第七十話−カウルの秘密−
あの後、僕たちはしばらくのあいだ沈黙で船を進めた。 しずかな波の音、動物の鳴き声、風のさすらい……僕らを取り巻く環境の全てが、それはそれは穏やかで、美しかった。 僕は、時間を忘れて雄大な雲が流れていく様子を見つめていた。
「のどかなところだな」
オッズがそう言ったとき、僕は彼に何か話したいことが合ったのではないかと、思い出した。
「そうだね。 ずっとこういうところで暮らしていたら、少しくらいの悩みがあっても、すぐに気にならなくなるだろう。 それくらい元気になれる気がする。 オッズさんの隈だって、薄らいでいるし」
すると、オッズは驚いて、僕を見返した。
「どうしたの?」
「いや、なんでもない」
きっと何かある。 そうに違いないと僕は思った。 いやらしい感情が湧きあがってくる。
「嘘だ。 何か有るはずだよ」
僕は、オッズに問い詰めた。
自分で言っておきながら、まるでジェシーのようなセリフだ、と僕は思った。
「何かって」
オッズはそこで一旦区切ると、一息ついて、言葉を探すようにそこらを見回したあと、こう言った。
「レンディ? 隈ができるのは何故だか知っているかい」
「貧血だって、この前言っていたよね?」
「そうだ。 貧血……つまり、エーテルを失うことで、隈ができているんだ」
エーテルを失う? つまり、それは貧血……どういうことだろう。 エーテルについては、以前リトルから聞いたことがある。 生命力そのもののような物質らしい。 だとすると、血液か、何かのことなんだろうか。
「……もう気付いているかもしれないが、ボクはね。 勘違いしないでくれよ? ここだけの秘密だから……。 ボクはカウルのために自分のエーテルをあげているんだ」
切り口上で彼がそう述べると、僕は自分の耳を疑わざるをえなくなった。
「へ? カウルのために、自分の……?」
それじゃあ……それじゃあ、まるで
「断っておくが、彼は今騒ぎを起こしている夢魔とは違う」
そう断ると、オッズは真剣な目つきで、僕を正視しながら続けた。 そのとき、心持、空に浮かんでいた雲が陰りはじめたような気がした。
「痛いけれども我慢するしかない。 と、いうのもね。 話すと長くなるんだが……何、続けて欲しいって? それじゃあレンディのために続けるよ。
ボクには、もともと三歳年下の妹がいたんだ。 名前はローザといって、優しくて良い妹だった。
ただ、彼女は病弱だった。 そして、両親はともに働けない……というのも、母は幼い頃に無くなり、父はそれが原因で飲んだくれになり、ろくに働こうとしなかったんだ。 だから、病弱な妹のために、ボクは子供の頃から働くしかなかった。 毎日毎日、きつい労働に耐えて頑張ったよ。 君には想像もつかないだろうけど……」
確かに。 少なくとも、今までに僕がきつい労働をしなければならなかったことは、人生のなかで一度も無かった。 彼のことを聞くと、自分がいかに恵まれているのかが、わかる。
「それもあるかもしれないが、ボクがこんないい年になっても、子供の夢にあこがれているのは、昔子供らしい経験をあまりできなかったからなのかもしれないね」
そう言うと、オッズは少し寂しそうに笑った。 そうか。 オッズさんの作っているぬいぐるみやクッキー、そして大道芸……それらはすべて、子供を喜ばせる、夢のような存在だ。 彼は、子供の心に近づきたいがために、そのような職業を選んだのだろう。
「しかし、ローザは死んでしまった……。 ボクの働いた甲斐も無く。 甲斐も無いだなんて、言いたくないが、事実は代えられない。 しかしそのとき、信じてもらえないかもしれないが、彼女が病床で死んだ瞬間、一人の男が現れたんだ」
一人の男……?
