動き出した時間
教室はざわつき、各々が課題を消化している。今日は昨日課題を済ませた人はもう帰宅して良い事になっている。その立場の人は、ほとんどが授業開始後に教師に声をかけると帰路に就いた。
レナルトはレイラのもとにくると、無言で傷を作る。レイラに指先を指し出した。
またしろと言っているのだろう。
レイラは昨夜、遅くまで呪文の練習をしていたが、一度も成功しなかった。
レイラは呪文を詠唱するが、昨日以上の結果は残せない。
鞄の中に入れていた封魔石の存在が頭を過ぎったとき、レナルトがレイラの腕をつかんだ。
彼は少し考える仕草をすると、彼女の手首に触れる。彼につかまれた部分が熱を帯びていく。
「なに、するのよ」
「じっとしていて」
レナルトの指先がレイラの喉に触れ、額に触れ、眉間に触れた。最後にレナルトの大きな手がレイラの額に押し当てられ、体から離れる。呪文を詠唱した気がしたが、はっきりとは聞き取れない。
「炎は操れるよな?」
その言葉に教室内から音が消える。レイラはそんなクラスメイトはあえて無視する。
「できるよ」
「炎を出してみて」
視界の隅からオレクがかけてくるのが見えた。
「レナルト」
レナルトを呼ぶ教官の声が聞こえる。今の会話が聞こえたのだろう。
レイラが扱いをしくじり、大惨事を起こさないか心配しているのだろう。そんなことは不要だと心の中でつぶやく。
なぜなら炎を出したり、水を氷にしたりといったそういう類の魔法は、今まで一度も失敗した事がない。
レイラは目を閉じると、指先に宿る炎をイメージする。空気の焼ける気配を感じ取り、目を開けた。レイラの指先には彼女の身体を焼くことのない炎が宿っている。だが、この炎を術者以外に触れさせると、瞬く間に燃え上がるだろう。
「君はなんて危ない事を」
怒った教官をレナルトは指で制した。
「校長の許可を取ってます。それに説教なら後から聞きます」
教官はその言葉に押し黙る。
「消して」
レイラは炎を消す。彼女の指に巻きついていた炎は空気に飲み込まれたかのように姿を消す。
「どうやって出した?」
「目を瞑って炎をイメージするの。わたしの身体を焼くことのない炎を。そしたらできた。さっきも同じようにしたのに」
レナルトはレイラに身体を寄せ、耳に唇を寄せた。そこから聞こえてきた思いも寄らない言葉に、彼女は驚きから目を潤ませていた。
「本当なの? それ」
「俺が嘘をつくメリットなんて皆無だよ」
「間違っていたら?」
「お前の言うことを何でも叶えてやる。百個でも二百個でも。だから何度でもチャレンジしてみろ」
彼の言葉に頷き、同じ動作を繰り返す。目を閉じ、レナルトの傷を癒してくれる光をイメージする。目を開け、光の存在を確認した。そのとき、光の質がいつもと違うのに気づいた。煌きだけではなく、レイラの肌にまとわりつくような粘性を持っている。今までとは違う光だ。それは自然に彼の指に移っていく。
レナルトが眉間にしわを寄せる。
レナルトとレイラを繋いでいた光が消え、彼のさっきまで赤く染まっていた血や傷跡までも消したのだ。
「できたの?」
「随分と荒い光だったけどな」
レイラはレナルトの話を思いだし、唇を噛んだ。
「さっきの話は本当なの?」
「詳しいことは後から報告する。さっき言った事に対して、校長の許可があるのは本当だよ」
レイラは頷く。
彼がレイラに告げたのはこんな言葉だった。
もし、お前が傷を治癒できたら、学校に通わずに高等学校の卒業資格を与えてやる。
「レイラ=アーヴァン、合格ですね」
教官がレイラとレナルトを交互に見る。
ざわめく教室で自分の席に戻る幼馴染を見ながら、にやけそうになる口元を噛み締めていた。
◇◇◇
ミーナは十三歳年上の兄の存在を重荷に感じたことはなかった。兄がほめられることが彼女の喜びでもあった。年が離れていることや、彼女には自己顕示欲がなかったことがそうさせていたのかもしれない。
何でも真面目にこなす兄とは違い、ミーナはあまり物事に本気になれなかった。
