名前のない白猫
弓形の出窓の下。
やわらかい日差しが、並んだ三つの窓から差し込んでいた。
よく磨かれた木床は白く光を弾いている。
彼女は、そこにいた。
木床に、癖のない真っ白な長い髪が散っている。
まるで猫のように、体を丸めて小さくなって眠っていた。
ふと、白い長い睫毛が震える。
ゆっくりと開いた瞳から覗くのは、澄んだ水色。
起き上がり、あくびをひとつして、あぐらをかく。
艶のある白髪を、指で払うようにかき上げると、視線を上げた。
壁際に置かれた大きな机。
胡桃色の髪の青年が、インク壺にペン先を浸している。
金茶の瞳は、静かに手元へ落ちていた。
まくり上げられたシャツの袖からは、白い手首がのぞいている。
白髪の彼女は、それをじっと見つめた。
「……今は春だから、そういうことをしたくなる季節なんだよ、リオ」
呼びかけられた青年は手をとめると、視線だけ彼女に向ける。
「今は夏だよ。白猫さん」
「そうだったかな」
「そうだよ」
白髪の眠たげな彼女は――
元・白猫。
近所の魔女婆にお願いして、ある日人間にしてもらった。
白猫の彼女はもう一度あくびをすると、立ち上がってリオの近くの椅子に座り直した。
彼の長い指先が、丁寧に文字を紡いでいく。
それをただ、眺める。
椅子の上で膝を抱えた。
まどろみ。
また、目を閉じる。
ペンが紙を擦る音が、そっと、まぶたをなぞった。
――それは少し前の、雨の日。
白猫だった彼女はひとりぼっちで鳴いていた。
毛が雨を吸い、身体が重い。
寒さで震えが止まらない。
好奇心のままに歩いていたら、たどり着いたのは、知らない街だった。
雨から逃げる場所がどこにあるのかも、わからない。
心細い夕方。
雨だけが、淡々と彼女の白い毛並みを濡らした。
ふっと、影が落ちる。
白猫が顔を上げると、やわらかそうな胡桃色の髪の青年が、こちらを覗き込んでいた。
無骨な黒い傘。
透き通った金茶の瞳。
「……迷子なの?
こんなに濡れてしまって……かわいそうに」
澄んだ甘い声。
青年が屈むと、猫はその腕に飛び込んだ。
彼は一瞬目を見開いたが、そのまま優しく猫を抱く。
「……連れて帰ってあげたいけど、大家さんが動物が苦手でね」
白猫は、彼を見上げる。
優しい香り。
温かな体温。
青年は猫を抱いたまま、雨の中をゆっくりと歩いた。
雨が霞をつくり、世界がぼやける。
猫は青年の腕の中で、ぼんやりとそんな景色を眺めていた。
広場の端に生える大きな木。
そこにある小さな樹の虚。
青年は腰を下ろすと、猫をその中に入れた。
ポケットからハンカチを取り出し、少し乱暴なくらいに猫の毛の水気を拭う。
傘をその虚にかかるように立てかけた。
「……僕には、こんなことしかできない。
ごめんね」
寂しげにそう言う青年の瞳を、白猫は静かに見つめる。
やがて彼は立ち上がると、着ていたコートを頭から掛け、駆け去っていった。
――出会いはそれだけ。
――でも、好きになるにはじゅうぶんだった。
白猫は、どこかで盗んできた宝石を、魔女婆に渡した。
“彼と恋をしたい。
――だから、人間の女の子にしてくれ”
猫がそう言うと、婆はだるそうに頭を掻く。
宝石をポケットに押し込んで、指先を振った。
そして、もともとしわくちゃの顔のしわをもっと深めて、婆は言った。
“幸せにおなり”
元・白猫は、走った。
慣れない二本足で。
彼の優しい匂いをたどって。
途中、転んだりしながら。
あの、胡桃色の髪の、愛しい人をただ探した。
――そうして彼女は今、リオの家に入り浸るようになっていた。
彼女の髪は、人間ではありえないほどに真っ白。
それだけで、どこかこの世のものではない。
このような見た目でリオと恋ができるのか――
白猫は、少しだけ目を伏せた。
「あのくそババア……」
「そういう言い方は良くないよ」
元・白猫の彼女が顔を上げると、リオは手元に視線を落としたまま、苦く笑っていた。
白猫を叱る声さえ甘いのだから、どうしようもない。
「リオ、好きだ。抱っこしてくれ」
「嫌だ」
白猫は頬を膨らませた。
窓の向こうの光が、白から橙に変わっていく。
白猫は膝を抱えたまま、金色に縁取られているリオの横顔を静かに見つめた。
---
ある日、扉が強く叩かれる。
リオは顔を上げると、ペンを置いた。布巾で丁寧に手を拭い、席を立って扉に向かう。
白猫の彼女は、出窓の下に寝っ転がったまま、それを目で追っていた。
木床を踏む音。
部屋には穏やかな白い光が満ちていた。
――だが、間を置かず、扉が叩かれる。
リオは、扉を押し開けた。
扉の向こうに立っていた人物。
リオの肩が、小さく震えた。
「いつまで遊んでいるつもりだ!!」
突然の怒声。
白猫は跳ねるようにして起き上がった。
「……父さん」
「早く戻ってきなさい!
