それぞれの初恋
名残惜し気に何度も振り返る少女の姿が木の陰に見えなくなると、少年は手の中の菓子に視線を落とした。自然と笑みが浮かぶ。
この菓子のように甘やかな少女だった。彼女のおかげで、今日が嫌な一日ではなくなったのだ。大切な母の形見を渡すほど惹かれた相手。名前を聞きそびれたのは残念だが、後で調べればいい。招待客で娘を同伴した者はそんなにいない筈だ。なかでもさして高位ではない貴族といえば―――。
頭の中で何人か候補を挙げていった少年は、そういえば、と思い出した。リカルド達が客の令嬢達の品定めをしていた会話を、一昨日たまたま小耳に挟んでいたのだ。その時、身分の低さでこき下ろされていたのがウェイン男爵家のシビルだった。
『将来に役立つ財力も身分もなく、外見もとび抜けて美しいわけでもない娘を連れて来ても、将来のクライア伯爵夫人になれる可能性は皆無なのに、ウェイン男爵の身の程知らずぶりはお笑い草だな』
そう言ったリカルドは、返す刀でこう嘲笑ったのだ。
『だが、うちのローディスとなら丁度釣り合うんじゃないのか。あいつは我が家の足手まといだが、名前だけは一応クライアだ。あんなんでも有難がって娘を差し出すだろうし、ローディスの方もあの程度のしみったれた家の娘が似合いだろう』
おもねるように声を合わせて笑った取り巻き連中が、その後口々にリカルドに相応しい家柄風貌の娘は誰かを議論し始めたところで少年はその場を離れたのだが、もしや今の少女は自分と併せて笑い者になっていたシビル・ウェイン男爵令嬢ではなかろうか?
他に思い当たる相手はなく、考えれば考える程そうに違いないという確信が強まる。
自分が好きになった相手までも、憎らしい兄に馬鹿にされていたかと思うと、歯噛みする程悔しかった。確かに自分は何の力も持っていないが、それゆえに彼女と釣り合う存在だというならいいだろう。家のために、身分を鼻にかけた高慢ちきと結び付けられる立場でないことを、有難く思ってやる。だが、いつまでも踏みつけられているものか。ただ先に生まれたというだけで安閑としている兄よりも、必ず上に立ってやる。
そして彼女を―――。
能無しの兄が馬鹿にした彼女を、誰もが羨むような男になった自分が―――。
それ以上考えるのは恥ずかしいのでやめておく。だが、将来成長して再会した時に、彼女に好かれるような男になる。そして―――と、少年は未来に希望を抱いた。個人的な後ろ盾となる財産や身分を持たない少年には、厳しい未来だ。
「でも―――やる。やれる。あの子がオレのお姫さまだ」
一方、森を出た少女はどきどきとときめく胸を押さえながら、そっと手の中の指輪を見た。
「きれい……」
銀の台座に嵌まった石は紫に光るアメジスト。十二歳の少女が持つには早すぎる大人の装身具だ。勿論、少年が持つような物でもない。
「多分、お母さまの形見なんだわ」
後妻だったと過去形で母を語った少年に返すべきではないかと烈しく迷う。
その時、何してるの、と後ろから声をかけられた。
「何って、エリカを待っていたんでしょ」
「とか言って、何をうっとり見ていたわけ?」
肩越しに覗き込んだエリカはニヤニヤした。
「なるほど。初めての崇拝者というわけだものね。どれ、アメジストですか」
「なっ、なっ、何よ」
「あら、慌てなくていいわよ。女の子にとって初めて異性からいただいた装身具は特別だもの。いくらでも見惚れてニヤニヤしなさいな」
「別にニヤニヤなんてしてないじゃない」
「大切そうに握り締めちゃって」
うっと詰まった少女に、エリカはつまらなーい、と口を尖らせる。
「あーあ、わたくしも素敵な男の子に何かプレゼントされたーい。可愛いって言われたーい」
「言われなくたって自分が美人だってわかってるくせに」
