●とある夜・逃避行
左手に存在を感じた。
強く強く。今この瞬間も、それが自分を世界と繋げている。
「はっ……はっ……!」
耳に響いてくる呼吸。自分のそれと比べて乱れていて、辛そうな色を滲ませる。
初見の腕を引いたまま一気に路地を駆け抜ける。薄暗がりの中、放置されたゴミやガラクタが転がる足元はおぼつかない。
前を向く。先頭を走る加山と、その後ろにユキちゃんの手を引くユーミンが続く。対する俺の後ろには桜さん、和泉が続き、しんがりを務めるのは島本だ。
そして島本の更に後からやって来る、何か途方も無い気配。それを感じ取った皮膚が痙攣するような感覚を伝えてくる。
「急げ急げ! この先の抜け道まで行っちまえばこっちのもんだ!」
先頭を行く加山が振り返り、追い立ててくる。こんな状況だというのに、こいつはどこか楽しげだ。
「もー、なんなのー!?なんでこんなことになっちゃってるのー!?」
「頑張ってユキ!ほら、もう少しだよ!」
泣きそうなユキちゃんを励ますユーミン。確かに、何でこんな目に遭っているのか。
「ふっふっふ、この緊張感……気分は狩りだな和泉くん!」
「それは狩る側のセリフだろ!今のオレらは狩られる側だろうが!」
背後を走る桜さんと和泉の掛け合い。余裕と必死さ。見慣れた二人のやりとりが、今はなんだか心強い。
「…………」
最後尾を走る島本は声を発さない。無言のまま、背後に警戒を払っていることが感じられる。
背後から響いてくる足音。追い迫ってくるそれから逃げる。薄暗い路地裏の中を、活路を求めてひたすら前へ。
「初見。平気か?」
「だ、大丈夫……!」
搾り出したような声。だが限界まではまだ余裕がありそうだ。毎朝走っている成果がこんなところで生かされている。初見にとっても、俺にとっても。
最前線の加山が心なしか速度を上げた。歩幅が広がり、スキップでもするように軽やかに加速していく。他の面々も付いて行こうとして加速する。誰かの足がもつれそうになって、別の誰かがフォローする。
「ヘイ!見えてきたぜ野郎ども! 天国への階段がなっ!」
また振り返りつつ加山が叫ぶ。その縁起でもない表現はさておき、先の加速が俺たちを顧みないものではなく、一秒でも早くその言葉を言う――皆に希望を与えるためであったのだと理解できた。
路地の奥地、その一角に設置されたビルの外階段。入り口にはフェンスが取り付けられているが、施錠された金網状のドアを加山は躊躇なく蹴破る。
探検と称してこの界隈を歩いている時に見つけたルートだそうだ。ここを登って建物の屋上へ出ると、屋根伝いに繁華街の外へ向かうことができる……らしい。
「ゴーゴーゴーゴー!」
そのまま駆け昇っていく加山と、それに続く俺たち。建物自体は大した高さじゃない。階段自体は多少きついが。速度を生かしてこのまま駆け上がれる。
「加山!本当ここから逃げられるんだろうな!?」
階段に差し掛かったところで上に向かって叫んだ。階段は螺旋状になっているため、ちょうど頭上辺りから加山の声が返ってくる。
「安心しろ!今日以外にも何度か使ってる!そん時は和泉も一緒だった!」
言われて和泉の方へ振り返ると、若干苛立たしげな……いつもの調子で見返される。
「加山のルートの中じゃ、割とマトモなほうだ」
「……そっか」
何事にも文句の多い和泉がそう言うなら、本当に普通な方なのだろう。初見やユキちゃんに無理をさせずに済みそうで安心できる。
「加山」
最後尾――階段の真下で一時停止した島本がよく通る声で言う。
「来ている」
短い言葉が端的に現実を言い表す。螺旋階段を駆け登っていた加山が、それを受けて足を止めた。
「へえ、案外早いな。さすがは軍人。酔ってるっぽかったから上行っちゃえばそのまま逃げれると思ったんだが……、このまま追いつかれたら階段上ってるってバレちゃうな」
柵から乗り出して様子を伺う加山。俺も同じように柵を乗り出して、上に向かって言う。
「加山、俺たちで残ろう!ひとまず初見たちを先に帰さないと」
「同感だ!それ採用、ッと!」
答えつつ、柵を乗り越えて階段から飛び降りる加山。俺のすぐ近くを上から下へ通過していく。その唐突なダイブに、後ろにいたユーミンとユキちゃんが驚く。
「加山!大丈夫!?」
「心配すんなユーミン!余裕だぜー!」
数メートルの高さからの落下だったが、加山は返事をしながら獣のようにしなやかな着地を決める。転びも崩れもしない。崖を飛び越える狼みたいな動きだ。
さすがいつも無茶なことばっかりやっているだけはある。状況に対する慣れが普通じゃない。この程度の高さから飛び降りるなんて、いつものことなのだ。
「ツトムも早く来い!」
ニヤつきと手招き。
――くそ、なんであいつあんな楽しそうなんだよ……!
