幽霊姫と宮廷恋物語ifストーリー3 シビルに言いたいことは―――
宮殿中が光と色とお楽しみを待ちかねたざわめきに包まれ、仮装舞踏会が始まった。皆、思い思いの扮装と仮面に身を包み、まるで別世界に来たようだ。
会場に足を踏み入れたアディは、あまりの眩さに一瞬立ち止まった。マチルダ王女肝いりの衣裳は力が入り過ぎて悪目立ちが心配だったが、そんなことはなさそうだ。
結局、アディの仮装は『氷の女王シモネ』に決まったのだが、着替えの時間に合わせて着付けと髪結い担当のメイド四人を引き連れてきた王女を満足させるのは、本当に大変だった。
青と白のサテン地に銀糸刺繍とレースをあしらったドレスは、さすが王室専用の衣裳寮だけあって突貫工事で作ったとは思えない出来栄えだが、最後の仕上げや微調整は今さっきアディが着た状態で行われた。
髪に飾る小粒真珠とサファイア、ダイヤを散りばめた髪飾りの角度にまで吟味に吟味を重ね、さらには真珠を磨り潰した粉をこれでもかと肌に擦り込まれて、やっと……やっとマチルダ王女のお眼鏡に適ったのだ。
「ねぇ、こんなに人が多くてしかも仮面をつけているんじゃ、ローディスがどこにいるか見つけられるかしら? エリカ、探してくる気ある?」
「なっ、あるわけないでしょう!? 何故このわたくしがあの男を探しに歩き回らなくてはならないのよ? アディを好きだと言うなら向こうが見つけるべきよ」
憤慨しているエリカに構わず、アディは顔を赤くした。
「あの、ね? 夢じゃないのよね? ローディスが私のことす……すっ」
「好きと言いたいなら、そうはっきり言ったら? 奴の気の迷いじゃないなら、そんなようなことを口走っていた気がするわね。でも、あのフラフラ男のことだし、気の迷い説が濃厚じゃないかしら。シビルに縋られたら、またよろよろフラフラするんじゃなくて? そんなことより、アディはマチルダ王女やユージン王子を探した方がいいんじゃないの?」
「それは勿論そうよ。この衣裳のお礼も言わなきゃならないし、私の為にお手数をおかけしたお詫びも言わないと。ユージン殿下の仮装は何かわからないから探すのは大変だけど」
マチルダ王女は後のお楽しみと言って、兄王子の仮装が何か教えてくれなかったのだ。
王女自身は『海の使者』に扮して、碧と青の布地を海藻のように重ねたドレスに、大小の貝殻をあしらっている。そこに彼女自身を表す蔓薔薇と頭文字を象ったティアラで完成だ。本人はティアラのせいで仮装が台無しだと文句を言うが、出席者が王族に無礼を働くわけにはいかないので、印は必須だった。
ちなみにユージン王子はイルカ、エンリケ王子はツバメだそうだ。聞いてもないのに教えてくれたエリカの印は、葡萄だったという。
そんなことを思い出しながら中に進むと、すぐに赤毛の青年に声をかけられた。顔を隠しているからこそ、気軽な出会いを目論む手合いが増えるらしい。断ってもしつこい青年に辟易していると、失礼しますわ、と声がした。
「その方に私、お話がありますの。少し譲っていただけるかしら」
振り返ったアディは驚きで固まった。シビルだ。
蒼褪めた顔に仮面もつけず、真っ黒なドレスに身を包んだ彼女は、まるで幽鬼のようだった。儚げな美しさは相変わらずだが、信じられないくらいにやつれている。傷がかなり深かったに違いない。ドレスもよく見れば、手持ちの物を黒く染めただけなのだろう。どこか見覚えのあるそれは、以前は華やかな薄紅色の彼女の一張羅だった筈だ。
やつれたとはいえ美女の登場に赤毛の青年は浮足立ったが、シビルは彼を無視して固まったままのアディに向き直った。
「すっかりお元気そうですのね」
その言葉にアディは眉を寄せた。会ったら恨み言の一つも言いたいとは思っていたが、彼女の想像以上の変化に驚きの方が優っていた。
「まだ休んでいた方がいいわ。顔色が……」
「大きなお世話ですわ。それより、私はあなたに言いたいことがあって来ましたの」
「……」
「さぞ、私を愚かしく思っているのでしょうね。でも、最初から立派な家柄に守られたあなたに何がわかると言うの?」
「……」
