはないとはいえ、顔を合わせれば普通に一緒に帰る。こうして寄り道をすることもある。
今日に限らず、帰宅部の俺は普段の帰り道に特別寄るべき場所もない。放課後は誰かの寄り道に付き合う、という流れは実際多い。ここに加山と和泉も加えた帰宅部三人組が揃うケースが多いのだが、今日は例によって二人ともおらず、代わりに部活が休みの初見が一緒だった。
初見と並んで廊下を歩き、階段を下っていく。互いの足音を聞きながら、二人でどんなところへ行こうかをアレコレと考えながら。
そうして校門前まで行くと、予想外の人物に出会った。
「あ、ハッちゃん、ツトムくん」
ユキちゃんだ。柱にもたれるようにしながら、キラキラとデコレーションされたケータイをカチカチいじっている。
「ユキじゃない」
「ハッちゃーん!」
勢い良く駆け寄ってきて、自然な感じで初見の手を握るユキちゃん。初見も特に気にした素振りはない。こうして見るとやはり、なんというか……二人はやたらと仲が良い。良い意味で無遠慮な距離感というか、「仲良し姉妹」という呼び名が相応しく思える。
「どうしたの?今日は部活でしょ?」
「うん」
初見の問い掛けにこくりと頷く。
見れば今のユキちゃんは手ぶらだ。登下校の時にはいつも持っているカバンもギターケースも持ってない。
「おなかすいたからー、外におやつ買いに行くのっ」
「おやつ?」
ユキちゃんはたまにこういうこどもっぽい口調になることがある。横で聞いている限り、わざとやっているのではなく自然とそうなるらしい。特にユーミンや初見の前では。油断……というか安心感かな。
「ユミくんは?」と初見が訪ねる。「部室にいるんでしょ?」
「うん。もちろんユミくんのぶんも買うよー。で、なににしよっかなーって考えてたとこ」
おとがいに人差し指を添えながら、ユキちゃんは左右にぶらぶら揺れた。初見のとつながりあった手が、それに合わせて振り子のように揺れる。
「ならユミくんも一緒に来ればよかったのに」
「んー、なんか授業中に降りてきたフレーズがあったみたい。わたしが部室行ったらもうさっそく楽器セットしてて何か弾いてたから。わたしが声かけても全然そこから動こうとしないんだよ……もぉ」
今度は拗ねたような口調で頬を膨らます。
俺はさっき授業中に見かけたユーミンの姿を思い出す。指でリズムを取っていたあれは、やっぱり何かのフレーズを思いついた瞬間だったらしい。
「……あぁ、いつも通りね」
「そ、いつものだね」
納得したような初見の言葉に、不満そうだったユキちゃんが優しげに笑む。こうして相槌を打っている辺り、言うほど不機嫌でもないようだ。
「……よっぽどすぐ弾きたかったのね」
「だねー。ユミくんああなると周り全然見えなくなっちゃうから。合わせて練習できないし、わたしも邪魔しないようにおでかけするんだ」
「なるほど」
一緒にいた時間は俺たちに比べればずっと短いとはいえ、さすがにユーミンのことがよくわかっているユキちゃんだった。
音楽に関して夢中になりすぎるところは、隙のない優等生であるユーミンの唯一の欠点……というか、愛すべき弱点のようなものだ。ユキちゃんもその辺りをよく理解して、許容している。
「ツトムくんたちは? どっか寄り道?」
「ん?あぁ……、」それまで初見としゃべっていたところで不意に話題を振ってこられて、俺はちょっとだけ言葉に詰まる。「けどどこに行こうかなって思ってて――」
「じゃあ一緒に行こう?三人で何か食べに!」
俺の言葉が終わらないうちに、わーっと手を上げながらユキちゃんが言った。
「……あ、あぁ。いいよな、初見?」
そのテンションアップの速さに若干面食らう俺だったが、初見は「もちろん」と余裕げだった。いつもじゃれつかれているだけあってか、なんだかすっかり慣れが見える。
「なに食べたい?わたしこの辺は結構リサーチしてるから色々知ってるよー」胸を張るユキちゃん。「おすすめは、そうだなぁ……どれもおいしいからまようよね」
「ユミくんの分もあるから持って帰れるモノがいいのよね?」
「そうだね。えっと、わたしはー、今川焼き食べたいかなっ!」