繰り返すが、そんな愉快な場面じゃない。各々の口調はレクリエーションみたいな呑気さだが、割と深刻な状況なのだ。
「和泉、初見のこと頼む」
すぐ後ろまで来ていた和泉に向かって言う。
「……お前も残るのかよ」とどこか納得いかない様子の和泉。
「加山と島本だけじゃ心配だからな」
「初見ちゃんが心配すんぞ」
言われて一瞬言葉につまる。本人が目の前にいるのにそういうことを言うなよな。
「悪い初見。このままここにいると危ないから」
「……う、うん」
俺が残ると聞いて、初見が不安そうな表情を浮かべる。それだけで胸が苦しい。この状況を作ってしまった自責が湧く。こんな顔を見ることのないように、こういう場面に初見をいさせちゃいけないというのに。
「危なく、ないよね?」
「あいつらだけだと危ない。だから俺が残る」
「それだと、ツトムが危ない目に遭うって意味じゃ……!」
「平気だ。危なくなる前に終わらせる」
安請け合いするみたいに言った。実際安い。それで初見が安心してくれるのなら。
「……わかった」
覚悟したような顔で初見は言った。ホントは納得してないんだと思うけど、今はちゃんと説得している時間がない。
「……無理は、しないでね」
「約束する」
言うと、初見がきゅっと俺の手を握った。つないだままだった手にもう片方が重ねられるカタチ。祈るように合わせられたその温かさを、俺は握り返して実感する。この手を伝って胸の奥まで、何かが届くように。
「行けるか?」
「……うん」
少しだけ力ない言葉に、俺は手を強く握り返して初見を鼓舞する。今だけでいい。俺が最速で事を終えて、初見に連絡を入れるまで……その間だけでも頑張ってくれれば。
「和泉、後は頼む」
「……フン。とっとと追いついて来い」
視線をそらしつつ、そう答える和泉。
「……行くぜ初見ちゃん」
そのまま初見の肩を叩き、手を引いて連れて行く。一連のぶっきらぼうな態度に、和泉らしさを感じた。慣れた空気。信頼できる。
俺とつながれていた手が離れ、和泉に連れられて行く最中一瞬だけ振り返る初見。それに俺は頷きだけを返した。何か言おうとしたけれど、言葉が出なかった様子だ。俺も何か言ってやりたかった。この状況を吹っ飛ばせるような言葉を何か。
けれどもそんな俺の肩を別の手が叩く。信頼するとでも言うように。
「君は相変わらず超クールだな、ジャスティス君」
桜さんだった。この人もまたいつもと驚くほど変わりない。
「桜さんも。平気か?」
「案ずることはない!自分の身ぐらい自分で守れる!フゥー!」
妙な裏声を出しながらカンフー使いみたいな構えを取る桜さん。これだ。こういう軽口と、思わず笑ってしまいそうになるような余裕。俺もこんな強さが欲しい。
「――んじゃ、また会おう。週末にまたどっか行こうではないか」
そして買い物に行くみたいな気安さで、軽やかに階段を駆け上がっていった。
その姿を見送ってから、俺は先程同様に柵から乗り出て上を見上げる。ビルの頂上付近から見下ろしてきていたユーミンと目があった。
「ツトム!」
必死そうな声が降りてくる。
「ユーミン。和泉がそっち行く!ユキちゃんのこと頼んだぞ!」
「わ、わかった!」
不安を残した様子だったが、その顔には決意が感じられた。あれでいい。和泉一人だとちょっと心配だけど、ユーミンがいれば暴走もしないだろう。
ユーミンの頭が引っ込むのを見届けて、俺は視線を下に移す。加山がこっちを見上げていて、島本は路地の奥を見つめていた。
「――行くか」
振り切るのではなく、抱え込むようにして決意を固めた。絶対なる生還の意思を呑み込んで、跳躍する。柵を乗り越えて、螺旋階段を飛び降りた。
