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短編

名前のない白猫

作者: かも ねぎ
掲載日:2026/04/17


 弓形の出窓の下。

 やわらかい日差しが、並んだ三つの窓から差し込んでいた。

 よく磨かれた木床は白く光を弾いている。


 彼女は、そこにいた。

 

 木床に、癖のない真っ白な長い髪が散っている。

 まるで猫のように、体を丸めて小さくなって眠っていた。


 ふと、白い長い睫毛が震える。

 ゆっくりと開いた瞳から覗くのは、澄んだ水色。


 起き上がり、あくびをひとつして、あぐらをかく。

 艶のある白髪を、指で払うようにかき上げると、視線を上げた。


 壁際に置かれた大きな机。

 胡桃色の髪の青年が、インク壺にペン先を浸している。

 金茶の瞳は、静かに手元へ落ちていた。

 まくり上げられたシャツの袖からは、白い手首がのぞいている。


 白髪の彼女は、それをじっと見つめた。

 

「……今は春だから、そういうことをしたくなる季節なんだよ、リオ」


 呼びかけられた青年は手をとめると、視線だけ彼女に向ける。


「今は夏だよ。白猫さん」

「そうだったかな」

「そうだよ」


 白髪の眠たげな彼女は――

 元・白猫。


 近所の魔女婆にお願いして、ある日人間にしてもらった。


 白猫の彼女はもう一度あくびをすると、立ち上がってリオの近くの椅子に座り直した。


 彼の長い指先が、丁寧に文字を紡いでいく。 

 それをただ、眺める。


 椅子の上で膝を抱えた。

 まどろみ。

 また、目を閉じる。

 

 ペンが紙を擦る音が、そっと、まぶたをなぞった。


 ――それは少し前の、雨の日。


 白猫だった彼女はひとりぼっちで鳴いていた。


 毛が雨を吸い、身体が重い。

 寒さで震えが止まらない。


 好奇心のままに歩いていたら、たどり着いたのは、知らない街だった。

 雨から逃げる場所がどこにあるのかも、わからない。


 心細い夕方。

 雨だけが、淡々と彼女の白い毛並みを濡らした。


 ふっと、影が落ちる。

 

 白猫が顔を上げると、やわらかそうな胡桃色の髪の青年が、こちらを覗き込んでいた。

 無骨な黒い傘。

 透き通った金茶の瞳。


「……迷子なの?

 こんなに濡れてしまって……かわいそうに」


 澄んだ甘い声。


 青年が屈むと、猫はその腕に飛び込んだ。 

 彼は一瞬目を見開いたが、そのまま優しく猫を抱く。

 

「……連れて帰ってあげたいけど、大家さんが動物が苦手でね」


 白猫は、彼を見上げる。


 優しい香り。

 温かな体温。


 青年は猫を抱いたまま、雨の中をゆっくりと歩いた。


 雨が霞をつくり、世界がぼやける。

 猫は青年の腕の中で、ぼんやりとそんな景色を眺めていた。


 広場の端に生える大きな木。

 そこにある小さな樹の虚《うろ》。

 

 青年は腰を下ろすと、猫をその中に入れた。

 ポケットからハンカチを取り出し、少し乱暴なくらいに猫の毛の水気を拭う。


 傘をその虚にかかるように立てかけた。


「……僕には、こんなことしかできない。

 ごめんね」

 

 寂しげにそう言う青年の瞳を、白猫は静かに見つめる。

 やがて彼は立ち上がると、着ていたコートを頭から掛け、駆け去っていった。

 

 ――出会いはそれだけ。

 ――でも、好きになるにはじゅうぶんだった。


 白猫は、どこかで盗んできた宝石を、魔女婆に渡した。


 “彼と恋をしたい。

 ――だから、人間の女の子にしてくれ”


 猫がそう言うと、婆はだるそうに頭を掻く。

 宝石をポケットに押し込んで、指先を振った。

 そして、もともとしわくちゃの顔のしわをもっと深めて、婆は言った。


 “幸せにおなり”


 元・白猫は、走った。

 慣れない二本足で。

 彼の優しい匂いをたどって。

 途中、転んだりしながら。


 あの、胡桃色の髪の、愛しい人をただ探した。


 ――そうして彼女は今、リオの家に入り浸るようになっていた。


 彼女の髪は、人間ではありえないほどに真っ白。

 それだけで、どこかこの世のものではない。

 このような見た目でリオと恋ができるのか――

 白猫は、少しだけ目を伏せた。


「あのくそババア……」

「そういう言い方は良くないよ」


 元・白猫の彼女が顔を上げると、リオは手元に視線を落としたまま、苦く笑っていた。

 白猫を叱る声さえ甘いのだから、どうしようもない。


「リオ、好きだ。抱っこしてくれ」

「嫌だ」


 白猫は頬を膨らませた。


 窓の向こうの光が、白から橙に変わっていく。

 白猫は膝を抱えたまま、金色に縁取られているリオの横顔を静かに見つめた。


---


 ある日、扉が強く叩かれる。


 リオは顔を上げると、ペンを置いた。布巾で丁寧に手を拭い、席を立って扉に向かう。

 白猫の彼女は、出窓の下に寝っ転がったまま、それを目で追っていた。


 木床を踏む音。

 部屋には穏やかな白い光が満ちていた。


 ――だが、間を置かず、扉が叩かれる。


 リオは、扉を押し開けた。


 扉の向こうに立っていた人物。

 リオの肩が、小さく震えた。


「いつまで遊んでいるつもりだ!!」


 突然の怒声。

 

 白猫は跳ねるようにして起き上がった。


「……父さん」

「早く戻ってきなさい!