「えぇ? ちょっと、結局ユキが決めるの?」
「ダメ……?ハッちゃん今川焼きキライだっけ?」
「そうじゃないけど……もぉ、そんな不安そうな顔しないの。いいわよ。じゃあそれ行きましょ」
「わーい!」
言うが早いか、さっさと前に立って歩き出す初見にユキちゃんが続く。
「ツトムく~ん! 何してるの。早く行こうよ~!」
「あ、あぁ、今行く」
それを俺が慌てて追う形に。
先程からこの通り、ユキちゃんは会話のテンポがとても速い。テンションも高いし、少しの沈黙もなくコロコロと話題が転がっていく。
それに上手くついていければとても楽しいのだが、俺は未だに時折こうして会話のペースを持っていかれがちになる。元気さに押し負けるというか、若干たじろぐような感じになってしまうのだ。
今まであまりこういう子と喋った経験がないので、まだ咄嗟の対応に慣れていないのだろう。もっともそれは初見も同じだと思うのだが……現実はこの通り。ユキちゃんは初見と異様に仲が良く、初見もあのテンションにも全然怯んでいる様子はない。
それについては全く何の問題もなく、むしろとても良い事であると思うのだが、あの初見がこの短期間でこうも深く誰かと打ち解けるとは……、同性ともなれば、多少性格が異なっていても意思疎通は速いものなのだろうか。
人と人との相性って、難しい。もちろん良い意味で。
学校から駅前へと出て、少し歩いた先にあるアーケード街。その入り口付近まで来たところで、ふとユキちゃんが足を止める。
並んで歩いていた俺たちもそれに追従して一時停止。
「どうしたの?ユキ」
初見が尋ねると、ユキちゃんが入り口の付近を指差して言った。「ちょっと、あそこの人に挨拶してきていい?知り合いなの」
指の先には、アクセサリーの露店が出ていた。この手の露店はこの界隈には割と多く、ユキちゃんや和泉は時たま立ち寄っては購入しているらしい。
この露店はピンバッジ――いわゆるピンズを専門に取り扱っているようだ。電灯に立てかけたコルクボードに、色とりどりのピンズが刺し並べてある。
店主の人の自作なのか、独特の風合があった。手作り感があるというか、市販のものとは少し趣を異にしている。……とはいえ、いくらオシャレでもこういうアイテムは俺なんかには似合わないから買ったりできないけれど。
「いいけど……あんまりゆっくりしてたらユミくん待ちくたびれちゃうわよ?」
「ちょっとぐらい平気だよ。あんまりはやく帰っても、ユミくんの曲作りの邪魔になっちゃうし」
「でも……」
そうは言う初見も、露店の品揃えに少々興味があるようだった。視線が露店と俺たちの間を行き来して落ち着きがない。
俺は腕時計を見る。……うん、最終下校時刻まではまだ時間はある。ユーミンの曲作りがどれくらいかかるかはわからないけれど、ちょっと見て行くぐらいの余裕はあるだろう。
「あのさ初見」
「うん?どうしたの?」
「ちょっと飲み物買いたいから、一っ走りコンビニ寄ってきていいかな?」
「えぇっ?ツトムまで何言い出すの。そんなの学校の自販機でも購買でもいいじゃない」
非難しつつも初見の表情はやっぱり期待が見え隠れしている。
初見はこうした露店巡りに興味はあるがまだ慣れておらず、一人で見に行ったりはできないようなのだ。従って、ちょうどユキちゃんが一緒にいる今は、初見にとって安心して露店に立ち寄れるタイミングだろう。
「ユキちゃん、悪いんだけど初見置いてっていいかな?走ってくのに邪魔だから、鞄持っててもらいたいんだ」
「こっちが待ってもらってるんだからもちろんいいよー。ハッちゃんも一緒に見てこっ?あの人の作るピンズ、ちょうカワイイのいっぱいあるんだよっ」
「え、あっ……ちょっと、待ってったら、ユキ……!」
言うが早いか、自分で俺からリュックを奪い去り、初見の手を引いていくユキちゃん。
あの決断の速さと行動力にまた助けられた形になる。
ユキちゃんに紹介されつつ一緒にアクセサリー屋の店主に挨拶しながら、初見は最初ちょっと複雑そうな表情だったが、すぐに楽しそうに話題に混ざっていく。
ちら、とこちらを振り向いてくる初見。俺は小さく手を振って、アーケード街の入り口近くにあるコンビニへと向かった。
