夢の終わり
長大な部屋の中央に、ちょっとした馬車程の大きさに見える重たげなシャンデリアが等間隔に煌めく『太陽の間』。
アーチをなした天井には美しい神話の数々が描かれ、鏡面のように磨きぬかれた大理石の床に映りこんでいる。贅を凝らした赤い緞子の緞帳が、これもまた等間隔に張り出す半円形のバルコニーに面した両開きのガラス扉の両脇に、金糸の飾り紐で結ばれている。
隅々にまで精緻な飾り彫りを施された調度品や、人々の間を縫って飲み物をサーブする給仕たちの普段より上等なお仕着せを見るまでもなく、荘厳で重厚な空気が満ちており、ここが特別な空間なのは明らかだった。
「当り前よ。『太陽の間』は元々、国王の戴冠や結婚、王太子の出生の時だけ使用した式典用の部屋だもの。時代も変わったわね。昔ならとても足を踏み入れることの出来なかったような連中が我が物顔で歩いてるわ」
おそらく育ちが邪魔をしなければ鼻を鳴らしていたに違いないエリカの顰めっ面を見て、アディはそっと溜め息を噛み殺した。
彼女の不機嫌は朝から始まっている。朝食後のひと時、ふらりと訪れたドジャーが、今夜の舞踏会で君のエスコートをする栄に浴させてくれないか? と言ってからだ。ローディスの存在を忘れているのかと呆気にとられたアディに、ドジャーはこれがローディスからの要請だと説明した。どうしても手の離せない事情があるのだという。
その時からエリカの眉間に縦皺が一本刻まれていたが、夕刻迎えに来たのが本当にドジャー一人だった時、二本に増えた。勿論アディもがっかりしたが、親友に頼まれて面倒を見てくれるドジャーに悪いから、一生懸命楽しもうとした。だが、それもつい今しがたまでのことだ。
ローディスの手を離せない事情とやらが、しっかりと腕を絡めて寄り添うシビルだったと知った瞬間から、アディの眉間にも縦皺が一本刻まれた。ちなみにエリカは既に三本だ。
「アディ―――怒ってる?」
ドジャーに心配そうに覗き込まれて、アディは小さく首を振った。怒っているのではない。意味がわからないのだ。
「これは由々しき事態よ、アディ。いったいどういうわけで婚約者たるあなたを差し置いてローディスがシビル・ウェインをエスコートしているのか―――きっちり問い詰めなきゃ」
エリカが見たこともない怒りに満ちた眼差しで振り返って、アディを攻め立てる。
「ぼやぼやしてないでなんとかしなきゃ。向こうから求婚してきたくせにこんな態度を取るなんて、悪意じゃないならただのバカよ。アディ、事と次第によっては今回の話は考え直すべきだわ」
「でも、どうして―――」
「こっちへ場所を移そう」
頼りなく揺らいだアディの声に、ドジャーが断固とした調子で話をしやすいバルコニーの方に導いた。
「これを飲んで」
途中で給仕から受け取ったグラスを差し出して、ドジャーは静かに口を開いた。
「アディ、君を傷つける手助けはすべきではなかった。だが、俺が君のエスコートを引き受けなくともローディにはこうするしかなかっただろう。なら俺が君を任せて貰いたかったんだ」
どういうことかと視線を向けたアディを、ドジャーの真剣な眼差しが刺し貫く。
「君はどうしてあいつを好きになったの? 領地は隣だけど、気軽に行き来する距離でも間柄でもなかっただろうに」
「……十歳の時、母が亡くなったの。クライア伯と息子二人が弔問に来たのよ」
クライア伯は長男の売り込みに来たのだ。アディはその時部屋に閉じ籠もっていて顔を合わせていなかったが、今ならわかる。二男も伴ったのは単なる気紛れか、長男だけだとあまりに露骨だと思ったのだろう。ラングストン伯爵の強大な後ろ盾を欲して汲々とする父の心も知らず、リカルドはいい子ぶるのに退屈して、人目につかない裏庭で薔薇の根に飲んでる酒をかける悪さをしていた。
それを見つけたのはエリカだった。
あのボンクラは誰? と窓からのり出して叫んだエリカに急かされて現場に急行したアディは、大人と同じ体格のリカルドの前に勇気を出して立った。
そんなことをしたらバラが枯れてしまうと訴えたアディに、一瞬ギョッとしたリカルドは、子供に脅かされた鬱憤からか鼻先でせせら笑った。
