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初めての喧嘩

 挑んだ相手が悪すぎた。他人と言い争ったことなどなかったアディが、人の悪いエリカに太刀打ち出来るわけがない。アディは相手をするから深みにはまるのだとやっと見定めて、ムッとしたまま書架に向かった。


「あら、どうしたの? あなた、読書の趣味なんてないんでしょう? 以前ルイスが言っていたわよ? アディが勉強嫌いで困るって」


 ルイスって誰? と聞きかけて、それが祖父の名だと思い出す。違和感しかないがこのこまっしゃくれた美少女は、髪も髭も灰白色に変わったいかつい祖父の母親だったのだ。思わずそのあたりの話を聞きたいと感じたのを、なんとか堪えたところに、エリカは続けた。


「おとなしくて一見賢そうな風貌は見掛け倒しで、言うなればただの『地味な娘』だってね。愚かとまでは言わないけれど、自分を磨く向上心に欠けているんですってよ? これがわたくしの半分でも可憐だったら、女の武器を使ってぬくぬくと安楽に生きていけるんでしょうけれどね」


 延々と続くエリカの暴言を必死に無視して、アディは書架に並ぶ背表紙を指で辿っていく。

 セネイ河紀行。クローディア国旅行記。大国の狭間に生きる~オデッサ地方の歴史と風土。大陸を旅して。我が故郷、美しいリンカーティン……。

 (ああ、楽しい楽しい。どの本を読もうかしら)


「なあに? どうせ三ページももたないのに、やめなさいよ」


 (ムシよムシっ。腹を立てて返事をしちゃダメ。私が何か言ったら十倍になって返ってくるんだから……っ)

 キルメイ山の植物事典。高山に生きる植物。食べてはいけない木の実百科。美しい庭と建造物の設計。クローディア風庭園の作り方……。


「まあ、そういうのを聞いていたから、生前のわたくしはあなたに全く興味を持てなかったのだけれど。ともあれ思っていた程の間抜けでもなかったから、逆に驚いたくらいよ。勿論、ずば抜けた知性だの、素晴らしい理解力だの、目を疑うような美貌だのを持ち合わせているわけでもない、ごく普通の、あらゆる意味で凡庸な子だったけれどね」


 アディの指が震えた。何故ここまで言われなくてはならないのだ? 黙って耐えるのもこれ以上は限界だ。

 アディは乱暴に振り返った。


「何よ? 埃がたつじゃない」


 怪訝そうに眉を寄せたエリカに詰め寄る。


「埃なんて感じないでしょっ、あなたは幽霊なんだからっ」

「そうだけれど、わたくしはお行儀のことを―――」

「幽霊に私のお行儀についてあれこれ言われたくないっ」

「アディ―――」

「初めてのお友達になってあげるなんて、恩着せがましく言ってるけど、自分だって友達なんかいなかったんでしょ? そんな性格じゃあ誰も我慢できなかったに違いないわよ。私だってガマンならないわっ。あなたなんか私がいなかったら誰にも気付いても貰えないくせにっ。私だってうるさい幽霊なんか見えない方がよかった! 冗談じゃないわよ、私だけ貧乏くじを引かされて。もう二度と私に話しかけないでちょうだいっ!」


 言い捨てて書架に向き直ると、手に触れた本を確かめもせずに抜き取り開く。そびやかした肩が言葉同様にエリカを拒絶していた。

 何が起ころうと本から目を逸らしたら命がなくなると言わんばかりに、アディはページを睨みつけた。口元をきつく引き結んで文字列を追う。どうやら手に取った本は倫理学の本だったらしく、難しい文章が並んでいた。

 あれだけ口のたつエリカもアディの頑なさを見て取ったのか、話しかけてこない。それで意地になって見続けていくうちに、アディは普段なら頭に入らない本の内容に次第に引き込まれていった。


『―――美徳とは倫理と多くの場合重なるが同一ではない。何故なら美徳とは立派な行いを表し、倫理とは人として行うべき道を表すからだ』

 アディの感覚ではその二つは同じだ。そう思いながら先を読む。


『―――例えば、正直は優れた美徳であり倫理であるといえよう。親は子に嘘は悪だと教える。保身の嘘なら尚のこと罪は重いと教えるだろう。だが、正直に生きるとは難しいことだ。誰かを守るためにつく嘘は悪だろうか。倫理としては悪だ。何故なら目的のために倫理は歪まないからである。しかし、美徳としては善だ。他者のために倫理に反する人を責められる者は少ない。どちらが正しい行いなのか、この問いに答えが出ることはないだろう。ことほどさように正しく生きるということは難しいのだ』

 確かにそうかもしれない。アディの意識はそこでフラフラと本の内容から離れていった。


 エリカは―――エリカは口が悪くて、いつもムッとさせられる。口だけではない。性格もどうかというくらい悪いと思う。正直と言えば正直だが、あれでは生前から周囲を怒らせてばかりだっただろう。

 (きっと嫌われ者だったに違いないわ。私だって大っ嫌いだもの)


 だが―――彼女に向かって自分が投げつけた言葉が甦る。

『初めてのお友達になってあげるなんて恩着せがましく言ってるけど、自分だって友達なんかいなかったんでしょっ?』

『あなたなんか私がいなかったら誰にも気付いても貰えないくせにっ』

『私だってうるさい幽霊なんか見えない方がよかった。もう二度と私に話しかけないでちょうだいっ!』


 腹立ちまぎれに発した言葉だが、あの時の正直な気持ちだった。それでも……。

 〈正直だからって、あんなこと言ってよかったの? ……ううん、いいわけない……相手を傷つけるためだけに言った言葉が『正直』なわけないじゃない〉


 アディはのろのろと顔を上げた。自分の言葉は言うべきではない、言ってはいけない言葉だったのだ。しかも本心ですらなかった。誰からも放っておかれるだけの自分に、初めてできた友達だったのに。

 (いっぱい喋って……名前を呼び合う相手がいるだけで嬉しかったのにっ)

 胸いっぱいに苦いものが広がって、アディは表情を歪める。

 (謝ろう。そして今度は私から友達になってって言おう)


 だが、泣きそうになりながら振り返った先に、エリカの姿はなかった。慌てて周囲を見渡したがどこにもいない。もしかして怒ってどこかに行ってしまったのだろうか。それとも傷ついて―――消えてしまったのだろうか。

 

 アディは本を書架に戻して、とりあえず図書室内を見て回った。日除けを下ろして本を守っている広い室内は薄暗く、背の高い書架が並んでいることもあって見晴らしは悪い。その中を探し回ってもエリカの姿はみつからなかった。

 焦りで足を速めながら図書室を飛び出し、自分の部屋に戻ったがそこにもひと気はなかった。


 (あとは―――)

 心当たりを必死に思い出そうとするが、そんなものは何もない。それはそうだ。エリカの行動範囲はアディの傍に限られていたし、自分からどこかに行きたいと言ったこともなかったのだ。

 だがアディはその時一つ思い出して、部屋を飛び出した。

 エリカの部屋!

 行ってみようと提案した時に、エリカはどうでもいいようなことを言いながらも、目を輝かせていた筈だ。

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