レジに立つ店員の「らっしゃいませー」というやる気のない声と、客の来店を告げる電子音に迎えられて、俺はコンビニのドアをくぐる。
人通りの多い駅前とはいえ、平日の午後ともなればコンビニ内の人気は少なかった。入り口で同じ学校の女子生徒とすれ違ったが、店内にはほとんど誰もいない。この系列店オリジナルのラジオ番組と、奥の方にいるらしい客の話し声だけが静かに響いてくる。
これがもう少し経つと、この辺りの学校から下校する学生たちで賑わうことになるだろう。
「さて、と……」
飲み物のあるコーナーは店の奥だ。他に何か買っておくものはなかったかを一瞬だけ思考して、とりあえず平気だろうと結論づけた俺は雑誌コーナーの前を横切って奥へ進む。
「……ん?」
冷蔵庫からいつも飲んでいるスポーツ飲料を取り出したところで――レジへ向かいかけた足が止まる。レジカウンターと俺の間にいた人物を見て、俺は思わず硬直してしまった。
二人組の男女――その一方、こちらに背を向けている男の方に見覚えがあったからだ。
――和泉……だよな?
和泉だった。いつもつるんでいる友人の一人。長身の割に細い体つきと、奇抜な色彩の頭髪。ほぼ毎日見ているのだから、見間違えるはずもない。
本来なら別に驚くようなことじゃない。同じ町内に住んでいる友人同士が、放課後に駅前のコンビニで遭遇する可能性なんてむしろ高い方だろう。
俺が驚いたのは、和泉と出くわしたことよりも、和泉が女の子と一緒にいることだった。
今日の和泉は放課後になると同時に、何も言わずに姿を消していた。俺はその素振りを見て、いつものように俺たちに邪魔されないように黙って桜さんに会いに行ったのだろうと勝手に思っていた。
だが、和泉と会話している女の子は桜さんではない。
知らない子だった。
聞き耳を立てるまでもなく、会話が聞こえてくる。
「私が言っているのは、そういうことではありませんわ。ちゃんと聞いていますの?和泉」
「うるせえな。聞いてるよ」
和泉の名前を呼ぶ綺麗な声は、どこかたしなめるような口調だった。やはり聞き覚えは、ない……と思う。対する和泉の声はいつものように気怠げだ。が、いつも以上に不機嫌そうでもある。
俺は咄嗟に菓子パンの棚の陰に移動した。別に隠れる理由もないのかもしれないが、割り込んでいって良いものか判断に迷ったのだ。
和泉はあの通り気難しい性格なので、こういう場面での乱入は基本的にはNGである。だから本来なら気づかないフリをして看過してもいいのだが……、今回はちょっと妙な空気だ。
位置が変わったことで、和泉と向かい合っていた女の子の姿が見える。すらりと背の高い、綺麗な子だった。ストレートに下ろしている髪は腰ほどまでありそうな長さで、制服と相まってやたらと上品な印象がある。制服――俺たちの通う高校のものとは違う。あれは、ここから程近い場所にある女子高の制服だ。あの辺は裕福な家が多い高級住宅街で、その高校もお嬢様学校として有名である。
「あいつが学校サボって単位ヤバくなってるなんざあいつの問題だろうが。確かにオレにも責任はあるのかもしれねえけど……」
「だから、そんな話はしていないと言っていますわ。相変わらず器だけでなく頭脳も小さいんですのね」
「貶すついでに上手いこと言ってんじゃねえよ!」
「あら嬉しい。もっと褒めてくださってもよろしくてよ?」
「褒めてねえよ!一秒たりとも褒めようとなんてしてねえよ!」
……なんだか嫌な予感がする。
和泉は、性格は色々アレだが見た目は普通に格好良いので、常に女子からモテる。必然的に女の子の知り合いは多い。
だが、当の和泉本人は基本的に女子が嫌いだった。普段の初見やユキちゃんへの態度を見ているとわかりにくいが、和泉は身内以外の女子は苦手意識を越えたレベルで嫌悪している。そうなるに至った経緯は……まぁ色々あるのだが、ともかく和泉がああして女の子、それも他校の、有名なお嬢様学校に通っているような女子と喋っているというのは、妙だ。
――また、女の子がらみでややこしいことになってない、よな……?