「私が手に入れようとしたものはそんなに悪いものかしら。寄る辺ない小娘が自分の持つ数少ない武器を使って、父や土地や家を守りたいと足掻くことに何を責められることがあって? それでも結局、私は賭けに敗れて守ろうとしたものを全て失い、利用しようとした相手のお情けでながらえている有様ですわ。高貴な身分に守られたあなたからすれば、下々の者がなりふり構わず足掻いて、失敗して―――さぞ、面白い見世物になったでしょうね。笑いたければ笑えばいいわ。私は何もかも持っているあなたが心底憎いわ」
淡々とした口調、だが、血を吐くような述懐だった。ローディスとの関係をかき回され、彼を利用しようとされた恨み、命を狙われた恨みをこちらだってシビルにぶつけたいと思っていたのに、言葉が見つからなかった。
「逆恨みよ。持たざる者が持つ者に妬心を抱くのはわかるわ。でも、アディが奪ったわけでもあるまいし、彼女に憎まれる筋合いはないわ」
エリカの言葉はもっともだが、アディにはどうしてもその言葉が口に出来なかった。
何事もなくただ日々が淡々と過ぎていく子供時代。関わるのはエリカと、ほんの少しの使用人たちのみの静かなその世界と違って、ここに来てから色々な人と深く関わってきた。エリカとの関係だって変化した。
知らなかったことだっていっぱい知ったし、強く濃い感情を向けたり向けられることも覚えた。エリカの過去や、色々な想いがすれ違うことで、世の中に不条理が満ちていることも知ったのだ。
結局、アディの口から出たのは「それでも……私を助けてくれてありがとう」の一言だけだった。
「あなた……あなたって人は―――っ」
憎々し気に睨んでいたシビルの目が、信じられないものを見たかのように見開かれると、一瞬だけ、彼女は顔を泣きそうに歪めた。だが、すぐに立て直す。
「……お詫びはしませんわ。私、やっぱりあなたのこと大嫌いですもの」
「ええ」
「お礼も言いません。私を助けたのはそちらが勝手にやったことで、頼んでませんもの」
「……ええ」
「……でも―――あなたが助かってよかったですわ」
そう言い捨てると、シビルは踵を返した。頼りなげな姿と裏腹に、矜持に支えられたその足取りは揺るがなかった。おそらく誰の目もない場所まで行って、初めて膝を折るのだろう。
「いつか―――ちゃんと話ができるようになるかしら」
「知らないわよ。アディは甘いんだから。彼女にされたことを忘れたの? ま、まぁ、わたくしが言えた義理でもないのだけれど……でもっ、そんなお人好しじゃあいつか足元を掬われるわよ?」
「大丈夫。だってエリカが助けてくれるもの」
百パーセントの信頼を真正面から向けられたエリカは、唖然とした顔を次の瞬間真っ赤に染めて、バカっ、と叫ぶと人混みを縫って走り去ってしまった。照れたのだろうか。
ついでにローディスを探してくれるとありがたいのだけど、と見送っていたアディは、まだしつこく傍に立っていた赤毛の青年に気が付いた。彼は、シビルの去った方を指して呆れたように肩を竦めた。
「あの人と喧嘩でもしたのですか? 綺麗な人でしたが、恐い雰囲気でしたね。あまり関わらない方がいいですよ。黒一色でなんの仮装のつもりやら。あんな人と話がしたいなんてあなたは優しい人ですね」
大きなお世話だ。だが、そう言って伸ばされた彼の手を払いのけようと思ったその時、失礼、という声が割って入った。
「彼女は我が姫君だ。悪いが退いてもらいたい」
『夜の王』の格好をした全身黒ずくめのローディスは、仮面をしていても圧倒的な存在感と、滲み出る剣のような鋭い気配のせいで、正体が全く隠せていなかった。さすが『漆黒の貴公子』の通り名は伊達ではない。周囲の女性達が色めき立つのがわかる。
ローディスは秋波を送る彼女達の視線を歯牙にもかけず、アディの腕にそっと手を添えた。
「俺の氷の女王。なんて綺麗なんだ。俺は見劣りしすぎて君に相応しくないのではないかと、不安になる」
「ま、まさかっ。そんなわけないでしょっ」
真っ赤になったアディをローディスは慈しむように見つめる。赤毛の青年はいつの間にか退散していた。
禁欲的で硬い雰囲気が持ち味のローディスらしからぬ甘い笑みに、アディはあたふたしてしまう。人目の多い場であからさまな恋情を見せられ、照れと動揺で俯いていたアディは、その時周囲のざわめきの質が変わったことに気付いて顔を上げた。
