社交界デビューと婚約
祖父の部屋から自分の部屋に駆け戻ったアディは、右手の中に強く握り締めていたミニアチュールを確かめて、息を呑んだ。
「ウソ……みたい……」
走ったのと興奮しているせいで荒く弾むドレスの胸元を左手で押さえるが、今にも気が遠くなりそうだ。どうしたの? と心配して立ち上がったエリカに答えることも出来ずに、ただ呆然と手の中のミニアチュールを凝視する。
「アディってば。どうしたのよ? ルイスはなんの話だったの? やっぱり、年頃の娘が悪趣味すぎるって怒られたわけ?」
業を煮やして詰め寄っていたエリカは、いきなり顔を上げたアディに驚いて、一歩後ずさった。
「なっ、何よ?」
「どうしようっ!? ウソみたい……信じられない……っ」
「はあっ? だから何がよ?」
そろそろ苛立ってきたエリカは、美少女姿に似合わぬ険しい表情になって、アディを見上げた。
「アドリアナ・ラングストン、十八歳にもなってきちんと状況を説明することすら出来ないなんて、恥ずかしいと思いなさい。わたくしはいったい何があったのかと聞いているのよ?」
これ以上エリカを怒らせたら後が大変なのは経験上よく知っている。アディはなんとか説明しようと試みた。
「とんでもない驚きの展開よ。ああ、いえ、決定ではないんだし、実際どうなるかはわからないんだけど、でも夢みたいな話だわ。でしょ?」
「……これはかなりの重症ね。腰を据えてかからないと何も聞き出せないようだわ」
「いやね、エリカったら怒らないでよ」
「とにかく悪い話ではなさそうね」
諦めの溜め息と共にエリカは椅子を勧めた。
「で? 最初から聞くけれど、ルイスはまず何を言ったの? あなたの気持ちやなんかは脇に置いておいて、事実だけを順を追って説明なさい」
「わ、わかったわ。えーと、やってみる」
アディはごくりと唾を呑んで、話し始めた。
「部屋に行ったら、お祖父さまが社交界にデビューさせるって言ったの」
アディももう十八歳。本当なら一、二年前には宮廷に参内していていい筈だが、両親がなく、祖父もここ数年領地から出なかったので、その機会がなかったのだ。
「じゃあ、ルイスもやっと重い腰を上げる気になったというわけ?」
エリカが驚くのも無理はない。貴族の令嬢が宮廷に出入りする際、必ず肉親かそれなりの身分を持つ庇護者のエスコートが必要なのだ。娘のシルビア王妃が亡くなって以来、隠居状態で引き篭もっていたラングストン伯爵が、年頃の孫娘を伴って王宮に現れたら、たいそうな騒ぎになるだろう。
だが、アディはフワフワと微笑みながら首を振った。
「いいえ、お祖父さまは行かないって言ってたわ。私のエスコートは知り合いの爵位持ちにさせるんですって」
「……なるほど。ルイスだと、今度は孫を未来の王妃にと企んでいるのかってことになるものね。あまり大事にしないのが得策だと思ったんでしょう」
「何言ってるのよ、エリカったら。未来の王妃ってそんなわけないじゃない」
「ヘラヘラしている場合じゃないわよ? あなたが宮廷に顔を出したら、当然そういう話は腹黒い貴族連中の間を駆け巡る筈だわ。今の国王の母は、シルビアの後釜で王妃になったベルモント公爵家出身者。ところがこのベルモント公家に反発する貴族が多いのよ。かなり高圧的で気位の高い一族ですからね。わかる?」
突如始まった講義に、アディは戸惑いながらも耳を傾ける。自分のことが生臭い陰謀の中心として囁かれる可能性があるなら、聞き捨てには出来ない。勿論、そんなことが現実になるわけはないが。
エリカは続けた。
「で、今の国王は母の実家の影響力が強まるのを嫌って、ベルモント公爵家と折り合いの悪いグリム公爵家から王妃を迎えたと。そうして二十一年前に生まれた王太子がユージン王子。ところがこの王妃も十一年前に亡くなり、二人目の王妃が迎えられたわね。こちらはベルモント公家の息のかかった外国の王女で、エンリケ王子とマチルダ王女の二子を儲けているわ」
「ええ、そのくらい私だって知ってるわよ」
「つまりっ! 王太子は今、後ろ盾が非常に薄い立場だということよ。第二王子はまだ十歳ながら、母方の意向、まぁ要するにベルモント公家の後押しね。それで、兄を押し退けて次期王位を―――という声があるのは事実よ」
「そんな―――」
「そんなもこんなもないの。王妃の実家はベルモント公家の縁戚でね。しかもその援助を受けて国を運営しているのよ。だからベルモントの言いなりだけれど、いくら小国といえど一国の形態を成している相手の発言力は我が国も蔑ろに出来ないし、かといってれっきとした王太子を廃して弟を王にするなんて、国の乱れる元でしょう? 勿論、今のところはさすがのベルモント公家も、なんの瑕疵もない王太子を表立ってどうこう出来ないでいるけれど、王太子側もボーっとしていられないわ」