そう思ったから、俺はこの場に残ることにした。立ち聞きみたいであまり良い気分じゃないが、和泉が何か厄介事に巻き込まれそうなら助けないと。
――でもなんか、前にもこんなことあったような……?
あれはいつの事だったか。確か今年の夏前ぐらいに……、
「お姉様のお力をもってすれば、大学の単位取得など造作もないことですわ。今日欠席なされた科目だって、欠席をしたところで試験や課題で容易に挽回できるとの目算あってのことでしょう。心配には及びませんわ」
「だったら尚更どうでもいいじゃねえか。なんとかなってんだったらあいつの好きにさせてやりゃあいいだろ」
「……。だからあなたは愚かなのですわ和泉」
「んだと!?」
「だから、あなたは、愚かなのですわ。この愚物」
「言い直してんじゃねえよ!しかも呼び方が変わってんぞ!」
「!?」
「意外そうな顔すんな!気が付かねえとでも思ったか!」
肩を怒らせ、早口でまくし立てている和泉。相手の女の子の態度はあくまで涼しげだ。
……というか身内以外の女の子にああして言い返しているところはあまり見た覚えがないけど、和泉って本来は誰に対してもああなんだろうかな。
普段ヘンにクールぶっているからややこしいのであって、ああしてガミガミ怒ってばかりで偉そうにしている本性を見たら、世の女の子たちも和泉から離れていくのではないだろうか……ってまぁ、それはそれで問題がある気がするけれど。
「大局的には問題なくとも、単純に今日欠席をしたという事実を糾弾する輩がいるということを何故想像できないんですの?」
「糾弾……?」
「お父様やお母様。使用人たちもこのことを知れば騒ぎ立てるでしょうね。お姉様の能力や先見の明を全く信じず、うるさく注意することでしょう。まったく……無意味ですわ。寛大なお姉様ですからそんな的はずれな攻撃であっても甘受なさるでしょうけれど、だからこそ、かわいそうではありませんの」
「けど、事実じゃねえか。……あいつがだらしなくしてんのは、やっぱり問題だろ」
「でしたら、せめてあなたがお姉様を叱ってあげて」
「……俺が?」
「ご存知の通り、お姉様は怠惰なのですわ。特に最近はあなたと一緒にいることが楽しすぎて、生活が全体的におろそかになっていますの。前はこんなに頻繁に家にお帰りになられたりしませんでしたもの」
「………………」
「ですから、あまりなし崩しにお姉様の誘いに応じたりせず、時にはきちんと突き放さないと駄目です。お姉様にとっても、あなたに言われる方が無理解なお母様や使用人たちに言われるよりずっと受け入れやすいはずですわ」
「わかってるけど……仕方ねえだろ、あいつが帰らないでってせがんでくるんだから」
「相変わらず流されやすいんですのね。薄弱」
「っ、うるせえ……、そんなこと、ねえよ」
「あら、自信ありげ。相変わらず幼馴染にご執心だったり、ご友人の恋人に手を出したりしている方の発言とは思えませんわ」
「っ、関係ねえだろ! つうか何でお前がそんなこと知ってんだよ?」
