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●とある夜・一緒に

 


 急ぎ足の帰路を経て、初見の家の前。

 途中までは加山たちと一緒に歩いて来ていたが、途中から居ても立ってもいられなくなり結局走って戻ってきた。

 おかげでなんとか間に合った。初見も既に帰宅しているようで、居間の明かりがついている。ここで待っていればもうすぐ出てくるだろう。


 間の時間を使って、電話で「初見と外に食べに行くから夕飯はいらない」と連絡をいれた。そしたら母さんにまた怒られた。「それならウチで食べて行けばいいじゃないのよ」と。

 とはいえ、我が家で俺の両親と一緒に食べる夕食と、俺と二人でどこかで食べる夕食だったら、多分後者の方が気楽なはずだ。幼なじみの家族で実の親も同然とはいえ、だからこそやりづらい距離感というのもあるだろうし。

 気を使いすぎかもしれないが、とりわけ今日の初見はデリケートなのだから。

 たまにはいいだろう。このぐらい無理を言ったって。

 明日は早起きして、自分から家の手伝いをしよう。


 そうして、初見が出てくるのを待つ。

 曖昧な思考を渦巻かせている中で、ふと昨日の朝と逆の立場だなと思った。自然とそうなっただけだが、そのことに何気ない安堵感がある。この一帯の治安は別に悪くないが、夜道に女の子を待たせるわけにはいかない。

「おまたせ、ツトム」

「おう。おかえり、初見」

 そんなことを考えていると初見が出てきて、俺は挙手を返す。

 少し疲れているかと思ったが、意外に元気そうに笑ってくれている。

 その様子を見て、「よかった」と心から思った。色々あったけど間に合った。初見の心は今日もどうやら平穏で、俺はそれを維持することができたのだ。

 安心する。心から。

 達成感にも似たやすらぎで心が満たされる。


「じゃあ、行こうか」

「うん」

 そうして歩き出した。いつも通りに、ふたり、肩を並べて。


「どこに行こうか? 初見は何が食べたい?」

「んー、ハッチさんのところでいいんじゃない? 駅前まで出ると戻ってくるの大変だし」

「ハッチーのお店な。そうしようか」

 ちょうど一つ目の角に差し掛かったので、俺たちはそこを曲がる。

 夜の住宅街は薄暗い。家々の窓から覗く微かな明かりと立ち並ぶ街灯が照らす道。歩いているのは俺と初見だけで、暗く静かな世界はどこか深海のようだった。

 ……その中を、俺は初見と歩いていく。

「ねぇ、ツトム」

「ん?」

 夜道を歩きながら、少しだけ言いづらそうに声をかけてくる初見。

 俺は何気なくそちらへ振り向いて、次に続いてくる言葉を待つ。

「あの……、今日は、一緒に手つないで行かない?」

「へっ?」

 そしたらいきなりそんなこと言われて俺は戸惑った。思わず返事をした声が裏返る。初見が真っ向からそんな風に言ってくるのは……珍しい。

 何の前振りもないその言葉。

 ――………………。

 不意に昔を思い出す。小学生の頃。

 俺も初見も、今よりもっと子供で……、

 …………。

 急に言われて……距離感が、ぶれる。

 曖昧に向けられた手のひら。

 昔の、俺なら迷わず取ったはずだ。

 けれども今は……、今の俺は、この子の手を……、

「そ、そんな驚かなくたっていいじゃない。それとも……イヤ、なの?」

「……いやじゃないよ。ほら、手」

 言葉に思考を途切らせた。躊躇いを恥じる。俺がこの手を振り払うなんてできない。

 差し伸べると、おずおずと手を重ねてきた。俺が小さく力を入れるとぎゅっと握り返される。

「ど、どうしたんだよ?今日は」

 つとめて冷静に聞いたつもりが、声が微妙に震えていた。慣れない態度に俺も緊張しているらしい。

 ……今日は、今は、手を繋いでも、平気だろうか。

 ……これは初見にとって、必要だろうか。

 そんなさっきの疑問が俺の心中、絶えず浮沈を繰り返す。

「……別に。ちょっと、不安になったから」

 俯き加減に初見は言った。握る手の形が、掴むような形に変わる。より強く、より大きく、俺の手が包み込まれる。

「……珍しいな」

「珍しくなんか、ないわよ。……私、いつも不安で……」

「そうなのか?」

「……心配、してるんだから」

 こっちを見ようとしないまま言う。

 さっきは不安と言ったけど、初見は今、心配と言った。

 ――心配。何に対しての?

 聞き直さずとも俺のことなんだろうと思う。初見にかけている心配が山ほどあるという自覚があるだけに。一昨日の夜も、昨日の朝も、今日先程も……、俺が未だ不甲斐ないばかりに、初見の不安を増やしている。

「……そっか、悪いな。いつも」

「ううん。私こそ、ごめんね」

「は?初見が謝ることないだろ?悪いのは俺なのに……」

「違う、……ごめんね。私、ワガママだから、いつもツトムの重荷になっちゃう」

 ――初見は、何について謝っているのだろう?

