GTラーメン
お釜と、味噌汁用の寸胴鍋があった。見取図を描いてみて、ふと思い出した。並盛りと大盛りの二種類の椀があった。カウンターと向かい合う形でご飯をよそう。食器洗浄機があり、流しがあった。コールスローはどうしていただろう。電子レンジはどこにあっただろうか。冷蔵庫の中にはなにがあったのか。思い出せなかった。
卓にはなにがあっただろうか。紅しょうが、七味唐辛子、GABANの胡椒。胡椒はよく覚えている。ジンを飲み過ぎた翌日に、胡椒の匂いで吐きそうになったからだ。ということは、開店前に補充作業はあったのだろう。酔いの消えようもないうちに、世界が回るのを感じながら、ジンに似たスパイシーな匂いを思い切り嗅いだというわけだ。ギルビーのジン。人生で初めて飲んだジンだった。箸は? 割り箸? プラスティック? 紙ナプキンなんてあっただろうか?
ああ、たれがあった。鉄板の脇に、焼き肉のたれと生姜たれがあった。鉄板を前にした作業手順を想像してみて思い出した。白く焼けた肉に、円錐形のレードルでたれを回しかける。イメージすれば脳の中に蒸気とよい匂いがじゅうっと立ち昇る。そうだ、その感覚だ。
そして、付加情報からイメージを修正する。鉄板の下にお釜があった。米はそのお釜で炊いていたのだから、カウンターの前にあったのはお釜ではなく、大型の炊飯器だ。業務用の大きめのしゃもじが脇にあり、水に浸かっていた。
唐揚げ? あったような気はする。なに定食だ。わからない。コールスローのドレッシングは白いフレンチだろう。青い容器に入っていたはずだ。ハンバーグソースは赤い容器じゃないか? 蓋がついていて、取っ手がついている。容器と取っ手を思い浮かべれば、手と腕にその重量感が感じられる。そうしたものが冷蔵庫に入っていた。当然、肉も冷蔵庫だ。
人間関係はすでに思い出し終わっていた。シフトと給料の記憶に怪しいところはあったが、それも概ねは思い出し、十八歳になってからはときどき遅番に入っていたことも思い出した。十八時出勤、一時閉店。夜の静けさが好きだった。ユニフォームは水色のポロシャツ、紺色のエプロン、水色のラインが入った紙の帽子、厨房用のゴムの靴。店の奥に狭い更衣室があり、タイムカードと有線の設備もそこにあった。店前には店用の黒い自転車があった。「本店」からの帰りにトラックに撥ねられたこともあった。自分の自転車をどうしていたかは思い出せなかった。駐輪の決まりはあったはずだが、ビルの隙間にでも停めていたのだろうか。
武蔵境の町はすっかり変わっていた。GTラーメンはなくなり、どこにあったかさえわからなくなり、その先のどこかにあったはずの古本屋もなくなっていた。第三嶋田荘もなくなり、通りの向かいの銭湯も、そこにあったコインランドリーもなくなっていた。TOSHIが歌いに来たTSUTAYAはまだあった。イトーヨーカドーもまだあった。開かずの踏切が高架化されたことは知っていた。
あの時期に関して思い出せることはひと通り思い出そうという方針で始めた作業だった。大したことは思い出せなかった。六畳と台所、黄色くなった米の匂い。ガスの集金の声、身体に染みついた豚骨の匂い。『完全自殺マニュアル』とR.D.レイン、DOG TOWNのジャージ、ワウ・ペダル、いくらかの取るに足らないエピソード。俺は生活の全体を思い出すことを諦め、店を思い出すことに集中した。悪くない方針だった。脳は疲れ、頭は痒くなったが、二十四年前の記憶がじわじわと甦ってきた。
煮詰まってきたところで、俺はノートブックに見取図を描き始めた。入って右に券売機、従業員の出入りはカウンターの一番奥から、賄いもそこで食べたし面接もそこだった。通り側に換気扇があり、その内側には客からは見えない小部屋があった。
空間の中に物体として位置づけられて初めて、現実の存在は現実の存在たり得る。空間は空白を許さず、脳は空白を埋めたがる。物体は手触りを呼び起こし、手触りは手順を思い出させ、手順は音と匂いと動きを生じさせ、云々。ゆで麺器の場所が定まればそこにてぼはある。麺は自ずからラックにあり、一玉分をてぼに投じて箸でかき混ぜる。湯は煮立っている。上がる蒸気と熱を感じる。茹でる間にスープを濾して器に入れる。右手に柄杓、左手に濾し網。スープ用のコンロは当然ゆで麺器の隣にある。キッチンタイマーが鳴る。てぼを引き上げて湯を切る。湯を切れば手応えがある。湯が飛び、音が鳴り、麺の匂いと上がる蒸気と熱を鼻で顔で腕で感じる――。