婚約もとっとと調えねばならないだろう!
お前は我が伯爵家の跡取りなのだぞ」
リオは眉を寄せる。
「……僕は弟こそ、跡取りにふさわしいと思います」
「四の五の言うな!」
リオの父親は、彼の胸ぐらを掴んで強く引いた。
門の向こうには、黒い馬車。
リオの身体が、わずかに揺れる。
白猫は背後から飛びつき、その手に噛みついた。
「痛っ!」
男は手を払うと白猫を強く押した。
白猫はその場に転がる。
「なんだこの娘は!」
拳が振り上げられた。
――鈍い音。
白猫に覆いかぶさるようにして庇ったリオの背が、強く叩かれた。
父親は舌打ちをした。
男はそのまま踵を返し、大股で前庭を踏む。馬車に乗り込むと、それは音を立てて走り出した。
小さくなる、馬車の背。
石畳の砂が、わずかに舞った。
二人はそれを、呆然と見送る。
リオは小さく息を吐いた。
「リオ……大丈夫か?」
リオは白猫の服についた泥をそっとはたき落とす。
ゆっくりと顔を上げ、水色の瞳をまっすぐに見た。
「白猫さん……ありがとう。
――でも、僕のために、無茶はしないで」
リオの金茶の瞳に影が差す。
白猫は座り込んだまま、それを見上げた。
「お前……貴族だったのか」
リオは白猫の前にしゃがみ込むと、小さく首を傾げた。
そして、苦く笑う。
「僕の弟、すごく優秀なんだ。
家督の権利も……ちゃんと放棄して出てきたはずなんだけど……」
視線が下がり、リオは地面を見つめた。
「弟と父さんは、よく小さなことで衝突してた。
……何か、揉めたのかもね」
「……リオ」
白猫が手を伸ばしてリオの頬に触れようとすると、リオは逃げるように立ち上がった。
「僕には……関係のないことだよ」
白猫が何か言う前に、リオは背を向けて部屋の中に入っていった。
少しだけ、小さく見える背中。
白猫は黙ってそれを見つめた後、自分の指先を見た。
触れたかったのは、頬じゃない。
――それが何なのか、白猫にはまだわからなかった。
---
ガラス窓を雨が叩いていた。
雫が砕け、滑り落ちていく。
白猫は窓枠に肘をつき、それを眺めていた。
やがてそれに飽きると、リオに与えられた毛布を引きずり、木床を歩いた。
リオは、机で仕事をしている。
オイルランプがその手元を橙に照らしていた。
白猫は椅子を引き寄せ、彼の隣に座った。
膝を抱えて、その金茶の瞳をぼんやりと見つめる。
「リオは……帰らないよな」
リオは、手をとめた。
一度壁に視線をやり、それから白猫に顔を向けた。
「……実家に?
帰らないよ」
雨音だけが、部屋に落ちていた。
金茶の瞳の中で、橙の光がゆらゆらと揺れている。
「……ここに、私といてくれるよな?」
リオは、ふっと笑うと、わずかに目を伏せた。
遠くで、雷の音がする。
彼はまた、ペン先にインクを吸わせると、作業を続けた。
「……白猫さんは……猫にはもう戻れないの?」
「……戻ってほしいのか?」
白猫は、その横顔をただ見つめた。
「僕とここにいても……白猫さんは、幸せになれるか分からないよ」
雨音が、彼の声を覆い隠してしまう。
ふいに、リオが顔をあげた。
「……白猫さんは、名前は?」
「……白猫」
「名前がないってこと?」
きょとんと白猫を見るリオの表情は、少し幼く見える。
白猫は少し間の抜けた顔で口を開けてそれを見つめた後、両手を広げた。
「抱っこしてくれ」
「会話にならないな」
リオがふわりと笑い、白猫もつられるようにして笑った。
また彼は、手元に視線を落とした。
口角を楽しそうにあげたまま。
「猫に戻ったら、抱っこしてあげる」
「……せっかく人間になったのに」
白猫が頬を膨らませると、リオはまた小さく笑った。
雨音が、二人の間に落ちる。
白猫は、やっぱりあの頬に触れかった。
---
白猫は一人、小さな庭の椅子に座って日向ぼっこをしていた。
空を仰ぐと、長い白髪が背もたれに触れる。
手を伸ばして、雲の数を数えた。
だが風に押されて形を変え、数はすぐにわからなくなる。
ため息をついて、またぼんやりと空を眺めた。
馬車の音。
白猫が目をやると、門の前に黒い馬車が停まった。
そこから、青年がゆっくりと降りてくる。
彼は、家の扉の前で息を細く吐き出すと、ノッカーに手をかけた。
澄んだ低い音が響く。
リオは今、外出中だ。
初めは無視するつもりだったが、なぜか、白猫はその青年が気になった。
どことなく、リオに似ている。
そっと歩み寄り、首を傾げた。
――やっぱり似てる。
「弟か?」
青年は白猫に気づくと、驚いて肩を震わせた。
「君は……?