「お姉様から伺っておりますわ。普段のあなたを見ていればその有り様も容易に想像できますし。それに夏休みは私とも――」
「ば、バカッ!こんなところで何言い出すんだお前ッ――!」
「……その癖、私とのことは認めてくださいませんし。一体何がしたいのやら。女性を振り回して困らせてばかりなんて、駄目な男ですわね」
「う、それは……」
「……。殿方として分別ある行動にまだ不慣れでも、それで不義理が許されることはありませんわよ。和泉。あなたがすべき行いが何なのか、考えなさい」
「うるせえな、わかってんだよ……そんなこと……」
…………。
会話をさり気なく聞いていたものの、未だに入るべきかの判断がつかない。
というか二人が何の話をしているかがよくわからない。女の子の口調や和泉の反応が真剣なのはわかるのだが、和泉がよく巻き込まれている修羅場とはなんだか明らかに雰囲気が違う。
俺が立ち入るようなことじゃないのかもしれない。立ち去るべきだろうか。
……ただ、理解できないなりに何となく会話の節々が引っかかる。
「ところで、……いーちゃん?」
「明らかにイメージと違うあだ名をさも今まで呼んでたみたいなノリでつけんな!」
「あら失礼。間違えてしまいましたわ。私、クラスメイトのいづみさんという方をいつもそうお呼びしているもので、つい」
「ウソつけ!お前そんな気安い感じのあだ名使うようなキャラじゃねえだろ!」
それは会話の内容だけでなく、時折交わされるこういうやりとりもそうだ。
「まぁ、性格と同じように女々しいあなたのお名前の話はさて置くとしまして」
「……お前、その息をするように人をコケにしたがる癖をいい加減とっとと治せ」
カリカリしているようでいて、普段俺たちに対して見せているような素の和泉の態度。こういう反応をやたらよく見せる相手を、俺はよく知っているような……。
「一つお聞きしてもよろしくて?」
「……なんだよ?」
「あなたは普段どのようにして、お姉様とくちづけをなさっていますの?」
「――はあっ!?」
「お姉様に対して、どのような手順でくちづけという行為に及んでいるのか、尋ねているのですわ。何かおかしなところがあって?」
「大アリだタコ!いきなり何ワケのわかんねえことほざいてやがる!?」
「日頃、お姉様と二人きりの時、あなたが殿方としての甲斐性をどの程度実践できているか、確認したかっただけですわ」
「知るかよ……なんでお前にわざわざそんなことまで――」
「最も、他の女性に冗談交じりで色目を使っているようではそれも望むべくもないことですわね。はぁ……、夏休みの別荘でも思いましたけど、お姉様もあなたの稚拙な舌技に、さぞご不満を抱いているに違いありませんわ。かわいそうなお姉様……」
「っ……う、うるせえなっ!」
「あら、今一瞬だけ言葉に詰まりましたわ。心当たりがあるのかしら?」
「ねえよ!嫌なこと思い出しちまっただけだ!」
……とかなんとか思っていたら、なんだか妙な流れになってきた。
動揺する和泉の様子は相変わらずいつも通りだが、状況以前に普通に居づらい空気になりつつある。何なんだこの話題は……?