「はあ……」
生々しい話だ。だが重要なのはここからだった。
「つまり、王太子側は強い後ろ盾を求めている。ベルモント公家に張り合えるような、ね。そこでアディ、あなたよ」
「……」
「王太子は未だ妃を迎えていない。ラングストン家は国内有数の大貴族。しかもシルビアの後釜に座ったベルモント公家に対して何らかの意趣があると思われる。現にベルモント派の王妃が誕生して以来、当主は領地に引き篭もってしまった。それが年頃の孫娘を連れて王宮に戻って来た。となると―――という具合に話は広がっていくものなのよ」
「……」
エリカはすっかり気を呑まれてしまったアディに、宮廷内のドロドロした話で脅し過ぎたと思ったのか、口調を軽く変えて、これは一般論よ? と念を押した。
「ルイスは今回行かないって言うんだし、そこまでの話にはならないわ。―――でも、まぁよかったじゃない。こんな館に若い娘がいつまでも引き篭もっていてはよくないわ。せっかく多少なりともわたくしの血を引くだけあって、それなりの容貌に育ったというのに、宝の持ち腐れにするつもりかとルイスに腹が立っていたところだったのよ? これで華やかな世界を経験できるわ」
満足気に頷かれてアディは首を振った。本題はそこではないのだ。
「じゃあ、なんなのよ? 社交界デビューで浮かれていたんじゃないの?」
「違うわよ。そこは前振りというか、エリカが順を追って言えって言うから―――」
アディは気を取り直して脱線した軌道を修正した。
「お祖父さまは、そのぅ、私に、なんというか、あのぅ……」
「何よ?」
「縁談があるって言ったの」
「そりゃあ、そのくらいあなたが生まれた瞬間から、山ほど持ち込まれているでしょうよ。ことによったら生まれる前からよ。それがどうしたの?」
「これ……申し込んできた相手のミニアチュール」
手に握り込んでいた細密肖像画は黒髪黒瞳の若い男性のものだ。目を眇めて検分するエリカに、アディは上擦った声で、クライア伯の跡取りですって、と囁いた。
「え? だってそれは―――」
「そうなのっ! ローディス・クライアが跡取りになっていたの。あの意地悪な異母兄でなく! そして彼との婚約の打診があったのよっ? 私に!」
さすがに驚いた顔になったエリカにはお構いなしに、アディはミニアチュールを胸に押し当てた。
「夢みたい。嘘みたい。信じられない。だって……だって、ずぅっと忘れられなかった人と―――ううん、正直に言うわ。初恋の人と結ばれるなんて全ての乙女の憧れよ。それが自分の身に起こるなんて……っ!」
「よ、よかったじゃない」
「うんっ、ありがとうエリカっ! 本当にこんな素敵な展開になるなんて想像もしてなかった。いえ、想像はしてたけど現実になるなんてね? どうよ、エリカは想像してた?」
「いえ、その―――」
「それにしても何がどう転ぶかわからないと思わない? お祖父さまいわく、私にオカルト趣味の変わり者という評判があったせいで、なかなか良いお話が来なかったそうよ。あからさまに財産狙いと身分狙いのろくでもないのばかりで。それが領地を接するクライア伯家からのお話でしょ? 異母兄の時は私が断固拒否したから、今回も私が断ると思いつつ一応話しておいたんですって。向うは最近なかなか安定してきたし悪くない話ではあるって。悪くない、ですってよ? 冗談でしょ? 最高の話じゃないの」
「そりゃあ、アディにとっては―――」
「勿論、お祖父さまが言うには、相手の人柄も重要だし、何より異母兄が狩猟中に怪我をして突然転がり込んできた跡取りの座を上手くやっていけるか見極める必要があるって。そんなのわかりきってるんじゃないの、ねぇ? あのろくでもない異母兄より、彼の方がよっぽど優れてるわよ。私からそれとなく言っておいたけどね」
エリカはぐったりと肩を落とした。
「恋の威力はすごいわね。このわたくしに口を挟ませず、怒涛の勢いでこんなにもまくしたてるとは……わたくしに喋り勝ったのはアディだけよ」
「あ、あら、そう……?」
顔を赤らめ口を噤んだアディに、エリカは続ける。
「でもまあ―――よかったじゃない? 本人に伝えるってことは、ルイスの中である程度気持ちが固まっているんだろうし」
「エリカもそう思うっ!?」
「……まぁ、そうね。いずれにせよ、ローディスにとってもアディは大切な『お姫様』なわけだし、こうして向こうから話を持ちかけてきた以上、あっちも本気だったとしか考えられないわね」
「やだ、エリカもそう思う? でも……私が彼の『お姫さま』なんておこがましいけど、彼が私の『王子さま』なのは間違いないわ。なんだか宮廷でローディスに会えると思うと、嬉しいのに緊張しちゃう。彼に幻滅されないよう頑張らないとねっ」
どこか疲れた口調のエリカに、アディは満面の笑みを向けたのだった。