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保管庫

散りゆく徒桜に、微笑みを。#1 spring

作者: 本宮愁

 風が、大ぶりな枝を微かに揺らしている。

 自らの重さにたわんだアーチは、白に近い薄桃色の花をぎっしりとぶら下げて、年季の入った校舎に影を落としていた。


 揺れる、枝。ほのかな花の香り。生ぬるいような、穏やかな日差し。そして降り注ぐ、無数の花びら。――覚えている。こんなにも克明に、まるで色褪せることなく、あの日の景色はここにある。


 散りはじめたばかりの桜が、一面にアスファルトを染めていく、その下で。彼女は、苔むした幹に右手をあてて、一人その木を見上げていた。


「あの……?」


 口をついて出た声に、振り向いた彼女は、泣いていた。声も出さず、ただただ静かに、涙の筋だけを頬に描いて。

 そして彼女は、ふわり、と、微笑んだのだ。あまりにも優しい表情だった。けれどとても、悲しかった。


 見てはいけないものを見てしまったような気まずさに駆られて、でも目を逸らすこともできなくて。言葉も無く立ち尽くした俺は、なんて無力だったんだろう。

 そのまま立ち去った彼女の背中を、いつまでも呆然と見つめていた。



 始まりの春を、なんどもなんども、夢に見る。


 兄貴の高校の卒業式。校舎裏で散る桜の根元には、ちいさな花束が一つ、落ちていた。



 丁寧に施されたラッピングに手を延ばして、拾い上げる。土に汚れた手書きのメッセージカードに並ぶ、流れるような綺麗な筆跡。――『おめでとうございます』。たった十文字の言葉が、どうしてか切なく、胸に刺さった。






  散りゆく徒桜に、微笑みを。

  ――J. 2nd-3rd Spring――






「――は、紹巴!」


 身体を揺さぶられる感覚に、重たい瞼を震わせる。持ち上げようとわずかばかりの努力を試みるも、早々に放棄して力を抜いた。


「お前なあ」


 呆れた声が落とされて、次の瞬間、身体にかかっていた心地良い重さと温もりが消える。


 引き止めようと伸ばした右手は虚しく空を掴んで、さらに追い縋ろうと上半身を捻ったところで、べしり、と頭部に衝撃が落ちる。


「……兄貴、酷い」

「あきらめて起きろ」


 恨めし気に見上げた先で、布団を小脇に抱えた5つ上の兄、三倉志葵はくすくすと喉を鳴らしていた。


「まだ春休み気分が抜けないのか? 中学生は気楽でいいな。羨ましいよ」

「俺、今年受験なんだけど。ってか兄貴こそ、すっげえ気楽そうじゃん」

「大学生なんてそんなもんだよ。……ほら、さっさと着替えろ」


 きっちりとアイロンがかけられたカッターシャツが、放物線を描いて飛んできた。あわててそれを掴んで、ぐずぐずと寝巻きを脱ぎ捨てる。たたみもせずに枕元へ投げ出した俺を呆れた目で見ながら、志葵はさらに透明な袋に入った学生服を投げてよこした。


「クリーニング出しといたってさ」

「姉貴が?」

「そ。……急げよ、紹巴。朱音がキレかけてる」

「それ早く言えよ!」


 サア――と顔色を変えた俺を、志葵が笑う。志葵と年子で、今年高校を卒業した4つ年上の姉、朱音のことが、俺は苦手だ。弱点と言ったっていい。


 高校生のときから多忙な両親に代わって家事をこなしてきた朱音は、第二の母親みたいなもので、逆らい難い強烈なオーラを標準装備しているのだ。


 俺が猛スピードで学生服のボタンを止めているあいだに、志葵の姿は消えていた。一階のカフェまで、朱音の作った朝食をとりに行ったのだろう。


「やべえ」


 ちらり、と確認した壁時計が、7時30分を示す。

 最低限の筆記用具だけが入った軽い鞄をひっつかんで、あわただしく部屋を出る。


 向かいの志葵の部屋はやはり空で、開け放された戸口からは、整然とした室内の様子がみてとれる。対して俺の部屋は、ベットには脱ぎ散らかされた衣服、床には漫画とゲーム、という惨状。