「大体、余計なお世話だっつってんだよ。そんなこと、お前に言われる筋合いとか……ねえよ……!」
「まだそんなことを言って。いい加減認めなさい。駄々をこねているのはあなただけですわよ、和泉」
「……っ、その話は今は関係ねえ。ともかく、これはお前が気にするようなことじゃ――」
「でしたら、見せていただけます? 本当にお姉様がご満足するに足るものであるか私が判断して差し上げますわ」
「見せるって……、おい、お前何言って――んむっ!?」
女の子は自分の口に指を含んで軽く湿らせ、だしぬけに和泉の唇に触れた。
突然のことに驚いた様子の和泉を可愛がるように、指をそのまま唇に這わせる。
……てゆうか、あれって、本かなんかで見た覚えあるけど――、
「ねえ……どうですの?和泉。くちづけとは、されるのも気持ちが良いものなのでしょう……? 私、以前からとても興味がありますの……」
「なっ、何してんだよ……、気安く、触ってくんな、バカ……」
「舌を……出してはくださいませんのね」
「……ったりめえだ、タコ。こんな……ことして、誰かに見られたら、どうすんだよ……?」
言われて思わず身を固くするが、別に俺に気付いたわけではないようだ。安心するが、今の状況は完璧に覗き見であると思えて、なんだか罪悪感が湧いてきた。
「仲睦まじい男女と思われるだけではありませんの。何も問題はありませんわ」
「……っ!?」
「だから、こんなことだってできますわ」
言って、女の子はそっと両手を和泉の頭に伸ばした。そしてそのまま抱き寄せるように和泉の首に手を絡める。
密着するとまではいかずとも、自然と身体の距離は縮まり、互いの顔も近づいて――、
「ば……バカ……、お前、ふざけんのも……」
「和泉」
女の子は戸惑う和泉の頭の角度を調節し、自分も見上げるようにして正面から顔を合わせて、そして静かに……目を閉じた。
「ほら……和泉……」
「――!」
「今日は、あなたのほうから……、ん――」
「っ、――」
そうして、徐々にその顔が、唇が、和泉の方へ近づいていく。すぐ目の前で何かを待つようにしている彼女に、さっきまで軽い抵抗を見せていた和泉は次第に周囲を伺うような素振りを見せ始めて――、
「なっ……、ちょ……っと……」
――な、なんだよ、この状況……? 何しようとしてんだよ和泉……っ!
言葉をなくしているのは和泉ばかりではない。
やっぱり修羅場なのか?いつもの通り、和泉の不用意な行動が女の子を勘違いさせて、その後に本性を知ってやっぱり険悪になって、けど女の子の方が吹っ切れずに和泉を訪ねてきてるっていう、ややこしくもつれていくだけの厄介な状況。
いや、それにしてはさっきの雰囲気は変だ。本当はそうじゃないのかも。でも、実際に和泉はこうしてあの女の子から迫られていて、そしてこの状況はどう考えても和泉にとっても、その和泉と付き合っている桜さんにとってもよくないことで――、
――っていうか、なんで抵抗しないで応じようとしてるんだよ、和泉ッ!?
「っ、和泉ッ!」
そう思ったら、身体が勝手に飛び出していた。自然を装って声をかけたつもりだったが、実際に出た声は情けなく上ずっていて全然自然じゃなかった。
「ッ……、ツトム……!?」
「あら?」
和泉も、女の子も俺に気付いてこちらを向く。女の子は和泉の首に手を回して、二人はもうあと数センチで触れ合いそう……というぐらい至近距離まで顔を寄せていた。
この状況を傍目に見れば、俺はカップルの間に割り込んでいくものすごく空気の読めていない男なのだろう。
だけど割り込まずになんていられない。女の子をおかしな行動に駆り立てる和泉の性質には本当困ったものだが、和泉が恋人として付き合っているのは桜さんなのだ。
いくら相手に求められたって、どんな理由があったって、桜さんという恋人がいるのに、その人の知らない場所でそういうことを行うのは、きっと不実なことだ。
「あなたは、確か……」
「って、バカ!いい加減離れろ!」
