Page1 仮装の始まり
僕は殺した。
それはまごうことなき事実。
そこに嬉しさも快感も、そして身を蝕むような背徳感さえもない。
目の前に横たわる現実と、恨むな、追うなという断末魔の苦しみの最中の苦悶に満ちた叫び。
やつらを追って、立ち去る僕に最期の力を振り絞って、この手に握らせた一枚の小さな小さな紙。
(先は頼んだ)
その言葉を最期に事切れた兄。
無念だと、悔しげな表情のまま永き眠りについた。
そんな事実をすべて貪欲に喰らえるほど今の自分は空っぽだった。
(コトリ、コトリ……)
足音が近付いてくる。
先程の喧噪は遠くまで届いたに違いない。
卑賤な狐どもはそのままにして、僕は冷めた兄をただぼんやりと見ていた。
彼が纏う、ロイヤルブルーの外套はまがまがしいアイボリブラックに染まっている。
決して血に染まることのない腰の刀はスカーレットに染まっている。
終わりだおしまいだ。
(コトリコトリ……)
もう近い。
僕の終わりも、破滅的な新時代の幕開けも間近だ。
「思い残すことなど何もない」
そう口に出したとたんに一つ思い出す。
Aven・Zalkと。
後ろ盾などなくとも次なる王となる未熟すぎる青年を。
死ぬわけにはいかない。
兄に飽きたらず、甥までも手に掛けるかもしれない。
いや、かけるに違いない。
すでに甥は彼らの手中にある。
許してはならないんだ、血は混じろうとも、心まで毒されることはなんとしてでも阻止しなくては。
(ガチャ……)
開け放たれたドアの向こう。
「アーネイ殿下!」
幸いにも第一発見者は古くからの友である大臣であった。
「ああダンケル? 僕は大丈夫。すべて終わってしまったけれど、ね」
みるみる蒼白になっていく顔。
兄の名を叫びながら、すっかり冷たくなってしまった手を握りしめた。
「生き返らない、終わったんだ。向こうに狐が二匹、居るよ」
話すことがある、だけれどそれを確認してからにして欲しいと言えば、ダンケルは少しばかり分別を取り戻して、そそくさと「向こう」へ消えた。
程なくして彼は戻ってきた。
さらに、蒼白な顔で、頼りなく歩み寄ってきた。
「まさか、まさか……」
「でもそれが現実だよ、ダンケル。僕はすべてを知っている、僕が終わらせたんだから」
でも、過ぎたことはどうでもいい。
今は、感傷に浸っている暇などない。
時間の許す限り、次なる手を打つ必要があった。
この黒き身が、どす黒く染まる前にだ。
「僕は処刑台に上らねばならない。だが、今のままでは死んでも死に切れない」
この気持ち、分かるよね? と、問うとダンケルは首を振った。
訝しげにじいと見つめると、彼は顔はまだ蒼白であったが、いつもの思慮深い態度を取り戻し答える。
「貴方様は裁かれる必要はございません、これは正当防衛であります。陛下の死を暗殺者のせいにしてしまえば疑うものは居なくなりましょう? 向こうの亡骸を広場に吊し上げていればよいのです。それが動かぬ証拠となるのです」
安心なさってくださいと真摯に見つめる眼差し。
その曇り一つのない眼を一瞬にして曇らせる事実はここに在った。
言わねばならないこと、そしてこの忠臣にしか明かせぬ事実。
「なかなか悪党だね、君も。でも、こう言ったらどうするの? 僕が兄を殺した、と」
ご冗談をと言う声は震えていた。
「いいや、冗談じゃないよ。僕は殺した、この右手で! この腕で抱いて! 一突きに!!」
息を切らして、声を絞り出すようにして僕は叫ぶ。
ダンケルは肩を力強くぐっと掴み、彼もまた叫んだ。
「ご冗談を、殿下! 何故貴方が陛下を殺さねばならなかったか……理由がございましょう? ええ、そうですとも、そう言ってください!」
どうしたことか、僕は笑い始めた。
笑いと同時に涙も涙も流れる。
ああ、ようやく、声に呼応して魂が戻ってきたのかな。
感情の渦の最中紡ぐ。
「安楽を、彼が願ったから。安息を、彼が願ったから。出来るだけ早く、眠らせてあげたんだ。そうして、そうして……気付いたら殺していたよ」
そうして再び狂ったように笑い出す。
ダンケルは肩を掴んでいた手を離し、まるで子供を安心させるように抱きしめ、背を撫でる。
「貴方に罪はございません、これは不可抗力であり、やむを得なかったのです……」
彼はそういうと、僕から離れ、兄の腰から刀を抜こうとした。
「何するつもり?」
それは始祖神の血を継ぐものしか触れられぬ刀。
部外者が触れたら何が起こるか、僕は恐ろしさに刀に触れんとするダンケルを突き飛ばす。
「何をするつもりだったの?!」
嫌な予感しかしなかった。
ダンケルの突き飛ばされてもなお、執拗に刀へ手を伸ばすその姿に、恐怖した。
伸ばした手を掴み問う。
「正気なの?」
と。
ダンケルは手を振り払い言う。
「貴方に、皇位を継承していただきます」
その響きは底なしの悪夢の始まりを意味した。
否、悪夢はついに動き始めたのだ。
愚かなとせせら笑うように実体なきその体で僕を呑まんとしている。
「そんな例外、赦されると思っているの? そして、タブーを犯してまでわざわざ僕が即位する意味は?!」
激高する僕を宥めるように微笑んだ。
「愚問ですね。アヴェン様に、皇帝の荷は重すぎるからですよ」
“そして、貴方が皇位についてしまえば、この暗殺を無かったことにも出来ましょう。”
それは極めて好都合であった。
甘美な響きに僕は酔いしれた。
そうして僕は悪夢の誘いに乗る。
「名案だね、ダンケル。最高だよ」
血塗れた刀は純白へ。
継承はここに成立する。