ぶううとバイクが訪れ、ぱたんと階段下のポストの音がして、ぶううと去った。届いたのだろう。だが、俺はまだ作業を続けた。
――唐揚げはある。そのためのフライヤーだろ。鉄板の左脇にフライヤー。そういう位置関係だ。フライヤーで揚げるのは唐揚げだけだったか? かもしれない。カツやフライがあったとは思わない。唐揚げは表面を揚げて最後がレンジでチンだから、衣が柔らかい。それがGT流だ。ソースと同じタイプの容器にたれごと入っていて、トングで挟んでフライヤーだ。
生姜焼が「とんこま」だ。丸い肉が豚焼肉。四枚だ。牛カルビは長い。牛焼肉定食はあったか? 「ぎゅうてい」という音は頭に残っている。それは牛焼肉定食か、牛カルビ定食か。「かるびてい」? 「しょうがてい」? ああ、「しょうがてい」が生姜焼定食で、肉は丸いのを使う。「とんこま」を使うのは生姜焼セットだ。ラーメンと生姜焼きとコールスロー。
卵もあった。目玉焼きを焼いた。刷毛で鉄板に油を引いて、型を使って焼く。丸く、きれいに焼ける。ハンバーグ定食につけるのだ。生卵としても出していたはずだ。牛丼があるのに生卵を出していなかったとは考えられない。煮卵はあったか? あったはずだ、とは思うが、不確かだ。チャーシューはどんなだった?
豚の頭骨と鶏の足は使う。頭骨に豚の目玉が残っているときもあった。どろりと浮かび上がってくる。最初はグロテスクに、ショッキングに感じたんだろうか? 背骨、大腿骨、あまり覚えていないのは、スープ作りは任されていなかったからだろう。店長の仕事だ。牛丼を煮るためのコンロもあった。スープがふたつ、牛丼がひとつで、計みっつか。牛丼があるんだから玉ねぎもあるはずだが、玉ねぎを切った気がしない。
悲しい。すべての日々が消えてしまったことが悲しい。消えてしまうことが悲しい。寂しい。そうした類の喪失感と悲哀に、この頃はつきまとわれるようになっていた。人間には二通りいる――これから失っていく人間と、すでに失った人間だ。そんなことも考えた。俺はもう分水嶺のこちら側にいた。歳を取った。結局はそういうことだった。
一方で、加齢も喪失も事実であり、喪失感と悲哀が生じていることも事実である以上、それに関してどうこう言うつもりもなかった。気休めや慰め、甘い嘘を用意することは簡単だが、そうした活動に関心を抱くことはできなかった。困惑するがままに困惑し、痛むがままに痛み、悲しむがままに悲しむがよい。方針としてはそれで固まっていた。
今思い出せることは今思い出しておかないと、もう思い出せなくなる。そういうことも考えた。加齢に伴い、記憶力の低下、記憶の崩壊がさらに一段階進んだことも間違いのない事実であり、それがどこまで進行するのか、どう抗い、どう受け入れればいいのかはわからなかった。なにをどう思い出そうが、結局はすべて失うことにも変わりはなかった。
――煮卵はあった。間違いなくあった。殻を剥いた。剥き方を教わった。氷水で冷やして、こんこんとして少しだけひびを入れ、殻と白身の隙間に水を入れて、そこから剥いていく。簡単に、気持ちよく剥ける。ステインレスの容器をふたつ使って剥いていくのだ。これを思い出したのは、ちょっと嬉しかった。
つまみか。煮卵とメンマでつまみを出していた。ということはビールを出していたということだ。冷蔵庫に瓶ビールが入っていたかもしれない。栓抜きはどこにあっただろうか。冷蔵庫の前のラックか、あるいは壁にかかっていたのか。壁――そうだ、壁に電話機があった。俺がアルバイト応募の電話をしたときにもそこで電話が鳴ったはずだ。電話を取ったのは福澤さんだろう。
俺はようやく外に出て、階段を降りてポストを確認した。やはり届いていた。包みを部屋に持ち帰り、緩衝材で丁寧に梱包されていたそれを開封した。ゼンリン住宅地図 東京都26 武蔵野市。俺ははやる気持ちを押さえてざっと状態を確かめた。年代相応の傷みと表紙下部の破れはあり、地には不動産会社の印が押されていたが、使用に問題はない。よろしい。そう思いながら表紙を開くなり、残念な文言が目に入った――この地図にはビル・マンション・アパート等の明細は収録されておりませんので御了承下さい。
残念ではあったが、ないものはないのだから仕方がない。俺は区分図で武蔵境駅を探し、ページを開いた。29。ハンバーガードムドム武蔵境店。あった。それだ。行ったことはないが、あったことは間違いない。白と赤の小田急バスが訪れては去っていく暗く寂しい武蔵境駅に、確かにそんなものがあった。