風の音が耳元を過ぎた後には地面が待ち構えていた。着地する。加山よりも低い高さからの飛び降りだったので、よろけもしなかった。
「よ、来たか」
「あんま先走るなよ。他のみんなが混乱するだろ」
「そのためにお前がいるんだろ。俺がトップス、島本がバックス、そんでお前が間を固めりゃどこを攻められても完璧ってワケだ。信頼してるんだぜ、親友」
「……その編成、俺のカバーする面がでかすぎないか?」
ため息を漏らす。何やっているんだか俺は。面倒は好きじゃないのに。いつだって最善を考えているつもりなのに、こういう状況になるといつも、体が勝手に動いてしまう。まるで加山と呼応するみたいに。
だから反論しつつも異存はない。ずっと前からそうしているのだ。今更文句などあるはずもない。動いた後の状況で、最善を考えるだけ。ただ今は、目前に迫った状況を打破する意思を固める。
数秒を経ずして迫って来る足音。走ってきた路地の向こうから、先程も一瞬だけ見た屈強な姿がやって来る。
一人の男――追手の人数が一人になっていたことにまず安堵する。
濃色の軍服。来る途中で落としてきたのか、最初かぶっていた軍帽はなくなっていた。顔を真赤にして、沸騰したやかんみたいな気配を滲ませたその人物は、俺たちの姿を認識して疾走を緩めた。
ゆっくりと、怒りを踏みしめるようにして歩いてくる。
――話し合いによる平和的は……微妙な感じだな。
相手の様子を見て思う。どこまでも短気な仲間二人の性格を加味して考えたら、それはもう絶望的と言っても良い。
……一体、どうしてこんなことに?
現実逃避みたいに、走っている最中ユキちゃんがぼやいていた疑問が再発してくる。
事の発端は学校帰りに駅前で集合して、みんなでカラオケに行った帰り道だった。
繁華街を歩いていたら、その時前にいたユーミンが突然誰かにぶつかられて倒れた。幸いユーミンにケガはなかったが、ぶつかってきた相手はそのまま走り去ってしまった。そしてその後からやって来た数人の軍人たちの一人が、俺たちに因縁をつけてきたのである。
……そこからそのまま追い回されて、現在に至る。
軍人たちは怒っていたようだけど、その怒りの矛先はどう考えても俺たちじゃないはずだ。あのぶつかってきた連中か、はたまた全く別の誰かか、彼らが追いかけるべきは俺たちと違う相手だと思う。
「加山、なんとか説得できないかな?あの人が俺たち追いかけてきたのは誤解なんだって」
「無理じゃねーの?ありゃ完璧頭に血が上ってら。多分俺らとぶつかったヤツらのこと追いかけてたんだろうけど」
「やっぱりそう思うか?学生っぽかったよな」
「一人、俺らと同じ制服がいた。こんな場所にいて、あの頭の色となると樋口かな?」
「樋口……?」
……ということは、今回もまた樋口たちのグループか。だとするとあいつらのことだから、また何かやらかして軍人を怒らせたんだろう。
樋口が俺たちと同じ制服姿だったのなら、軍人たちも俺たちを樋口たちと間違えて追いかけていた可能性が高そうだ。夜だし、この暗がりじゃ見分けは付きにくいものかもしれない。
――それにしても樋口たち、毎回毎回余計なことを……。
ため息をつく俺だったが、雑談はここまでのようだった。
やって来た軍人が、俺たちのすぐ前――数メートルの距離までやってきている。
「見つけたぞガキども! ようやく追い詰めた!」
走りまわった後だけに荒々しく、そして忌々しげに呟く軍人の言葉に、俺は加山と顔を見合わせる。
「……ちょっと語尾が訛ってないか?」
「ああ、顔の感じとかも日本人っぽくねえ。アジア系辺境の徴収兵あたりかね?」