「それは本当に、幽霊のようにスッと現れてね。 冥界からの迎えが来たのかと思ったよ。 確か、男の名前は……ゲーテ? いや、ゲルデだ。 そう、ゲルデというんだ。 見た目は小柄な紳士でね。 ただ、そのゲルデの顔色は、ひどく土気色を帯びていて、深く刻まれた皺の間から見える眼は、悪魔のような眼光を宿していた。 今でもそれがまぶたの裏に焼きついているよ。
そしてゲルデは、ボクらの前に現れるなり、見た目以上に年の行った……そう、まるで百歳のおじいさんのような、しわがれた声でこう言ったんだ。『私はいつでも人の死に立ち会ってしまう、非常に不幸な男です』」
僕は、いつのまにかオッズの話しに真剣に耳を傾けていた。 不思議なこと……聞くも語るも恐ろしい、奇怪な話に。
「そのとき、ボクは妹の寝ているベッドの枕元にあった椅子に腰掛けていた。 ゲルデはボクの後ろから、気配を感じさせること無く、不意に現れた。 妙な寒気がボクの背中を這うように伝ってきて、言葉を失ったね。 それと引き換えに、ゲルデは部屋中に響くような奇怪な声を発した。
左手側から、さっき言った言葉をボクにつぶやくと、彼はこう言ったんだ。
『不幸なことばかりを見ていると、自分まで不幸になった気がする。 貴方だって、不幸にはなりたくないでしょう? どうです、ここは一つ、私と取引をしてみませんか?』
ボクの心は、突然の出来事に動揺していた。 今すぐにでも、「お前は誰だ! どこから入ってきたんだ」と問い詰めたかったが、言葉が出なかったんだ。 でも、彼を追い返さなかったことを後悔してはいない。 なぜなら、この先の出来事がある意味でボクに幸福を齎してくれたからさ。
……そして、ローザが名前まで付けて、いつも大切に抱いていた……そう、死ぬ間際も大切に抱いていた鬼の縫いぐるみを指差して、ゲルデはこう言った。
『例えばその縫いぐるみ。 魂の器というものは、必ずしも生きているという必要は無い。 それなりのかたちをしていれば、充分、器になりえるのです。 貴方は、魔術というものをご存知でしょうか』
そのときボクは、やっと搾り出した声で、”知らない”と答えた。 今のボクからじゃ、信じられないかもしれないが、そのときのボクは、魔術のことなんてこれっぽっちも知らなかったんだ」
オッズも、最初は僕と同じような一般人だったのか。
「ゲルデは、ボクのおどおどしている態度を確認すると、しばらくの間料簡して、こう言った。
『何をするにも、本人の承諾が必要だ。 よって、真実は貴方の心のうちにある。 ひとつ断っておきますが、一度行ったことは二度と取り返しのつかないことになりますよ。 今はまだ未来がありますから……ほら、まだ魂がそこにいるじゃあないですか。 この魂の行く先は貴方の手にかかっているのです。 つまり……』
ボクは、即座に彼の謂わんとしていることを察した。 そして言うまでも無く
『蘇らせることが……できるというのですか』と、ボクはゲルデに問い掛けたんだ。
すると、ゲルデはこう答えた。
『蘇らせることとは、また違う。 魂を取り留めておくのです。 その人形の中に』」
その人形が……。
「魂の媒体。 それが」
オッズは、そこまで話すと、ふうと一息ついてオールをこいでいた手を休めた。
「今に至る、カウルなんだよ」
僕は、これまでオッズが話したことを頭の中で整理しながら、彼に質問した。
「なんだか、信じられない話しだなあ。 その男の人は、本当にそこにいたんだね?」
「いたとも。 ボクがこの目で確かめたんだ。 信じてもらえそうも無い話しだが、ボクにとってはそれが真実なんだよ」
僕は、ゲルデという謎の男について、さらに詳しい話をするようにとオッズに訪ねた。
「それについては、カウルの誕生の秘密も交えながら話していくことにしよう。 でも、すこし疲れたから、そろそろランチにしないか?」
「あ」
気付けば、日は空高く上って、真上から僕らを見下ろしていた。
そして僕は今の今まで、食料のことに付いてなど何も考えていなかったことに気が付いた。
「ヤブカラさんから簡単な携帯食をいくつか貰ってきたんだ」