だが俺がそんな思考を抱くと同時に、和泉も抱きついていた女の子を振り払う。さっきまで押され気味だった和泉だが、その動作には一切のためらいがないように見えた。
女の子の方もさしたる抵抗を見せずに、手を解いて和泉を開放する。そうして改めて俺の姿を流し見てから、「やっぱり」と何かに納得した様子で両手を合わせて上品に笑んだ。
「お初にお目にかかりますわ。和泉のご友人の方でいらっしゃいますわよね?」
「え?は、はい……そうですけど」
先程までの妙な空気から一変して、途端に嬉しそうな雰囲気をにじませる女の子。口調も和泉に対してのそれに比べて、やけに優しげで人懐っこい。
割り込んで邪魔したことを怒ってくるかと思っていただけに、その意外な反応に俺は戸惑う。
「お会いできて光栄ですわ。私は――」
だが一歩前に出たその子の後ろ襟を、和泉がすかさずぐいと掴んで引き下がらせた。背後から首を締められた女の子は息を詰まらせるが、大したもので苦しげな声一つ出さない。
「このバッカ野郎が!ツトムに見られたらどうするつもりだ!」
「っ……、見られて……何か都合の悪いことでもあって?」
「だから大アリだタコ!調子に乗るんじゃねえよ!」
和泉の怒号を、女の子は「ふっ」と小さく笑っただけで受け流す。軽くむせているみたいだが我慢しているようだ。人前で咳をする姿を見せないなんて、なんだか育ちの良さが感じられる。
「おい和泉、誰だか知らないけど女の子相手に乱暴はよくないぞ」
さっきは止めに入っておいて何だが、一応言っておく。和泉の態度があまりにも無遠慮だから驚いたというのもなくはない。
「……出てくるなりそれかよ、てめえは」
予想通りだったが、和泉はものすごく不機嫌だった。だが俺が割り込んだことについては何も言わなかったので、それに関しては正解だったようだ。
「おいツトム、お前なんでこんなところにいる?」
「別におかしくないだろ。普通に学校の帰り道だよ」
実際は寄り道の途中だが。
和泉はこの場所がどこかを今更になって思い出したようで小さく舌打ちをした。というか、見られそうな場所であんなことしてるなよこいつも。今回はそれで未然に防げたわけだけど。
「……いつからいた?」低い声音のまま言う和泉。
「ごめん、かなり前から。お前がまた何かややこしいことになってるのかと思って。悪いけど、そこから様子見てた」
後ろめたさはあったので素直に謝ると、和泉は「最悪だ……」と肩を落とした。
「お前、今見たことは全部忘れろ」前屈でもするかのように深く俯いて言う和泉。「そんで他の連中には絶対言うな」
「けど……お前……」
「うるせえな。お前が思ってるような事じゃねえんからいいんだよ……」心底面倒くさそうに言う。「こいつは……そういうんじゃねえんだよ」
口の悪さは基本的に強がりの表れだが、今日の和泉のそれは虚勢でも照れ隠しでもないことが長年の付き合いから察せられた。
やばい状況を脱して平静を装っているわけでも、秘密の場面に俺に見られて強気に出ているわけでもなく、たださっきの有り様を俺に見られたことが単純に気まずい……というか面倒らしい。
「私に対する評価はさて置くとしましても、せっかく声をかけてくださったご友人に、それはないんじゃなくって?和泉」
ここに来て女の子が開く。口を挟まずにいてくれた、というより俺たちの会話中を使ってさり気なく呼吸を整えていたようだった。
改めて、俺は女の子の姿を見る。
驚くぐらい綺麗な容姿。長い髪。そして近くで見ると思った以上に背が高いことに気付く。チビの俺より身長が高い女子なんて今時そこまで珍しくもないが、それにしてもこの子は背が高い。初見よりも高そうだし、桜さんにも近いぐらい……、
――ん?
「うるせえな。元はと言えばお前がワケのわからねえことをしてくるからだろうが」
「それで八つ当たりですの?ろくでもない人間ですわね」
「相変わらず酷い言われようだなおい!」
この子は一体、和泉にとってどういう相手なんだろう?
