恋の奴隷
ローディスは茶器を口元に運ぶ乙女のたおやかな指先をうっとりと見つめた。最高級の薄い陶器すら重たげなその指には、若草色に萌えるベリドットの指輪が光を放ってる。だが、その輝きより美しく見えるのは、シビルの長い睫毛が頬に落とす翳だ。ローディスの視線に気付いているのかシビルは効果的に二、三度目を瞬き、睫毛をそよがせた。
「そういえば、今朝とても恥ずかしい思いをしましたの。アリーシャ・カレッタさまや他の皆さまから、それは恋人の約束の指輪かと聞かれてしまって。いつも同じ物をつけているからそう思われたのでしょうけど、あなたから姉君の指輪を一時お借りしているだけなのに……」
囁くような吐息混じりの声に、ローディスは眉をひそめた。
「それは気付かず済まなかった。あれこれうるさい連中が宮中には多いからな。さっそく姉に言ってあと幾つか借りてこよう」
「そんな……申し訳ありませんわ。私そういうつもりじゃ……」
「いや、君がそんなことを気に病んで楽しめなかったら意味がない。それに姉なら君に快く貸してくれる」
ローディスが声を優しくすると、シビルは伏せていた顔をようやく上げた。
「お優しい方。頼りになる方ですわ、ローディ」
愛撫する声音で愛称を呼ばれ、ローディスはくすぐったい気分でたいしたことではないと首を振った。
「何度も言うが、君に森の中で助けられたこと、俺は本当に感謝しているんだ。あの時君に出会ってなかったら今の俺はなかった。あれからずっと……会いたかったんだ。遠慮しないでくれ。他に何か困ってることはないか?」
その問いにシビルは困ったように俯く。
「どうした?」
「明後日の……舞踏会ですわ。あなたはアドリアナ様をエスコートなさるのでしょう? 私……心細くて」
「ドジャーに―――」
「いいえ、あの方にご迷惑はかけられませんわ。なんの関係もない人ですもの。私の頼れる方は森で会った時からあなただけ。でも―――あなたはアドリアナ様のものになってしまわれるのね」
指で涙を押さえながら嘆くシビルに、ローディスは重く沈黙した。国王主催の正式な舞踏会だ。表沙汰にはなっていないが近日中に婚約発表に至るであろう相手を差し置いて他の娘をエスコートすれば、後でどんな噂が起こるか考えるまでもない。
あなたから求婚されて本当に嬉しいと、喜びが溢れるような満面の笑みを向けてきた少女の、信頼しきった眼差しが脳裏をよぎり、何故か微かに胸を軋ませたが、ローディスはそれを振り切って口を開いた。
「明後日は君をエスコートする。アドリアナ嬢はドジャーに頼むよ」
「まあ、そうして下さるの? 本当に?」
「ああ」
「本当にあなたってお優しいのね、ローディ。でもアドリアナ様に意地悪をされないかしら」
泣くのをやめて上目遣いで見上げてきたシビルに、ローディスは彼女の求める答えを返してやる。彼女は意地悪などされないという部分には不賛成を表して意味ありげに目を伏せたが、もしされても自分がいるから心配いらない、と締めるとほんのり頬を染めて頷いた。
「それを聞いて本当に安心しましたわ。だって私、あの方に憎まれても仕方ない立場ですもの。でも変わった性格から縁談もないと噂のあの方が、今や飛ぶ鳥も落とす勢いと評判のお家柄に惹かれて、元々深い縁のある私達の間に割って入られるのもわかりますけど……辛いですわ。あの日以来、私もあなたのことを片時も忘れずにきましたのに―――」
思わせぶりにシビルの声が途切れる。
俺だって、と言いかけたローディスは、何故か再び脳裏をよぎったアドリアナの面影に邪魔されて、仕方なく不機嫌に黙り込んだのだった。
「それで俺の出番か」
「悪いがあんたに頼むしかない」
硬い口調でぎこちなく頭を下げたローディスに、ドジャーは思った以上にあっさり、わかった、と頷いた。頼んだ方が拍子抜けするような返答にローディスは戸惑う。
「本当にいいのか? そうしたらその日は、あんたが口説き落とした美女達の誰とも一緒に過ごせなくなってしまうが」
「ま、已むを得まい。他ならぬ親友の頼みだからな」
ドジャーは磊落に笑ってローディスの肩を叩いた。
「それよりそれは?」
書き物机の上のケースを目で指しながら聞いてくるが、どうせ九割方わかっているのだろう。それを置いていったのはドジャーに教わった宝石商だ。眉根を寄せたローディスに、ドジャーはそれ以上に顔をしかめて天を仰いだ。
「シビル・ウェインか? 全部? 本気か?」
「あんたに関係ないだろう」
「お前にあの店を教えたことを俺は今猛烈に後悔してるところだ。いいか? 母親や先祖伝来の物ではなく仲の良い姉妹の装身具を貸すという口実なら、それ程重くなく渡せるし相手も受け取りやすいと教えたが、物事には限度がある。仮にも他人に貸した物を元の持ち主が後で身に着けて人前に出られるわけがないんだ。つまり貸すってことは後々、自分よりあなたの方がお似合いだから友情の証にずっと持っていて、と持ち主が言うのが前提なんだぞ? 婚約者を差し置いてこんなにしてやるのはいくらなんでもやり過ぎだ。彼女だって受け取らないだろう」
ドジャーは答えないローディスに呆れたように溜め息をついた。
「なるほどね。よくわかったよ。初恋ってのが手の付けられないもんだってことは。完全に骨抜きだ」
「放っといてくれ。あんたはアドリアナ・ラングストンのエスコートをしてくれるだけでいい」
「それは引き受けた以上任せろ。正直に言ってお前の頼み云々の前に、彼女自身に興味があるんだ」
何かを思い出すように忍び笑ったドジャーを、ローディスは探るように見た。
「……まさかと思うが、彼女をあんたの数あるその場限りの恋人の一人にするつもりじゃ―――」
「まさか。彼女はそんな相手じゃないよ」
ほっと力を抜いたローディスは続くドジャーの言葉にギョッとしたように固まる。
親友は、彼女はもっと特別な人だ、と言ったのだ。
「そ、れは……どういう……?」
「どうもこうも言葉通り。お前がどうしてアディをちゃんと見ないのか理解できないよ。今のシビル嬢よりもアディの方が、お前がよく話してた森のお姫様そのものに思うがね」
「なっ、何を……っ?」
「別に俺としては有難い話だがな。最近気付いたんだが、どうやら俺も親友の初恋話に感化されてたらしい。俺自身は会ったこともない、弱った少年を救った森のお姫様に心を奪われかけている」
淡々と話すドジャーにローディスは強張った笑みを向けた。
「別に俺には関係ない話だ。ただ、これは純粋に疑問に感じるから聞くが、あれのどこが俺の話した森のお姫様なんだ? 確かに悪い娘じゃないのは認めるが、シビルの方が余程洗練されて美しいじゃないか。まるで身分が逆に生まれてしまったようだ。シビルこそ俺の思い描く理想の人だ」
頑なに言い募るローディスにドジャーは『陽光の貴公子』の呼び名に相応しい晴れやかな笑みを見せる。だが何故だろう。その笑みにほんの一滴の皮肉っぽい色が混じって見えるのは。