そう言うと、オッズは僕の知らない間に舟に積み込まれていたリュックサックの中から魚の乾物と見たことも無い、大きくて硬そうな果物、そして小さなパンを取り出して、僕に差し向けた。
僕は乾物を一つと、パンを二つ受け取って、オッズにお礼を言った。
「見たことも無い食べ物だなあ」
「でも、なかなかいけるぞ」
そういう頃には、オッズはさっそく乾物にかぶりついていた。 彼はきっと好き嫌いなく何でも食べる性質なんだろう。 しかし、それはすぐにオッズに対する偏見なんだと、僕は覚った。 なぜなら、その乾物を一口口にした瞬間、なんともいえない美味が口の中に広がったからだ。 きっと、あの渦巻きの形をした不可解な食べ物も、実は美味しかったのかもしれない。
しばらくして昼食を終える頃、(どうやら硬くて大きな果物はヤシの実と同じような果物だったらしい。 中には甘い汁がたっぷりと入っていた)僕は再びさっきの話しをオッズに持ち出した。
「それで、話しの続きだけど」
「ああ、忘れるところだった。 そう……ボクは、カウルにローザの魂を写したんだ。 ボクが全部やったわけではないが、魂を取り留めておくというのは、そういうことだった。 ゲルデが主に手伝ったよ。 ……少し残酷だったな。 でも後悔はしていない。 理由はさっきと同じさ。 ボクは、ためらいながらも、ゲルデにそそのかされて、カウルの体の中にローザの血で書いた呪符を入れた。 ボクの血との付き合いはそれが始まりだったな。 それから、毎日のように血液を……夢の中でだけど、ささげなければならなくなったんだ」
なるほど! だから、オッズはいつでも(少なくとも僕が彼と以前会ったときは)貧血のようだったんだ。
「経験からして、エーテルというのは、生命力そのものだ。 夢の世界で生命力が衰えれば、当然肉体にもその影響がでてくる。 老廃物が溜まったり、血液の循環が悪くなったりしたんだろうね。 もう気付いていると思うが、ボクの左腕にあるあざは、注射によってできたものだ。 でも、ボクは……今でも覚えている。 はじめてカウルと話すことのできたあの日を」
オッズは夢を見ているようなまなざしを宙に向けていた。 そして、ゆっくりと僕に視線を戻した。
「毎日が夢のようだった。 すぐにカウルと話すことはできなかったが、最初のうちでも、確かに妹のローザのぬくもりが感じ取れたんだ。 そして、ボクはある種の魔術的な行為をして以来、そっちの世界に自然と足を踏み込むようになった。 いや、正確には踏み込まざるを得なかった。 と、いうのもカウルに悪霊が取り付かないように、一ヶ月に一度は清めなければならないし、カウルと話しができるようにするためには、修行が必要だった。 あ、現実世界での会話は別だよ? タネあかしをしたらつまらないから、そのなぞについてはこれを読んでいる読者の方と君への課題としておこう。(笑)
さて、これでカウルのことは大体話した。 ゲルデの詳細については……すまないが、最初に話したとおりなんだ。 これ以上を語ることは出来ない。 彼は、カウルへローザの魂の乗り移らせる作業を終えると同時に、跡形も無く姿を消してしまったから。 でもきっと、ボクは彼が天の使いか何かだと思っているよ」
悪魔的な目をしたおじいさんが、天の使いだなんて……不自然だが、彼に齎したことに、裏はないだろう。 きっと。
「それにしても、オッズがカウルと話しをするために修行が必要なのに対して、どうして僕は最初からカウルと話すことが出来たんだろうね」
すると、オッズは、それもそうだ、と少し驚いた様子で僕を見返した。
「ボクは今までカウルと話せることはあたりまえのことのように思っていたが……鈍感だった。 君が何故カウルと喋ることができるのか。 いや、あの時リトルも喋っていたし、ウィルも……」
僕は彼の言葉を聞いて、もしかしたらオッズのレベルが低いだけなんじゃないかと、ひそかに思った。
「まったく、世の中は不思議なことでいっぱいだね!」
そう言うとオッズは無理矢理とりつくろった笑みを浮かべて、肩をすくめた。
「本当にね……」
むしろ、オッズを除く僕たちのメンバーが極めて特殊だったということは、言うまでもない。