 こんなところでさえ、志葵との差を見せつけられたようで、階段を駆け下りながら思わず苦笑した。


 兄貴は、すごい。身内の贔屓目を抜きにして見たって、それはちょっとないんじゃないの、っていうような完璧人間。それが、三倉志葵だ。


 さっきはあんなこと言ったけど、志葵の通う大学は全国でも指折りの名門校で、俺みたいにただ気楽に過ごしてるのとはわけが違う。結果に見合うだけの努力をしてきたこと、本当は知ってる。


 頭が良くて、スポーツ全般得意で、でも全然、気取ったところなんかなくて。その上長身でイケメンだなんて、神様は随分と不平等に世界を作ったもんだ。……なんて、本気で信じてるわけでもないくせに、僻んでみたり。


 洗面所の鏡に映る、いまひとつ冴えない自分の顔と睨みあって、ため息をついた。


 志葵がここに立てば、俺よりも頭一つ高い位置に、す――と通った鼻梁が来る。両親から受け継いだ一つ一つのパーツは大差ないはずなのに、全体で比べれば一目瞭然雲泥の差。なんてったって、頭身がまるで違う。


 姉の朱音ですら、俺より頭半分背が高い。丸顔でチビな俺と兄姉の共通点なんか、目尻のキッと上がった猫目くらいのものだ。


「敵わないよなあ」


 もう、対抗しようとさえ、思えない。


 昔から、年の離れた弟として可愛がってくれる志葵の後ろを、必死に着いていった。振り返っては立ち止まり、わざと捕まってくれる背中が、本当はすごく遠いものだといつからか気がついていた。


 優しい兄を慕って、追い縋って、でも、届かなくて。大きく伸びた影さえも踏めない圧倒的な隔たりが、俺と兄貴との間には、確かにあった。


「紹巴! いつまで顔洗ってるの! 早くご飯食べちゃってよ。片付けられないでしょ」

「はいはーい」

「そう。弁当、いらないのね」

「はいぃ!」


 全速力で一階のカフェスペースへ駆け込んだ俺を、また志葵がくすくすと喉を鳴らして笑った。恨みがましく睨みあげてみても、ごめんごめん、と流されるばかり。自分の餓鬼臭さに嫌になって、ふい、と視線を逸らした。……なんだか、ますます情けない。


「……いただきます」


 湯気も消えかけなトーストに、黄身の固まりかけたハムエッグを挟んで、一気にかぶりつく。猫舌の俺は、このくらいの温度でなければかきこめないと、姉には熟知されている。


 コップに注がれた牛乳を一気飲みしていると、カウンターから顔を出した朱音が、弁当箱と水筒を机に並べた。開店準備でいそがしい両親は、店の厨房にこもりきり。『季節のタルト』でも焼きあがったのか、朱音のエプロンからは、香ばしくて甘い匂いがした。キッとつりあがった猫目が、もたつく俺を冷ややかに射抜く。


「あんた、また遅刻する気?」


 あきれた声に返す言葉はなく、精一杯の格好つけで黙ったまま朱音お手製の昼食セットをカバンに放り込む。立ち上がって椅子を適当にもどせば、時刻はもうギリギリ。半分以上走れば、なんとかなるか?