静かな脳の興奮を感じながら、俺は一番街通りを左に追った。レンタルビデオ屋かなにかがこっちにあったはずだ――金子質店。あったかもしれない。そんな店があったかもしれない。俺はそんな薄暗い店でガットギターを買い、少なくとも眺めたことがあったかもしれない。少なくとも、「質屋」というものがかつては町にあり、機能していたことを思い出せたのは充分な収穫だった。
北口。俺は通りを追った。たからや佐藤、TRカンパニー、秋本タバコ店、サカイヤビル、中川5Fビル。清本ビルシェーヌ武蔵野まではいくまい。サカイヤビル。おそらくはそこだ。もしかしたら一階に古本屋があったのが清本ビルだったのかもしれない。仕事帰りに千円札を握り、買えるだけの文庫と新書を買って帰るのだ。
踏切に向かった。踏切から店舗まで一直線だったような気もしていたが、曲がるというならば確かにそうだったかもしれない。俺がトラックに撥ねられた現場を過ぎ、ときどきは遮断機を潜らざるを得なかった開かずの踏切、天文台踏切を過ぎ――。
――満州軒。それだろうか。それ以外にない。「本店」だ。ベトコンラーメン。あった。そんなものが確かにあった。俺はいくらかの鳥肌と嬉しさを感じた。強烈な匂いの店内、狭い階段を薄暗い二階に上がれば、「奥さん」が仕込みをやっている。美人の「奥さん」だ。そんな店のどこかに、手書きの文字があった。ベトコンラーメン。
俺は店名と地名で検索をかけた。ソーシャル・メディア、ブログ、掲示板。すぐに情報が出てきた。今は府中に後継の『くるま屋台GT』という店があるのだという。店主が「社長」なのか「店長」なのか、あるいは別の誰かなのかはわからないが、いずれにせよまだあるのだ。泣いていいならば、そこの油そばを食べたときなのだろう。
喪失は懐かしさに変わっていた。消失した二十四年前の日々。それでも、思うよりは思い出せた。過去と訣別したいわけではなかった。和解と統合。望めるならば、そうしたことが望ましい。
人生は明らかに失敗だった。それでも、俺にはこれしかなかった。
聴くべきはあのアルバムだった。デスクトップPCから動画サイトを開き、キーボードを叩いてタイトルを検索し、プレイリストを開いた。曲はすぐに始まった。スネアとクラッシュ、裏打ちのバスドラム、フィードバック・ノイズ、太くうねるフェンダーのジャズベース、歪んだスキャット。サーフ・グリーン、Nikon F3、手術台と錠剤、予感に満ちていたあの頃――一九九九年。
俺は口を結んで熱心に地図を眺めた――そこになにが映っている? いくらかなにか残っているかい? 深大寺三丁目は切れちまっている。大家さんの家はあった。保育園もあった。銭湯は載っていない。TSUTAYAはまだできていなかったかもしれない。連雀通り。三鷹駅。どこかのデックの上でボーカリストと会ったはずだが――吉祥寺はどうだ? 確かにサンロードの外れにジーンズメイトはあった。サムタイムは今もあるんだろう。ユザワヤ、ロンロン、高架の辺りに古本屋はあったんだろうが――古本屋が多い時代だった。吉祥寺通りの中古レコード屋はどこのビルだった? サウンドパーク吉祥寺――?
サンプリングの靴音、ブルーノート混じりの鍵盤ハーモニカ、十六分で弾むピアノ、Ⅳmaj7、Ⅲ7、Ⅵm7、I7。一日だけでいい、と俺は思った。一日ずつだけ、それぞれの時代に戻ってみたい。町を歩き、店に入り、部屋を眺め、「ああ、こうだった」を確認したい。なにかを変えたいわけじゃない。ただ眺めて、確認して、「ああ、こうだった」と納得して、満足したい。だが、あるいは、そして、今日思い出せたことも、来年には思い出せなくなるだろう。忘却は容赦しない。
マイナー・セヴンス・ナインスとイレヴンスの間をピアノが行き来し、オープン・コードのE・メジャー・セヴンスが掻き上げられた。なにかの匂いが脳の奥でくすぶり、通り過ぎてすぐに消えた。それはコインランドリーで読んだ古い文庫本の匂いだったかもしれないし、4トラックのMTRのカセットテープの匂いだったかもしれないし、母親と西国分寺で乗り換えて満員の中央線で運んだヤマハのギターアンプの匂いだったかもしれないし、『Pslam 69』のライナーノーツの匂いだったかもしれないし、五月の境南通りに八ミリフィルムのように瞬く木漏れ日の匂いだったかもしれないし、木造アパートの二〇二号室に射し込む赤すぎる武蔵野の夕陽の匂いだったかもしれなかった。