波が引くように左右に割れた人垣の真ん中を歩み寄ってきたのは、赤を基調にした衣裳の『炎の精』か『太陽王』か。銀製のイルカのピンが胸で煌めき、高貴な身分を示している。
ユージン王子は仮面の奥で満面の笑みを浮かべながら、ローディスを無視してアディの手を取った。
「貴女の快癒を祈っていました。心から神に感謝を」
「あ、ありがとうございます。あの、ご心配をおかけして―――」
「そうですよ」
ユージン王子は怨ずるように微笑んだ。
「貴女になにかあったら、俺は生きていけない」
皆の注目が集まっているのを承知の上で、思わせぶりなことを言う王子に、アディは絶句した。周囲のどよめきが高まっている。大きな誤解が生まれていそうで恐すぎる。
とりあえず手を引っ込めようとしたところで、王子は抜き去る寸前の指先を捉えた。
「あ、あの……」
「逃げないで、俺の氷の女王。臥せっていた貴女の見舞いもせず、さぞ怒っているでしょうね。どうしても例の件の処理があって……いや、言い訳はしません。ただ今後は必ず俺が貴女を守りますから。それにしても、俺の考えた衣裳に身を包んだ貴女はなんて美しいんだ。想像以上ですよ。貴女のこの姿を見ることだけを愉しみに、寝る間も惜しんで執務にあたっていたが、素晴らしいご褒美を頂いた気分です」
「い、いえ、その、ですね―――」
「ああ、最初のワルツが始まるようだ。お相手をお願いできますか」
王子と最初のワルツを踊る未婚女性は、婚約者のみというのが慣例だ。固まっているアディの指先に王子は唇を落とし、上目遣いで顔を覗き込んでくる。
本気ですよ、と囁かれ、アディは声なき悲鳴をあげて飛び退いた。
「おおお、おっ、おふざけが過ぎ―――」
「彼女はそういう冗談に慣れていないので、その辺で勘弁してやって下さいませんか」
そう言って割って入ったのはローディスだ。彼は仮面を外して素顔を晒すと、辺りに響く声で、それに、と続けた。
「彼女は私、ローディス・クライアが生涯にただ一人と想い定めた人なので、ぜひ温かく見守って頂きたく」
主に女性達の悲鳴が湧く。
丁重でありながら一歩も退かぬ構えのローディスに、ユージン王子はうっすらと笑んだ。
「おお、誰かと思えばクライア卿か。臣下の恋路を邪魔立てするのはいかにも無粋だが―――俺とてただの恋する男に過ぎない。ここは正々堂々、競おうではないか」
最初からローディスに気付いていたくせに、わざとらしく驚いた顔を作った王子は、歌うような滑らかな口調で爽やかに宣戦布告をしてみせる。
アディは絶句している場合ではないと口を開きかけたが、王子の指先が優雅に唇を押さえてきた。
「今、王子の俺をフッてしまうと、恋敵である彼の立場が悪くなりますよ、アディ」
自分だけに聞こえる程度の小声で囁かれ、我に返ったアディはぐっと詰まった。確かにこの場ではまずい。ここまで言うからには、立場を慮った断り方を受け容れるつもりはないのだろう。
王子自身は競争相手を不敬罪に問うつもりはなくても、ぐだぐだしていたらそれこそ王子の心証を気にした宮廷人達がローディス排斥に動いてもおかしくない。
この狸王子め、とローディスが歯噛みする。アディはひきつり笑顔で彼の袖を押さえながら、藁にも縋る思いでどこかにいるであろうエリカを探した。彼女は去って行ったきり戻って来る気配もない。
心の中で、肝心の時に何やってるのよ、王族相手の上手い切り抜け方を伝授してよ、と理不尽極まりない文句をつけていたアディは、離れた場所にエリカの後ろ姿を見つけて顔を顰めた。彼女はマチルダ王女とドジャーの傍にいたのだ。
エリカの姿はあの塔でのひと時を過ぎると、再びアディ以外には見えなくなったので、ドジャー達は気付いていない。だが、今この場に彼らが加わると話が混迷を極めるのは間違いない。
アディは助けを得ることを諦め、笑って誤魔化すことにした。仮装した上でのおふざけ、この場の座興に過ぎないと見せるしかない。苦し紛れのアディの笑い声に、合わせるようにユージン王子の楽しげな笑い声。
ローディスもとりあえず笑って、と目で訴えると、彼も仕方なさそうに笑う。
こうして各々の思惑を秘めた笑い声が、自棄のように会場内に響いたのだった。