「ごちそーさま」

「――乗ってくか?」


 志葵が車のキーを見せる。


「いいよ。どうせ凛さん来るんだろ? 俺送ってったら待たせることになるし」

「べつに気にしないと思うけど」

「兄貴が気にしなさすぎなんだよ。さっさとフられちまえ!」

「そりゃ困るな」


 ありえないけど、と冷静に笑える志葵は、なかなか酷い男だ。弟だからこそ知っているけど、完璧にほど近い兄貴に、ひとつ欠点を上げるとしたら、――残酷な優しさ、だろう。


「……フられればいいのに」


 もういちど小声でつぶやいて、CLOSEDの札がかかったガラス扉から表通りへと飛び出した。






 カバンを背負って全力疾走。だけど途中であきて、もういいや、と思ってしまった。明るい朝の陽射しが目を刺す。そんな気分じゃないってのに、空は考慮しちゃくれない。


 やりきれない気持ちで空き缶を蹴る。カァンと甲高い音を鳴らして、ひしゃげたスチール缶は草むらにゴールイン。志葵だったら無造作にひろって、きっと公園のゴミ箱にでもご丁寧に収めるんだろう。沈黙した空き缶の横にあるビニール袋まで、わざわざ分別して捨てるかもしれない。兄貴は絵に描いたような優等生。人が良くて親切だ。どこに出しても恥ずかしくない自慢の息子で、どこにでもいるような俺とは、レベルがちがいすぎる。なんのレベルかはよくわからないけど、たぶん、人間レベルとか、そういうもの。ルックスでも学力でも大敗を喫しているわけだけど。


「あれ、紹巴くん?」


 背中にかけられた柔らかい声に、びくりと震えた。

 おずおずと振り向いた先には、穏やかに笑う人。


「咲乃さん……」

「やっぱり紹巴くんだ。今日学校は?」

「うち、くるの?」

「あ、私? うん。うちの高校、設立記念日でお休みだから。朱音先輩が、午前からきてもいいよ、って」


 ゆるやかに癖のかかった黒髪が、首の横からのぞくシュシュに束ねられて、胸の前に垂れている。仕事用の髪型だと、すぐに気づく自分が嫌だ。


「いま、兄貴いるよ」


 咲乃さんの表情が明るくなる。被害妄想かもしれないけど。すこし緊張した様子で頬を染めたようにしか、俺には見えない。


「……凛さん、来るから」


 ここで、なにも教えずに時間つぶさせるとか、そういうカッコいい気の利かせ方ができたらいいのに。


 自分で自分が嫌になる。咲乃さんが傷つくと知っていて、俺とおなじだけ咲乃さんも傷つけばいい、と願ってしまう自分が嫌だ。志葵は酷い男だけど、俺みたいな浅ましい酷さじゃない。あーあ。


「そっか」


 教えてくれてありがとう、と、優しげに微笑まれれば泣きたくなる。そんなつもりじゃないのに。


 兄貴に惚れてる咲乃さんは嫌い。だけど、俺が見つけるのは、いつでも兄貴に振り向いてもらえない、振り向いてもらおうとすらしない咲乃さんだった。志葵は酷い男だから、家族以外に向ける視野が極端に広くて狭い。深いようで浅い。見てはいるけど受け入れてはいない。相手からは見えないように、強烈な線引きをしている。咲乃さんは、その線引きの外側――気が優しいこの人には、きっと何年経っても踏み越えられない。


 教えてあげればいいのに、俺は黙っている。


 口を出すのは簡単だ。どうせ凛さんには勝てないよ、と言ってしまえばいい。そしたら、咲乃さんだって、俺を見てくれるのかもしれないのに。だけど初めからあきらめてる彼女に、わざわざそんなことを告げられるほど、残酷にはなりきれなかった。ただ、臆病になっているだけなのかもしれない。


「……じゃあ」

「いってらっしゃい。遅刻、朱音先輩にはだまっとくね」


 優しくしてくれなくていい。俺は優しくできないから。俺はあなたの弟にはなれないから。


 いたたまれなくなって、いまさら走り出す。どうせ間に合わないのに。いつだって俺は遅すぎる。背中でカバンが暴れていた。デタラメにつっこんだ弁当箱は、ぐちゃぐちゃになっているかもしれない。俺の頭ん中みたいに。


 頭上から降り注ぐ桜の花びらが、立ちつくしたままの情けない一年を思い知らせてきた。


 ねぇ、咲乃さん。

 苦しいね、――俺も、貴女も。

関連作品:

「散りゆく徒桜に、微笑みを。」(2012)

先行短編。冒頭部と本編の間に入る一幕。紹巴中2秋。

「アルストロメリアの百夜通い」(2014)

新生活企画(One step of story)提出作品。志葵と凛の話――の冒頭。紹巴中1春。

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