ひそひそとそんなことを話していると「あの色の軍服と肩の紋章は辺境管理軍の士官クラスだな」と島本が言った。「現地人が日本軍籍として登用されて、その地域の管理軍に配属されることがある。訓練か監査でこちらに来ていたのだろう」
「……他所から来た人か」
慣れない土地でストレスでも溜まっていたんだろうか。赤ら顔なのは加山もさっき言っていた通り酒を飲んでいるからだと思える。見れば足どりなんかもちょっとおかしい。
……それにしたって民間人に絡んできたら駄目だろうけれど。軍人なんてそんなもの、と言われればそれまでの話でもあるのだが。
「気が向いて町に降りてみれば……島国人は子供もこれか。全くもって気に食わない」
島国人――外国人がこの国の人を指して使う蔑称だ。最も、それは言うなればこの国がアジア系の諸外国を辺境呼ばわりしてきた差別意識の裏返しなのだが……。
ともかくその辺りの口調からも怒りのほどは明らかだ、が心当たりは前言した通り当然ない。
「ヘイ!話を聞いてくれ兵隊さんよ。なんだか知らないが誤解なんだぜ」
「黙れ。お前の話など聞いていない」
にべもない反応に加山が肩をすくめた。相手のそんな態度には少なからず反発を覚えるが、息を吐いて落ち着こうと努める。
――どうする?どう切り抜ける?
軍直下の管理警察には賄賂が通じると以前ハックルベリーが言っていた。その手段自体はあまり誉められたものではないが、それで助かるなら安いもの……とはいえそれは警察相手の話であって、軍――それもこうまで沸騰した外国の軍人にそれが通じるだろうか。
「……思った以上に話通じねえぞ。逃げるか?」
「もう遅いだろその判断……」
言い合いながらも足は徐々に後退し始める。
が、それを目ざとく見つけた相手が声を発した。
「逃がすものか。これを見てなお逃げられるか!?」
言いざまに抜き放ったのは腰の拳銃。軍人の基本装備にして殺傷の威力を持つ兵器。
「……ッ!」
それが、撃たれた。空を裂く破裂音の直後、コンクリートの壁に銃弾がめり込んでいる。島本から数センチだけ離れた場所。外したのではない。外れただけだ。酔っている所為か、照準が震えている。
「――……撃ったな……!」
「だからどうした。たかが島国人のガキの、ひとりやふたり! 次は外さん!大人しくしろ」
俺の言葉に過剰に激する軍人。引っ込みがつかないという雰囲気の反応に、さすがの加山も目を細める。
「おいおーい、兵隊さんよ。銃なんか撃っていいのかよ。無許可発砲とかって軍属でもダメなんじゃなかったっけ?お偉いさんから怒られるぜ?」
「貴様らの知ったことか。大人しく基地まで来い。逃げれば撃ち殺す!」
路地の出口までは、数十メートル。曲がり角までなら撃てても精々、一発か二発。でもあの腕なら、狙われても当たらない?
――悔しいけど……、怖い。
状況を見極めようと冷静になるが、心に震えが襲ってくる。
銃口を向けられること自体は実は初めてではない。けれど嫌な汗が背中を流れる。こういう場面は何度経験しても慣れない。
――くそ、どうする。考えろ……!
脳髄に熱を走らせる。この状況を脱するのに、最善の方法。
その時突如、路地裏に高音が響いた。ピリリリリリリ……と、どこか耳慣れた、断続的な音色が続く。
俺の携帯電話の着信音だった。そして――
「ナイスタイミング!」
突然の音に気を取られた軍人に生じた隙を悟って、加山が動いた。こちらに目配せをしてから、ポケットから取り出した小さな何かを投げつける。
加山の手から放たれた何かがゲームセンターのメダルだということを認識するよりも前に、俺は反射的に前傾して、駆け出す。
いつもと同じ。考える前に行動する。その場でできる最善の判断と行動を!