さっきの和泉の言葉や、このどこか冗句めいた会話の親しげな感じからは、今までたまに見かけてきた女の子みたいに和泉につきまとっているわけじゃないらしいのはわかったけど。
――でも、そういうんじゃない……って、どういうことだ?
「あの、すみません」
慎重に声をかけると、和泉と会話していた女の子は自然な所作でこちらを向く。
「その……あなたが誰だかは知らないけど、俺はこの和泉とは友達なんだ。それで、いきなり失礼かもしれないけど、こいつには一応彼女がいてさ。だから……その、さっきみたいなことは、冗談でもあんまりしないで欲しいっていうか――」
俺の言葉に女の子は一瞬きょとんとしてから、みるみる目を丸くして、さっきと同じような嬉しそうな表情を浮かべる。
「……素敵。初めてお会いした私にそこまでの事が言えるなんて、聞いていた通りの誠実な方なのですね梅山さん! それに比べて……もう、こんなご立派なご友人がいるというのに、和泉ったらなんて体たらくなのでしょう。少しは見習いなさい」
「黙れっつうの!ツトムも!さっき気にすんなっつっただろ!恥ずいこと抜かしてねえで、とっとと失せろボケ!そんで忘れろ!二度と思い出すなッ!」
だが、和泉はますます声を荒らげて俺を追い払おうとする。そろそろ手が出てきそうなレベルだ。これは。
しかし反応を見る限り、やっぱり和泉の言う通り、状況は想定したほど深刻ではなく、俺の介入は完璧に余計とまでは言わないまでも差し出た振る舞いだったようだ。
となると、俺は今相当恥ずかしいことを言ったんだな……。
後悔はしないけど、状況判断が甘かった。すこし反省する。
――しかしだとすると、この子は本当に何なんだ?
「平気なら、俺は帰るけど……」
「消えろ!そんで死ね!」
再三の反応に和泉が大事ないことを確信して、俺はその場を去ることにした。
この女の子の立ち位置やさっきの状況が少し気になるけど、俺がしゃしゃり出て行くようなことじゃないようだし。
本当は構いたいし、助けたい……けど、いくら近しい仲間にだって個人の領域くらいある。和泉にだって、無論のこと。そういう場所に、踏み込むべきじゃない。
するべきことは、和泉が本当に大変になった時に迷わず俺たちを頼ってくれるように、強い仲間であり続けることだ。
「じゃあ。和泉、また明日」
「……フン」
「ごきげんよう。梅山さん」
和泉は視線すらよこさず、一緒にいた女の子だけが相変わらずにこやかに別れの挨拶をくれた。……なんか、俺のことを気に入ってくれたらしい。よくわからないな。
その状況に苦笑浮かべつつ、俺はようやくレジへ向かう。少し時間を食い過ぎたかもしれない。
初見、怒ってなければいいけど。
「……って、あれ?」
会計を終え、コンビニから出たところで思い返す。
――あの子、なんで俺の名前知ってたんだ?
俺のことを「梅山」と苗字で呼んでいた。けど、和泉も俺もそれは一度も口にしていないはずなのに。
「……?」
違和感に首をかしげる。
「残念。未遂に終わりましたわ。でも彼が来ていなければ、危なかったのではなくて?」
「……うるせえな。そんなことねえよ」
「ま、そういう弱さは不義理ではありますけれど、あなたに関して言えば美質なのかもしれないですわね。その余計な優しさをもっと効率よく使いこなせるようになって、素敵な殿方になれるよう努力なさい」
「……チッ。好き勝手言いやがって」
小さく振り向くと、二人はレジの前にいて、そんな会話が聞こえてきた。
さっきと心象が違うからか、これはこれで和泉にとって悪くない友人関係なんじゃないかとも思えた。もうそんな風に思い直すのは都合が良すぎかもしれないが。
――あ。もしかして……?
不意に、彼女が俺の名前を知っていた理由が何となくわかった。
同時に、彼女が誰であるのかも。
ただ、引き返して改めて尋ねるのも変だったので、単純に「また会う機会があればいいな」と俺は思うことにした。