「そりゃそうよ。わたくしが美人じゃなかったら誰が美人だというの?」
謙遜の欠片もないが、自分で言うだけのことはある。見事なプラチナブロンドに抜けるような白い肌。意志の強さを表した碧の目。十二歳の華奢な身体は、いずれ女らしく丸みを帯びて柔らかな肢体に育つ筈。
いや、『筈』もなにも『育つ』ということはわかっているのだ。
「私もエリカみたいな金髪だったら良かったのに」
自分の髪を絡めた指先を残念そうに見下ろした少女に、エリカはすました顔で爆弾を落とした。
「でも金髪じゃなくてもローディスはあなたを好きみたいよ? あなたのお菓子を見てニヤニヤしながら―――って聞きたい?」
「え? 何よ、意地悪しないで教えてっ」
「アディのことを自分のお姫様だって言ってたわ。良かったじゃない、憧れの彼にそんなことを言われたら女冥利に尽きるわよね」
アディと呼ばれた少女は熱くなった頬を両手で隠しながら、本物のお姫さまに言われてもね、と文句を言った。だが、上擦った声の調子で浮かれているのは丸わかりだ。
アディがローディス・クライアを知ったのは二年も前のことだった。アディの母が病気で亡くなり、隣接する領地の領主クライア伯が息子二人を伴って弔問に訪れたのだ。父もとうに亡く、偏屈な祖父ラングストン伯爵の庇護の下に残されたアディは、当時母を失ったショックで心を病んでいると見做されていた。エリカと出会ったのはその頃だったから仕方ないだろう。
クライア伯がそんな時に未成年の息子達を伴ったのは、王家に繋がる名門ラングストン家唯一の相続人アディのお守り役として、彼らを売り込むために他ならなかった。だが、そんな父親の思惑は通じなかったらしい。彼らは変わり者と噂のアディを敬遠し、全く寄りつこうとしなかったのだ。
そのため向こうは覚えていないだろうが、アディの方ははっきり覚えていた。特に弟の方は。
「だぁってぇ、アディのためにぃー」
「も、もういいってば!」
変な節をつけて言いかけたエリカを慌てて遮ったアディは、それより、と指輪を見せた。
「これ、多分お母さまの形見だと思う。私が貰っていいのかしら」
「いいんじゃない?」
「そんな簡単に……」
「だって本人がアディに持っていてほしいと言っているんだもの。いらないって突っ返したら可哀相じゃないの。向こうだって引っ込みつかないわよ。それに言ったでしょう? あなたが彼のお姫様なんだって。有難く受け取っておきなさいよ」
説得力のあるエリカの言葉に、アディはいくらか納得して頷いた。確かに彼も一度出した物を今更引っ込めるわけにはいくまい。何よりアディ自身が、彼に貰った物を手元に置いておきたいと切望しているのだ。返すとなったらどれだけ手放し難いことか。
「にしても良かったわよねぇ。前に会った時のことは全く覚えてなかったみたいだけれど、今日はすごい進歩じゃないの」
「そうよね」
「これを機会にお近づきになったりして。でもって手紙のやり取りをしたりするうちに、互いに惹かれ合ってダンスのパートナーを申し込まれたり、ちょっとした贈り物や口接けを許したり、いずれはプロポーズされたり?」
「キャー、バカっ、エリカ何を言うのっ?」
「いいじゃなーい、そのくらい夢見たってバチは当たらないわよー? 初恋の相手にそんな物貰っちゃったら、その先を妄想するのは乙女の常識よー?」
エリカは面白そうに笑った。
「ルイスだって血みどろ伯爵なんてとんでもなく物騒なあだ名がついているけれど、可愛い孫の恋なら理解を示してくれるかも―――」
「本気で言ってる? お祖父さまがシルビア叔母さまにしたこと、知ってるくせに」
「まぁ、そうだけれど」
「……しょせん、他人事なのよね」
だがアディはそう言いながらも、エリカの言う通り、素敵な『その先』を思わずにはいられなかった。