アディ、王宮へ行く
「見えてきたわ。あれが王宮でしょ?」
アディの弾む声にエリカは、落ち着きなさい、と窘めた。だが、その声もいつもよりどこか明るい。
アディは弛んだ頬を押さえて振り返った。
「何よぅ、エリカだって浮かれてるくせに」
「なんですって? わたくしは別に―――」
「ねぇ、さすがに都の景色は華やかね。懐かしいんじゃない? こんな賑やかなところから田舎に移って、寂しくなかったの?」
「懐かしいって、ここは街中じゃないの。わたくしは結婚前に王宮を出たことは一度もなかったのよ? だから、全くといっていい程見覚えはないわ」
「そうだったの。でもほら里帰りの時、度々通ったでしょ?」
「わたくしはカエルみたいに馬車の窓にへばりついたりしないもの。いいこと? そうやって浮かれていないでレディらしく、きちんとおとなしく座っていらっしゃい」
きつい叱言にアディはムッとしながらも、座り直した。浮かれているのは確かだが、それ以上に緊張してじっとしていられないのだ。
「結局、全部の支度が整うまで思った以上に時間がかかっちゃったのよね。エスコート役だって最初に決まってたルイード伯はぎっくり腰で駄目になるし、コンフォート伯になるまでお祖父さまが、あの人はダメこの人は足りない、と文句三昧で大変だったじゃない? 別に誰でもいいのに」
「そういうわけにもいかないのよ。エスコートが単なる男爵や子爵だと、あなたを人に紹介する時困るでしょう」
複数の爵位を持つ中に男爵位や子爵位もある上級貴族と違い、単品の低爵位者の場合、アディを同じ階級の伯爵家の人間に紹介しにくいというハメになるのだ。相応しい人間を選ぶのに祖父が時間をかけたせいで、許しを得てから二十日近く経っていた。
その代わり、支度にはエリカが合格点を出す程度の手間はかけられたわけだが、今は逸る気持ちが止まらない。
コンフォート伯と違う馬車だから心置きなくはしゃげていたのだが。とりあえずこれ以上エリカに怒られないようおとなしく座っていると、そのうちに馬車に伝わる振動が変わった。道に敷かれた石がそれまでより大きくなったのだ。エリカが、王宮前広場に入ったわ、と教えてくれる。
王都クレメンタインはラングストン伯爵領から南西に離れること百二十ゴート、馬車でゆったり移動して五日の距離にあった。それだけ離れるとかなりの旅行だったが、アディは疲れも感じず、近付いてきた王宮に胸を躍らせていた。正確には王宮でのローディス・クライアとの再会に胸を躍らせていた。
大切に取り出した指輪をうっとりと眺めやる。そんなアディをエリカは呆れ顔で横目に見た。
「本当によく飽きないわね。それだけ熱心に眺めていたらアディの怨念が籠もってしまいそうだわ」
「何よ、失礼ね。乙女の夢見る眼差しで怨念なんか籠もるわけないでしょ? エリカったら本当に意地悪なんだから。初恋の気持なんか遠い昔過ぎてわからないのよ」
膨れていたアディはその時ふと思いついてエリカを見た。
「ねぇ、そういえばエリカの初恋ってどんな人だったの? 聞いたことなかったけど、何歳の時?」
「……」
「覚えてないの? あ、……もしかして悲しい結末だった、とか―――?」
眉を寄せたエリカにおずおずと問う。考えてみればエリカはこの国の王女だったのだ。想った相手との美しい想い出など、望むべくもない立場だった。無神経なことを聞いてしまったとアディが悔やんでいると、エリカはフッと溜め息をついて口を開いた。
「ご心配頂かなくても、わたくしの初恋の結末は結婚よ」
「ということはひいお祖父さまが初恋だったのね? すごいわっ、私とエリカ同じじゃないっ。初恋の相手と結ばれるなんて、私たち物語の主人公みたいねっ」
ほっとしたのと、思いがけない事実に、思わず声のトーンが跳ね上がっていた。
「そんなことより王宮よ」
言われて窓の外を見ると、暗緑色と白の大理石を組み合わせた大小の塔を持つ、美しい建物が目の前に迫っていた。
「さすがにすごい……豪壮な宮殿ね……」
「それは離宮。本宮殿はもっと奥だけれど、とりあえずアディが滞在する新宮殿はこっちよ」
エリカが指したのは反対の窓だった。そこには離宮の比ではない広壮な建物があった。
「すご……」
「新宮殿といっても二百年以上前に建てられたものだけれどね。ほら、エスコートよ。エレガントに振る舞うのよ?」
馬車が停まり、得意気に説明するエリカに促されて地面に降り立つと、そこはあまりに威圧的な迫力ある空間で、圧倒されてしまう。アディは今更ながらエリカと一緒でよかったと胸を撫で下ろしつつ、祖父と同年輩のコンフォート伯のエスコートで、新宮殿に向かって足を踏み出したのだった。