誰だお前は、チビが邪魔をするなっ、と言ってアディを突き飛ばしたリカルドの前に割って入ったのが、ローディスだった。彼は、こんな小さい子に手を上げるなんてみっともないと吐き捨て、手加減もなしに殴り飛ばされたのだ。
少年が自分を庇って敵う筈のない相手に立ち向かったその時、アディは余計な争いの発端になったことを悔やんで泣き出した。酔ったリカルドはそれで興を削がれたのか、腹立たしげに薔薇園の木々を蹴り倒してその場を去って行った。
「その時ローディスは、リカルドの奴酷いことをする、こんなに綺麗なバラなのにって―――」
その薔薇園はアディが生まれた記念に、今は亡き父親が作らせたものだった。待望の長子が女児だったのに落胆して、予定していた目立つ場所から裏庭に変更したというが、アディにとっては記憶すらない父が遺してくれたものだ。それを綺麗と言ってくれたローディスに、その時アディは恋をしたのだった。
途切れ途切れに語ったアディに、ドジャーは重い溜め息をついた。
「なるほど、ね……それ以来会うこともないままあいつのことを?」
「一度だけ会ったわ。その時も彼は―――」
「君と同じだ。ローディにとってシビル・ウェインは忘れられない初恋の人なんだよ」
遮るように言われてアディは絶句した。だが驚くのはその先だった。ドジャーの語るその話は、アディの思い出と寸分違わぬ内容だったのだ。言葉を失ったアディに、エリカが血相を変えて詰め寄る。
「どういうことなのっ? わたくしが思うにあんなことがそう度々あるわけないわっ! つまりどこかで行き違いが起こったのよ。これはこんがらがった糸を解く必要があるわっ、聞いているのアディ!?」
「……でも……」
細いネックレスに通して胸元にひそめた指輪をドレスの上から縋るように押さえて、アディは楽団の音曲に合わせて踊る人々の向こうを探した。そこにはこの世に女性は彼女だけと言わんばかりに、シビルに微笑みかけるローディスの姿があった。
「あいつのあんな様子は初めて見るよ。『漆黒の貴公子』の通り名で鳴らしているが、本人は至って堅物でね。どんな誘いにもうんと言ったためしがないんだ。彼女のことが忘れられなかったからね」
ドジャーの言葉に偽りはないのだろう。アディは血の気の引いた顔をそむけた。頭の中が真っ白だ。
「でも……」
どこかでわかっていたのかもしれない。再会した歓びで目が曇っていたのだ。思い返せば逢いたい、傍に行きたいと願うのはいつも自分の方で、ローディスは決してそんな態度を見せなかったではないか。当たり前だ。そんな気持ちはなかったのだから。
エリカの言う通り、どこかで行き違いがあったにしても今、彼が心を寄せているのはアディではない。真実を解明できたとしても、それでどうなるというのだろう。あの時の少女が誰かなんて、今更言っても仕方がない。
アディは色のない声で、私との話は彼の本意ではなかったのね、と呟いた。ドジャーの返事がないのが答えだ。浮かれていた自分自身に対する自嘲の笑みが洩れる。
「バカだったわ、私……彼に……嫌な思いをさせていたのね。何も知らずに、勝手に……」
「そんな風に思う必要はない。君は何も知らなかったし、向こうから持ちかけられた話なんだ。堂々としていればいいよ」
今にも泣きそうに歪んだアディの顔を見て、ドジャーは痛みを堪えるように一瞬唇を強く引き結んでから、少し目を細めて微笑んだ。
「実は君に相談があるんだ。今それどころではないとわかってるが―――君にしか解決出来ないことだから勝手ながら言わせてもらうよ。俺はね……昔から捻くれた性格で、何かに本気になったり、心から何かを望んだことはなかったんだ。でも親友が度々口にする優しい思い出を、最初はバカにしながら後になると楽しくなって聞いてるうちに、いつしか俺も奴の初恋のお姫様をいいなぁと思うようになっていた。実物を見た時は想像とあまりにかけ離れていてがっかりしたけどね、代わりに理想通りのお姫様をみつけたんだ。―――それが君だ」
アディは眉をひそめてドジャーを見遣った。ふざけているのか、だとしたらこんな時に笑えない。だが、彼の目に悪質な揶揄いの色はなかった。
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