「ッ、貴様ッ!……ッ!?」
加山の投げつけたメダルに気を取られていた軍人がようやく気付くがもう遅い。
「――ふッ!」
低い姿勢ですぐ近くまで接近した俺は短く呼吸をして、低い体勢のままから片足をバネに足を振り上げる。突進の速度を利用しての上段蹴り……それは軍人の手元――黒光りする拳銃にヒットし、その威力をもってその手から弾き飛ばすことに成功する。
今更だけれど、メダルという加山の選択は良いチョイスだ。薄暗い路地裏。そこに差し込む微妙な明かりを、平らな金属片は反射してよく目を引く。
「島本ッ!」
「応!」
蹴り抜いた足を引き戻しながらかけた声に、答える声が聞こえた。
俺に銃を弾かれて呆然とする軍人目がけて、俺と同時に動いていた島本による横合いからのタックルが浴びせられる。二メートルを越す巨体だ。いくら本職の軍人だって、そんな相手に不意を突かれては受け止めきれるはずがない。もつれるように倒れこむ。
「……ふんっ」
島本はすかさず相手の裏に回り、重い気合を発しつつ絞め技に持ち込んだ。
柔道の有段者である島本。極端な体躯と怪力の所為で力技っぽい印象を受けがちだが、こうして見ると細かな技術も非常に洗練されていることがわかる。
「ぐ……!」
頚動脈を完璧に圧迫されて、程なく相手は失神した。
手足がぐったりと脱力する様子を見て、ひとまず危機を脱したのだと理解する。
「ヒュー、ナイスだったぜ二人とも。さすが加山軍団の精鋭たち」
口笛まじりに加山が言った。地面に落ちたメダルをちゃっかり回収しながら。
「いいタイミングでケータイが鳴ったおかげで助かったな」
「そーな。誰だか知らないけど」
ちなみにまだ鳴り続けている。時間にして数十秒程度だが、ずっと切らずにいるなんて随分と我慢強いのか暇なのか。
液晶を開くと、十一桁の数字と共に、見知った名前が表示された。
「なんだ、桜さんからだよ」
「なんだって?」
「もしもし?」
『こちら、かわいい桜。大佐、応答してくれ』
かわいさ皆無のドスの利いた声で言われる。
「……桜さん、どうした?」
『おー、ジャスティス君元気か?なかなか出ないから心配していたぞ』
その割には開口一番よくわからないネタ振りをしてきたけどな……。
『あ、そうそう。急ぎの報告というか連絡なのだが。今、構わないだろうか?』
「あぁ。どうしたの?」
『私たちは和泉くんの先導によって、無事に繁華街の外まで脱出したぞ。ちなみに今は駅前にいる』
「そっか。よかった。……みんな逃げ切れたって」
受話器を少し口から逸らして、加山と島本にも報告を伝えた。それを聞いた二人が満足げな表情を浮かべる。
『でな。初見ちゃんが今交番に行って、兵隊さんが暴れてるから捕まえてって通報したところだ。今多分そっちに向かってると思うから、被害者面しておとなしくしていれば、厄介事に巻き込まれずに済むかもしんないぞ』
「………………」
桜さんの報告に、微かな寒気を感じる。初見。心配してくれてのことだろう。その機転はすごく嬉しく思うが、……状況的にはすこしまずい。
警察がこっちに向かっている。軍人と会話している最中だったらむしろ良かったのだが、俺たちは既に相手を倒してしまっている。島本に絞め落とされている状況を見れば、正当防衛とはいえ俺たちが交番に連れていかれるのは必至だろう。
『んー?どうしたジャスティス君』
「あ、いや……なんでもない。連絡ありがとう。俺たちもすぐ移動するよ。そのまま待ってると危ないから、今日は解散するようにしてくれ」
『了解したー。気をつけて帰ってくるんだぞー』
脳天気な語尾に頼もしいものを感じつつ、通話を終える。
「桜さん、なんだって?」
尋ねてくる加山。
「警察がこっち来てるって。初見が通報したらしい」
「そりゃまずいな。早いとこトンズラするか」