 漠然とした俺との関係全体についてのようであり、最近あった具体的な出来事についてのようでもあった。


 けど、

「…………気にするなよ。そんなこと少しも思ってないから」

 俺は本心からそう言う。

「……本当?」

「ホントだ。いつもありがとうな」

 弱々しげな初見に気を使ったとかではなく。心からそう思うから礼を言う。

 思い返せば俺が初見にかけさせている心配だって今日一日だけでもたくさんあるのかもしれない……、あるはずだった。

 その時は他のみんなもいるので初見も平気な顔をするしかないけれど、今は俺と二人だけだ。抑え込んだりする必要もない。だから吐き出してくれていい。全部心から受け止める。

 そして俺は、それが嬉しい。心配されるだけの価値を、こうして言葉をかけてくれるほどの大切さを、俺に見出してくれているということが。

 ……俺も、初見のことを心配している。

 小さい頃から側にいるし、色々と複雑な問題を抱えている女の子でもある。俺はそれを知っている。知っているから無視はできない。

 けれど、それだけじゃなくて、単に俺がそうしたいからという部分もあるんだと思う。

 特に今日は土曜日で、精神的に疲れているだろう。だから今もこうして外に食事をしに行くことに応じた。初見を元気付けられる機会があるのなら、それをきちんと活かせるようにと。


 心配。心を配ること。それだけの価値――信頼、親愛。

 俺は初見にそれを捧げているつもりだ。繋いだ手から感じるこの温もりに、俺の全てを奉じたいと思う。だって、ずっと昔にそう決めたんだから。

 そして俺は初見からもそれを貰っている。果たしてそう思うことは、……それは俺の、自惚れだろうか?

 ……それだけじゃなかったら、いいと思った。


 そのために今日も、明日も、頑張ろうと思えるからだ。




 手をつないでの静かな歩みを経て、小奇麗な喫茶店の前に立つ。

 西洋風の構えを持つ入り口には暖かく灯るランプが置かれ、ツタが絡んだデザインの椅子に今日のメニューが書かれた黒板が立てかけられている。

 ここがハッチーのお店。

 何度となく訪れたことのある、俺のお気に入りの場所だ。


 ハッチーは近所に喫茶店を経営しているお兄さんで、俺たちとも昔からの知り合いだ。

 歳は今二十代後半ぐらいだと思う……けど、雰囲気はすごく落ち着いていて、立派な大人という感じだ。

 あの若さで一人店を切り盛りしているのだからそれも当然なのかもしれない。でも、だからといって全然偉そうじゃないし、俺たちみたいな子供ともきちんと同じ目線に立って喋ってくれる。

 地元の人達も多くが喫茶店の常連で、大人たちの間での評判もとてもいい。

 その様子は、俺と初めて会った時から変わらない。その時のハッチーはちょうど今の俺ぐらいの歳だったと思うけど、今の俺にはそんな立派な風格は全くもって備わっていない。

 ――それは悔しいけど、……それ以上に、

 ハッチーは俺にとって理想の大人だ。人生の目標と言ってもいい。尊敬している。


「こんばんはー」

「こんばんは」

 初見と二人して挨拶をしながら店に入った。軽やかな音のドアベルが鳴る。

「いらっしゃい……おや、ツトムと初見か。よく来たね」

 カウンターの向こうから声がかかる。すらりとした雰囲気のエプロンをかけたお兄さん――ハッチーだ。今日もいつも通りの様子で、カップを磨いたりしている。

「今日は?晩ごはんかな?」

「あぁ。ついでに月曜テストだから勉強しに」

「ごめんなさいハッチさん。長居するのが前提みたいで」

「構わないよ。土曜の夜なんだし、ごゆっくり」

 申し訳なさそうにする初見に、ハッチーは微笑を返してくれる。ありがたい。

「勉強するなら奥へどうぞ。今日は車も少ないから、初見の好きな窓際でもうるさくないはずだ」

「ありがとうございます」

 初見がお礼を言って、勧められた通りフロアの奥へ向かう。

 土曜の店内にはゆったりお茶を飲んだりしている人たちなどがいて、それなりに混み合っている。けれども騒がしいことはなく、穏やかな空気だった。お客さんの全てがこの店特有の空気を尊んでいるような、はたまた店自体がその空気によってお客さんを感化しているかのような。

 俺はハッチーがお店を開くよりも前から知り合いだけど、その気風が現れているかのようなこの喫茶店は、今や俺にとってハッチーの一部みたいなものだ。ハッチーは大体お店から出ないので会うためには必ずここに来なければいけないし、俺は敬意に比例するようなカタチで自然と足を運ぶ回数も増えていって、今ではすっかり常連だ。週に数回は必ずいるような気がする。


「ご注文は?」

 案内された席に俺たちが腰掛けると同時に、伝票を持ったハッチーがカウンターから出てくる。

「俺、いつものキーマカレー。あと牛乳」

「私も、いつものパスタで。あとコーヒーお願いします」

「かしこまりました。いつもありがとう」

 小さく笑んでカウンターに戻っていくハッチーを目で置いつつ、俺は一息つく。

 初見は肘をついて窓から外を眺めていた。少し高い位置に立つこの店のこの席から見える景色は遠くの家の屋根まで見える。ここからの眺めが好きな初見はご機嫌な様子だった。

「…………」

 そんな初見の嬉しそうな横顔をぼんやり見つめていたら、なんとなく俺も良い気分になって、無粋に声をかけたりはせずに、まぁ、ちょっとの間だけ、考え事でもしていていようかなと思った。

 別に考えたい何かがあったわけでも、このタイミングで何かいい考えが浮かぶとも思わなかったけれど、……とりあえず。

 とりあえず、明日のことと、初見のことを考えた。


 君は今、元気だろうか。

 楽しく、笑えているだろうか。

 今日という日は、幸せだろうか。

 明日は、楽しみだろうか。

 ……そんな、祈りにも似た思考が湧く。



「お待ちどうさま」

 ハッチーが料理を運んできて、俺と初見は普段どおりに視線を戻す。


「じゃあ、食おうか初見」

「うん。食べよう」

 そして二人で頷き合う。お互いの手にはフォークとスプーン。


「いただきます」

「いただきます」

 手を合わせた。


 その瞬間、俺は感謝の気持ちでいっぱいになる。

 世界に、人生に、仲間に。



 今のような幸福な時間が、明日も明後日も訪れるようにと、俺というヤツは切に考えている。



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