学校でもマティアスの妹にしては能力が低いとよく言われていたし、ミーナ自身もそれで良いと考えていた。そんなミーナを変えたのは十年前の戦争だ。慕っていた兄の死もあるが、それだけではない。恐らく後者のほうがウエイトは多いだろう。
十年前、突然の兄の死に悲しむ間もなく、なきじゃくるレイラの傍にい続けた。アーヴァン家で生き残ったのはたった二人。その事がミーナに自立する心を与えた。
少しずつレイラの表情が戻ってきて、ほっとしたのもつかの間、マハトに呼び出された。
ミーナが彼を尋ねると、その表情は暗く、何かに思い悩んでいるように見えた。
「この国のために君も罪を被ってくれないか?」
ミーナは意味が分からずに顔を上げた。
「どういうこと?」
マハトはゆっくりと言葉を続ける。その内容を理解して、ミーナは身震いした。そんなことが実際に行われていいのだろうかという戸惑いと、そんなことができるのだろうかという不安。だが、彼の話が本当であれば、受け入れるしかないことも分かっていた。この国には秘密の守れる、強い魔力を持った魔法使いはそうそう残っていなかった。
「君の体の負担を最小限にするために、私達も最善を尽くす。だが、あと十年は必要なんだ。彼女を成長させ、家を継げる程に成長させるには」
彼にとってどれほどのきつい決断だったのか理解し、目を閉じて、息を吐く。
「分かりました。わたしに何かあったときはレイラのことをお願いします」
ミーナはわざとそう口にした。苦渋に満ちた彼はミーナの死後、自分の跡継ぎが成長したら、自らの命を絶つのではないかと思えたのだ。
彼は図星だったのか、言いかけた言葉を呑みこんだ。
彼が死ぬのと自分が死ぬのでは国民に与える影響も違う。
「責任を感じないでください。きっと全てが決まっていたことです。わたしがある程度強い力を持って生まれたのもこのためなのかもしれません」
ミーナにとって多くの人を失った経験は、死を当たり前のものとして受け入れさせた。だが、気がかりはある。ミーナの脳裏に過ぎるのは当時は幼いレイラのことだった。彼女だけは何があっても守らなければならないのだ。兄と交わした約束のためにも。
その後、ミーナは正式にアーヴァン家を継ぎ、マティアスが持っていたという未来を見通す力を手に入れた。だが、それには自ずと知りたくない情報も含まれている。周囲の人の死、そして自らの死。だからこそ、ミーナは未来を見ないようにしていた。だが、直感として肌でその未来を感じる時もある。自分はマハトより長生きできないだろうということだ。
ミーナは町はずれにある森に来ていた。目の前に広がる湖に手を伸ばす。冷たい水に触れ、ほっと息づいた。その水は僅かだが、体を回復させる効果もあるとされる。
ミーナは澄んだ空気を満喫すると、体を上方に仰け反らせた。
「そろそろ帰らないと。レイラも帰ってくるわね」
森から出て、郊外まで歩いて戻ろうとしたとき、人の影がミーナの前に立ちふさがる。赤い髪をした細身の男性の姿があった。目鼻立ちのはっきりとした瞳の澄んだ男性。彼のことは知っている。中等部で同じ学校に通っていたウルモ=キャスだ。
「久しぶりだね」
彼とは同じ年ではあったが、彼は飛び級後、五年間も学校を休学し、十五歳のときに戻ってきたという変わった経歴の持ち主だった。ミーナは十五歳で学校を卒業したため、彼と話をした記憶もほとんどなく、彼にかける言葉が思い浮かばずに曖昧に微笑む。
彼の髪が風に揺れる。
「君は相変わらず綺麗だね」
歯が浮くような言葉に少しだけ笑う。
「僕は国の命令でスカウトをしているんだ。主に国の機関で働けそうな潜在能力の高い子を探している」
「そうなのね」
そういう仕事があるとは聞いたことがある。現にミーナが学生の時も、そういった偵察が来ていた。ただ、自分には関係ないので、興味はなかった。
彼は連続的に言葉を投げかけてくる。
「やはりこの学校は人材が豊富だね。まさか、たった一人になったノール家の人間が普通に学校に通っているなんてね」