……兄さんの恋人か何か?」
「そうだ」
――嘘だが。
「……そう」
青年は、少しだけ頬を緩めた。
ほっとしたような、寂しいような。
白猫はそれを、ただ見ていた。
「幸せなんだ……兄さん。
……良かった」
白猫はじっと青年を見つめる。
彼はわずかに目を伏せたあと、白猫の水色の瞳をまっすぐに見た。
その瞳は、どこかリオに似ていた。
「……僕のことを、兄さんから何か聞いた?」
白猫は首を振った。
「……僕、好きな人がいるんだ。
兄さんの政略結婚の相手の女性。
まだ婚約は、調っていないけど。
兄さんは、僕に彼女を譲るために、家を出たんだ」
彼の瞳が、痛みをこらえるように細められる。
「……不便はない?
僕が兄さんにできることは、ある?」
「わからない」
「……そう」
青年は俯いた。
やがて、顔をあげて、淡く微笑む。
「……兄さんに、また来ると伝えて」
「……うん」
弟は、白猫に向かって深く頭を下げた。
そして、静かに踵を返して去っていく。
白猫は、ただ、その背を見ていた。
背の向こう。
空に浮かぶ雲は、さっきとは違う形をしていた。
---
風に揺れる胡桃色の髪。
白猫は背伸びして、手を大きく振る。
石畳の道の向こう。
リオが、ゆったりと帰ってきた。
「リオ! おかえり!」
「ただいま」
リオは、黒い鉄柵の門を押して入ってくると、門前にいた白猫に包みを渡した。
白猫は、それを高く掲げる。
「ミートボール!」
「そうだよ。今日の夜ご飯に。
白猫さんは、それが好きでしょ?」
「リオ! 好きだ! 抱っこしてくれ!」
「嫌だ」
リオは笑いながら家の中に入っていった。
白猫も、ミートボールの包みを大切に抱えて後を追う。
部屋に、紅茶の香りが満ちた。
リオは、部屋の中央のテーブルにカップを二つ置いた。
リオには紅茶。
白猫にはミルク。
リオが静かに席に着くと、白猫は椅子を引き寄せて隣に座った。
「リオ」
「ん?」
カップを口に当てていたリオが顔を上げる。
「交尾しようか」
リオはふっと笑った。
「……しないよ」
「じゃあキスしよう」
彼は片眉を上げる。
「猫は交尾のときにキスはしないでしょ」
「毛づくろいはする」
白猫が顔を寄せて、リオの頬を小さく舐めた。
リオは驚いて肩を震わせる。
彼は恐る恐る頬に指先で触れた。
「……痛くないんだね。猫の舌は痛いのに」
白猫は目を見開く。
「……よその猫に舐めさせたのか?
浮気じゃないか」
「何言ってんのさ」
リオが眉を寄せて白猫を見るが、彼女はそれを無視した。
白猫はため息をつくと、カップを持ち上げてミルクを飲む。
「……リオは優しい兄なのだな。
でも、もう少し自分に優しくしてもいいんじゃないか?
――そんなお前も好きだが」
壁時計の針の音。
リオがカップをテーブルに置いた。
彼は小さく息を吐く。
そして、席を立った。
白猫も、静かにカップを置く。
カップを揺らすと白い水面も揺れた。
――ふいに、白猫の大好きな香りに包まれる。
リオが白猫を、後ろからそっと抱きしめた。
白猫は、頬が熱くなった。
振り向きたいのに、なぜか振り向けなかった。
少しだけ、リオの腕に力がこもる。
やがて、彼は離れた。
木床を踏む音。
白猫が振り返ると、彼はいつもの仕事机に向かっていた。
「……リオ! もっと!!」
「……うるさい!」
リオの耳は赤かった。
白猫の頬も赤かった。
白猫は椅子の上で膝を抱えると、一人で笑った。
あたたかくて、くすぐったい。
紅茶の香り。
インクと紙の匂い。
そして、大好きな、彼の香り。
出窓から差し込む光は、今日も、やわらかかった。