驚くほど素早い加山の判断。発生する色々な事態にいちいち慣れが見られる。こいつが性質的に警察を好かないのは見ての通りなので、その辺りへの察しの良さも当然かもしれない。
「逃げるぜ島本」
「これはどうする?」とすぐ手前にある頭を顎で指し示す。島本は未だに軍人を押さえ込んでいる状態だ。
「適当にその辺に転がしとけよ。そしたらおまわりさんが見つけて保護してくれるさ。ツトム、これ頼む」
と言いつつ加山が手渡してきたのは一本の麻紐だった。受け取った俺はそれを使って軍人の両手を縛り、手近な機械のパイプ部分にくくりつける。雑な拘束だけど、時間稼ぎぐらいにはなるはずだ。
「オッケーだな。行こうぜ」
言いつつ、加山はもう走り出す体勢だ。島本もその言葉に頷いて、固定していた腕を離す。窒息ではないので島本が技を解除すればじきに目を覚ますはずだった。
そうして俺たちは手近な階段――和泉たちを先に行かせた脱出ルートへ駆け込んだ。
ビルの屋根を伝って戻ってきた繁華街の入り口――そこから見える通りには、数人の警官たちが闊歩していた。
ちなみに、逃走路自体は確かにまともだった。ビルからビルへ飛び移っていく時点で既にまともかどうかは怪しいものだが、加山の知っているこの街の抜け道の中ではかなり安全な方といって良かった。
この前似たような事態に陥った時に逃げるのに使ったルートなんてもっと酷かった。まさか下水道を通ることになるなんて――、
「……見ろよツトム。あいつら、俺たちのこと探してるかもしんないぜ」
そんな破天荒な悪ガキは今、柱の影から繁華街の様子を覗き込んでいた。相変わらず何が楽しいのか、不敵な笑みを絶やさないまま。
「あんま頭出すなって。見つかる前に帰ろうぜ」
時間も遅い。学生の俺たちがうろついているところを見られれば、それだけで何を言われるかわからない。
「それもそーだな。とっとと帰るか」
向き直る。反対側を警戒していた島本もそれに呼応するようにこちらを向いた。
「島本もお疲れな。帰ろうぜ」
「うむ」
頷く。
そしてさりげない所作で、俺たち三人は歩き出した。夜の町に背を向けて、家路につく。
「そんじゃーなツトム。また明日、学校で」
「また」
「あぁ、また明日」
結局そのまま何事もなく逃げおおせた俺たちは、住宅街の分かれ道で、解散することにした。また明日学校で、そんな何気ない挨拶を交わして。
「…………」
そのまま俺は交叉路に立ち止まって、加山たちの背中を見送った。
――さて、
踵を返して歩き始めたその時、
――……~~♪
ポケットに入れた携帯電話から、振動と共に音楽が流れた。
先程の着信音とは別の音色。少し昔の流行歌。
一音目で解る。反射のように、体が動く。
「初見か? どうした?」
『あ、ツトム』
電話を開き、受話器を耳に当てると安堵したような声が返ってくる。
初見だ。
『よかった。無事だったんだね』
「あぁ。なんとかなったよ。悪かったな。心配かけて」
無事を案じて電話をかけてきてくれたようだ。嬉しくなる。
『じゃあ、そろそろ帰ってくる?』
「うん。今駅前辺りだ。もうすぐ帰るよ」
『そっか。よかった……』
「……初見、もしかして家の前で待ってたりしないよな?」
『えっ?えっと……』
少しだけ上ずったような声。図星か。
「夜も遅いんだから一人で外にいたらダメだろ。俺はすぐ帰るから、心配しないで早く寝てろ。な?」
『で、でも……』
「待っててくれるのは嬉しいけど、俺の方が心配になるだろ。また明日、会えるからさ」
『そう、だね。じゃあ、今日はもう寝るね』
「あぁ、おやすみ」
『おやすみ、ツトム。ちゃんと帰ってきてね』
「もちろんだ」
強く返事をして、初見が切るのを確認してから電話を切った。
息をつくと、数十秒間の通話が反芻される。初見の言葉が胸の中で再生される。
その余熱が残っているような気がする携帯電話。
「……よし」
それを噛み締めるように強く握りしめて、俺はゆっくりと歩いて行った。