彼の視線が大きな建物を一瞥する。それは今は空き家になったノール家だ。
ミーナはその言葉に目を見開き、後退りした。
「どうしてそんなことを知っているの?」
国民はノール家の多くの人間が亡くなった事を知らない。そして、一人だけ正当な後継者となりうる少女がいることも。正統なというのは正統でない後継者ならばあと一人残っているからだ。
「どうしてだと思う?」
男の言葉に呼応するように何もない空間から無数の腕が現れた。ミーナの身体を縄のように縛り上げる。
ミーナは男の魔力の縄を解こうとした。
彼よりも自分の魔力が大きい事は分かっていたからだ。
だが、その縄はミーナの魔力の発動さえも許さなかった。
いや、正確にはミーナにそう錯覚させているのだ。
「あなた、もしかして」
彼は口角を上げて微笑む。いつもクラスの隅で一人で過ごしているタイプで、大人しいイメージが拭えない。だが、そのときの人の良い彼とは別人と思えてならなかった。以前の彼はこんな魔法を使わなかった。
「ずっと探していた。ノール家の跡継ぎをね。でも、同時に気になってた。誰がノール家の跡継ぎの代わりに、この国の結界を張っているのかを。君だったんだね」
ミーナを押さえつけている手はミーナの腕を雑巾を絞る要領で絞る。ミーナはその痛みに思わず声を上げそうになる。
彼が操る能力。それは人の五感だった。人の五感を麻痺させ、幻覚を見せる。ミーナを捕まえている手も例外でない。
自分の脳が見せている幻なので、攻撃型のミーナでは対処が難しい。気持ちを紛らわせば良いが、連続的な痛みに、集中できない。
この場をどうにかするために、以前書物で読んだ、幻覚から体を解放しようとする魔法を思い出す。精神が集中できない今、言葉を使い魔法を出すしかない。だが、ミーナの口は動かない。
「君に呪文を唱えさせるわけがないよ。そんなことをさせたらこっちの命がなくなってしまう」
彼は優しい笑みを浮かべた。
「大丈夫。すぐに殺しはしないから、安心してお眠り」
その言葉が引き金となり、頭が重くなる。意識が遠のきかけた瞬間、空間の割れる音がし、ミーナにかかっていた幻覚が消失した。
一瞬、ヨハンかと考えた。こうした魔法がデヒーオ家の人間が得意だ。
「ミーナに手を出さないで」
だが、そう叫んだのは銀色の光を受けている少女だった。
彼女は鋭い眼光で男を睨む。
「お姫様のお出ましですか」
男は獲物を狩る準備のようにゆっくりと唇を舐める。
「シルヴィア、逃げて。今のあなたに敵う相手じゃない」
彼の狙い。それがノール家の人間ならば真っ先に狙われるのは彼女だった。
「ミーナを置いてはいけない。一緒に逃げよう。おじいちゃんならどうにかしてくれる」
そのときだった。彼が言葉を呟くのが見えた。ミーナはシルヴィアを庇おうと彼女と彼の間を遮ったが、ミーナの目と鼻の先を風が駆け抜ける。そして二秒後、絹のような少女の肌に無数の赤い染みが生じる。
シルヴィアは小さな悲鳴を上げ、その場に屈む。彼女は身を起こして自分の腕を見る。彼女の口から二度目の悲鳴が漏れる。
「シルヴィア」
青ざめた彼女を見て、唇を噛む。まだ彼女は子供なのだ。自分の家のことも知っているか分からない。
ミーナは彼を向き直ると、睨んだ。
「彼女には指一本触れさせない」
「君は本当に優しい子だね。この子が死んでも君には関係ないじゃないか。この子がしっかりしていたら自らの命を削ることもなかったのにね」
「そんなの関係ないわ。彼女はまだ赤子だった。そんな彼女がノール家を継げるわけがない」
「昔から君はそうだったね。賢くて、曲がったことが嫌いで。そんな君を見ていると反吐がでるよ」
男は吐き捨てるように言ったもう一度口角を上げ、怪しい笑みを浮かべていた。
「あいつもそんな君が好きだったんだろうね。バカなやつだよ」
その言葉にミーナはレナルトと同じ髪の毛と目をした少年のことを思い出していた。




