第六章 『竜之介、最大の危機』②
調理開始から一時間。真依は、トリュフチョコの外側の部分を作るためにミルクチョコレートを刻んでいた。分量は、板チョコ二枚分。冷蔵庫の中では、既に小分けされた生クリーム入りのチョコレートが、その出番を待っている。
「できた。……で、こっちのチョコレートは、どうするの?」
刻み終えたミルクチョコレートを指差す真依に、
「コーティング用のチョコは、湯煎で溶かします」
と、おじさんが返答した。
「湯煎?」
「大きなボウルに五十℃から五十五℃ほどの湯を張り、その中で小さめのボウルに入れたチョコレートを溶かすのです。因みに、この家には湯沸かし器がありますから、温度調節は簡単ですよ」
「なるほど。では、早速」
真依は湯沸かし器の温度を五十五℃に設定すると、大きなボウルに湯を注いだ。それから、刻んだチョコレートを入れた小さなボウルを浸し、溶かし始めた。
「小さいほうのボウルを沈めすぎると湯が入ってきちゃいますから、気をつけてくださいね」
「分かってるわよ」
そんな会話をしながらスプーンでかき混ぜていると、やがてミルクチョコレートは完全に溶けた。
「では、いよいよトリュフの形を作る作業です。冷蔵庫の中のチョコレートは私が取り出しておきますので、真依さんは水で手を冷やしてきてください」
「冷やすの? 手を?」
「はい。チョコレートは、人間の体温でも簡単に溶けてしまいますから。あ、最後はきちんと手を拭いてくださいね。チョコレートに……」
「水気は厳禁、でしょう?」
台詞の横取りをして真依が言うと、おじさんは、
「はい」
と、満足そうに頷いた。
シンクへと向かい、真依は、蛇口から出る流水に恐るおそる手を入れた。
「くぅお! くぅー……、くはっ!」
十二歳の女の子だとは思えぬ珍獣めいた声が、その口から出た。
それでも彼女は、「これも竜之介君のためよ」と歯を食いしばり、この荒行に耐えるのであった。
「冷やしたよ」
真っ赤な手で真依がテーブルに戻ると、おじさんが急かすように告げた。
「では、体温が戻らないうちに、この小分けしたチョコレートを手のひらで団子のように丸めてください」
「もし体温が戻ったら?」
「その場合、手を冷やし直さないといけません」
「それは、絶対に嫌!」そう思った真依は、小分けしたチョコレートを次々に丸め、あっという間に二十個の球体を完成させた。
「どう? おじさん」
「立派なものです。それでは、最後の仕上げです。その丸めたチョコレートをフォークや爪楊枝で刺してミルクチョコに潜らせた後、ココアパウダーを塗してください」
「ココアパウダー? そんなものがどこにあるの?」
「調理を始める前に、真依さんが飲んでいたでしょう? インスタントココア。あの粉末で結構です」
「そうかぁ」
「では、お願いします。コーティングのミルクチョコは、二ミリメートルの厚さが理想です」
「そんなことを言われても分からないよ」
真依は、フォークに刺した球体を溶かしたミルクチョコレートにさっと潜らせ、平たい皿に出しておいたココアパウダーの上で転がした。
同じ作業を二十回繰り返し、漸く全ての工程が終了した。
「お見事! これで手作りトリュフチョコの完成です」
並んだ手作りチョコレートを前に、おじさんがそう宣言した。
「……できた。私にも、……できた」
感動しながら真依は、「竜之介君にあげる前に、先ずは味見」と、トリュフチョコレートに手を伸ばした。
だが、
「修学遠足の時、食べすぎて失敗したのは誰でしたっけ?」
と、おじさんに注意され、彼女は出していた手をそっと引っ込めた。
「何はともあれ、これで竜之介君に手作りチョコを渡すことができるよ。おじさん、ありがとうね。ばんざーい!」
真依が両手を上げると、おじさんも一緒に両手を上げて喜んだ。
現時刻より、三十分ほど前。竜之介は、住宅街の通りをひとりで歩いていた。歩道などないが車も滅多に通らない、そんな通りである。
「そう言えば、今日、家に真依がくるって話してたな……」ふとそう思いだし、帰路を急ごうとしたその途端、彼の胸を、強烈な痛みが襲った。
「……」
声も出せずに地面に膝を突き、そのまま竜之介はうつ伏せに倒れた。
その様子を、背後に立つ香が黙って見つめていた。彼女の全身は、今、淡く金色の光を放っている。その光は、少しずつ、だが確実に、その輝きを増していた。
やがて、香は、眩いほどの光に包まれた。彼女の両眼に、遠く前方から猛スピードで迫る、白い乗用車の姿が映った。
「それにしても、よくできたなぁ。美味しそう」
そう呟きながら、真依がトリュフチョコレートに顔を寄せる。
その時。
ぽとり。チョコレートの上に、彼女のネックレスが落ちた。
「……」
真依がそっとネックレスを拾い上げる。
すると、次の瞬間、家の電話が着信を知らせた。
ワンコール、ツーコール、スリーコール目の途中で音が止まった。どうやら母親が出たようだ。
「はい。……はい」
母親の相槌を打つ声が、キッチンにいる真依の耳にも聞こえた。
「誰と話しているんだろう?」何の気なしに考えていると、
「……え?」
急に母親の声色が変わった。
「えぇ、では、すぐに真依を向かわせます。はい、……失礼します」
「私を向かわせる? どういうこと?」意味が分からないながらも嫌な予感が胸を圧迫する中、母親がキッチンに駆けてきた。
「どうしたの?」
そう尋ねる真依に、
「真依、落ち着いて聞きなさいね」
と、前置きして母親は答えた。
「今、竜之介君が、病院に運ばれたんですって」
「りゅ、竜之介君が? ど、ど、どこの病院?」
落ち着けなどと言われても無理だ。顔面蒼白となり、真依は聞いた。
「総合病院よ。昔、真依が入院していたところ。タクシーを呼ぶから、すぐに行ってあげなさい」
「う、うん」
ネックレスを握り締めて真依が返事をすると、母親はタクシーを呼ぶために電話口へと戻って行った。
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次回更新は、7月12日(水)を予定しています。
なお、次話は、原稿用紙18枚分と少し長くなります。お時間がある時にどうぞ。




