少年と少女はこうして出会った
陽射しの届かない程うっそうと繁った高い木々の隙間に、見慣れた館を見つけた少年は安堵の溜め息をついた。
意地悪な兄とその取り巻きに裏の森で置き去りにされる程度はいつものことだが、今日は館中が客で賑わっている。少年が帰らなくても誰も探しに出る余裕はない筈だ。
それを見越して、いつも以上に森の奥深くに捨てていった兄達の用意周到さには恐れ入る。
少年は我慢していた足の痛みに、ずるずると腰を下ろした。さすがに一晩森で過ごさずにすんだ安心感で力が抜けるが、そうなると捻った足首がずきずきと疼き出していた。
「くっそぉ……」
勝気な目元にうっすらと涙が滲んでいた。
今帰ってもまた兄達の嫌がらせに晒されるのだ。怪我さえしていなかったら少しは上手く立ち回れるのだが。
その時、下生えの草を踏み分ける足音と人の声がした。一瞬兄達かと思ったが、声は聞き覚えのない少女のものだった。
「本当にこっちだと思う? ―――ていうか、ちょっと待ってよエリカ。あっ……」
声と共に視界に飛び込んできたのは、声同様に見覚えのない少女の姿だ。向うも木の根元にへたり込んだ少年の姿に気付いて、弾かれたように立ち止まる。
二十歩ほど離れた距離で固まった少女は、次の瞬間飛ぶように駆け寄ってきた。
「ケガしてるわ」
言うなり彼女が手を伸ばしたのは少年の額だ。びくっと身じろいだ動きにたじろいだように一度止まった少女は、それでも再び手を伸ばしてそっと触れた。
「血は止まっているし、そんなにキズは深くないみたい。でももしかしたら痕が残ってしまうかもしれないわ」
柔らかい手付きに息を呑んでいた少年は、はっと気を取り直して払いのける。
「あっ、痛かった? ごめんなさい……」
「いや……」
弱いところを見られた羞恥と十四歳の自尊心が働いただけだったが、少女は荒い動作に怒ることなく前に膝をついた。
「他にどこかケガをしているの?」
「……」
「あ、そのまま座っていて。顔色が良くないもの。少し休まなきゃ」
少女は深緑色のエプロンスカートのポケットから、薄紙で包んだ砂糖菓子を取り出した。当たり前のように差し出されて反射的に受け取ってしまう。そうすると今更いらないとは言い出せずに、少年は短く逡巡した後で全然違う話を持ち出した。
「君はうちのお客なんだろ? ……なんでこんな所にいるんだ?」
ここ数日、午後のティータイムの時に父の招いた客達を見ているが、彼女がいたかどうかは記憶にない。だが館の敷地内にある森に、領民が勝手に入る筈がない。貴族の娘にしては控え目な、というよりはっきり言って地味目な装いなのは、あまり身分の高くない家柄だからだろう。それにしても嫌なところを見られてしまったと苛立つ少年に、彼女はそっと首を傾げた。
「あの……ね? 私、ここであなたに会ったこと誰にも言わないわ。私が部屋を抜け出したことだって誰も気付いてないもの。ここに来たのは―――昼前に男の人達が馬で入っていくのを見たからなの。皆、暫らくして戻ってきたけれど、行きと人数が合わないからおかしいなと思って」
「……細かいとこまでよく見てるんだね」
これだから貧乏貴族は、という厭味混じりの口調に少女は少し目を伏せたが、柔らかい表情は変わらなかった。少年が苛められて傷ついた自尊心から攻撃的になっているとわかっているのだろう。立ち去る様子はない。少年より二、三歳は下に見えるのに、その華奢な外見に似合わぬ強さを持っているらしかった。
「酷い人達ね。あんなに大きいのに。誰かに言って叱ってもらうとか―――」
「無理だよ。というか……意味ない」
子どもらしい提案を受けて、少年は苦笑した。
敵意のない眼差しに気持ちが和らいでいた。ピリピリした神経を宥める少女の独特の空気に、苛立ちが消えていく。
「あいつらはオレの兄とその仲間なんだ。兄といっても半分だけだから似てないけど。髪も目もオレだけ黒くて目立ってたから、君も一人置き去りにされたことに気付いたんだと思うよ」
「そういうわけじゃないけど」
「オレは後妻だった母上と同じ髪と目で―――あいつとは母親が違うから折り合いが悪いんだ」
仲が悪いという言い方をしたが、実際は一方的に嫌がらせをされているだけだ。十七歳の兄は体格も違うし、何より父であるクライア伯の跡継ぎだから、皆が気を遣っている。自然、立場の弱い次男が苛められていても誰も手出しをしないから、どんどん増長していったのだ。
「でも……お兄さまでしょ? 弟を可愛がるのがお兄さまの役目なのに」
「そうはいかないよ。リカルドも、もう一人オリビアって姉もオレを嫌ってる。仕方ないんだ」
たいしたことじゃないという顔をしてみせても、実際は辛い。大怪我をするまではいかないが、今日のように森の奥で小さな崖から突き落とされるようなことは日常茶飯事だった。だが、しかつめらしい表情で同情を寄せる少女のおかげで、何故か気持ちが凪いでいた。
少年は笑ってみせた。
「たいしたことじゃないよ。命まで取られるわけじゃない。今日は運が悪くてあいつらに捕まったけど、結構上手く立ち回れることも多いしね」
逃げるという言葉は可愛い少女の前で使いたくはなかった。半分強がりの言葉だったが、悪賢い異母兄を上回る頭の回転で難を逃れたのは一度や二度ではないから、嘘ではない。
「そういえば、誰と喋ってたの? エリカって君の名前?」
「え?」
「珍しい名前だなと思って……昔風というか、いやっ、あの綺麗な名前って意味で―――っ」
ただ彼女を喜ばせたかっただけなのだが、女の子を喜ばせるような会話には慣れていない少年は、慌てて続けた。
「珍しい響きだから。君がオレをみつける前に、その、誰かがエリカって呼ぶのが聞こえて」
だがここにいるのは亜麻色の髪と淡褐色の眸を持つ、しかつめらしい表情の少女が一人だ。
彼女は一瞬口篭もってから、早口で、エリカは友達よ、と答えた。何故一人なのかは言わない。少年は固まった空気に自分がしくじったことを悟って、あっそうだ、とわざとらしくならないよう声を上げた。
「こ、この菓子のお礼にこれを」
「そんな―――」
「いいから。君と会えてう、嬉しかったからその……よかったら持っていて欲しい」
とっさに取り出したのは母の形見の指輪だ。さして高価な物ではないが、大切な思い出の品だった。戸惑う少女に強引に渡す。
「オレ……君と話して、なんだかすごく気持ちが楽になったんだよ。誰かに味方になってもらったのは初めてだし、それが君みたいなかっ、可愛い女の子で尚更―――」
真っ赤になった少年につられて、少女も頬を染め指輪を握りしめた。
二人の間に甘酸っぱい沈黙が満ちる。言った後の展開まで考えていなかった少年は、気まずく視線を泳がせていたが間がもたず、勢いをつけて立ち上がった。
「あの、もう大丈夫だから先に戻ってて。オレはもう少しここで時間を潰してから戻るから」
少女はでも……と少し迷いを見せたが、大丈夫だから、と重ねて言うと頷いた。