 婚約もとっとと調えねばならないだろう!

 お前は我が伯爵家の跡取りなのだぞ」


 リオは眉を寄せる。


「……僕は弟こそ、跡取りにふさわしいと思います」

「四の五の言うな!」


 リオの父親は、彼の胸ぐらを掴んで強く引いた。

 門の向こうには、黒い馬車。

 

 リオの身体が、わずかに揺れる。


 白猫は背後から飛びつき、その手に噛みついた。


「痛っ!」


 男は手を払うと白猫を強く押した。

 白猫はその場に転がる。

 

「なんだこの娘は!」


 拳が振り上げられた。


 ――鈍い音。

 

 白猫に覆いかぶさるようにして庇ったリオの背が、強く叩かれた。


 父親は舌打ちをした。


 男はそのまま踵を返し、大股で前庭を踏む。馬車に乗り込むと、それは音を立てて走り出した。

 

 小さくなる、馬車の背。

 石畳の砂が、わずかに舞った。

 

 二人はそれを、呆然と見送る。


 リオは小さく息を吐いた。


「リオ……大丈夫か?」


 リオは白猫の服についた泥をそっとはたき落とす。

 ゆっくりと顔を上げ、水色の瞳をまっすぐに見た。


「白猫さん……ありがとう。

 ――でも、僕のために、無茶はしないで」


 リオの金茶の瞳に影が差す。

 白猫は座り込んだまま、それを見上げた。


「お前……貴族だったのか」


 リオは白猫の前にしゃがみ込むと、小さく首を傾げた。

 そして、苦く笑う。


「僕の弟、すごく優秀なんだ。

 家督の権利も……ちゃんと放棄して出てきたはずなんだけど……」


 視線が下がり、リオは地面を見つめた。


「弟と父さんは、よく小さなことで衝突してた。

 ……何か、揉めたのかもね」

「……リオ」


 白猫が手を伸ばしてリオの頬に触れようとすると、リオは逃げるように立ち上がった。


「僕には……関係のないことだよ」


 白猫が何か言う前に、リオは背を向けて部屋の中に入っていった。


 少しだけ、小さく見える背中。


 白猫は黙ってそれを見つめた後、自分の指先を見た。


 触れたかったのは、頬じゃない。

 ――それが何なのか、白猫にはまだわからなかった。


---


 ガラス窓を雨が叩いていた。


 雫が砕け、滑り落ちていく。

 白猫は窓枠に肘をつき、それを眺めていた。


 やがてそれに飽きると、リオに与えられた毛布を引きずり、木床を歩いた。

 

 リオは、机で仕事をしている。

 オイルランプがその手元を橙に照らしていた。


 白猫は椅子を引き寄せ、彼の隣に座った。

 膝を抱えて、その金茶の瞳をぼんやりと見つめる。


「リオは……帰らないよな」


 リオは、手をとめた。


 一度壁に視線をやり、それから白猫に顔を向けた。


「……実家に?

 帰らないよ」


 雨音だけが、部屋に落ちていた。

 金茶の瞳の中で、橙の光がゆらゆらと揺れている。


「……ここに、私といてくれるよな?」


 リオは、ふっと笑うと、わずかに目を伏せた。


 遠くで、雷の音がする。


 彼はまた、ペン先にインクを吸わせると、作業を続けた。


「……白猫さんは……猫にはもう戻れないの?」

「……戻ってほしいのか?」


 白猫は、その横顔をただ見つめた。


「僕とここにいても……白猫さんは、幸せになれるか分からないよ」


 雨音が、彼の声を覆い隠してしまう。


 ふいに、リオが顔をあげた。


「……白猫さんは、名前は?」

「……白猫」

「名前がないってこと?」


 きょとんと白猫を見るリオの表情は、少し幼く見える。

 白猫は少し間の抜けた顔で口を開けてそれを見つめた後、両手を広げた。


「抱っこしてくれ」

「会話にならないな」


 リオがふわりと笑い、白猫もつられるようにして笑った。


 また彼は、手元に視線を落とした。

 口角を楽しそうにあげたまま。


「猫に戻ったら、抱っこしてあげる」

「……せっかく人間になったのに」


 白猫が頬を膨らませると、リオはまた小さく笑った。


 雨音が、二人の間に落ちる。

 白猫は、やっぱりあの頬に触れかった。


---


 白猫は一人、小さな庭の椅子に座って日向ぼっこをしていた。

 空を仰ぐと、長い白髪が背もたれに触れる。


 手を伸ばして、雲の数を数えた。

 だが風に押されて形を変え、数はすぐにわからなくなる。

 ため息をついて、またぼんやりと空を眺めた。


 馬車の音。

 

 白猫が目をやると、門の前に黒い馬車が停まった。

 そこから、青年がゆっくりと降りてくる。


 彼は、家の扉の前で息を細く吐き出すと、ノッカーに手をかけた。

 澄んだ低い音が響く。


 リオは今、外出中だ。


 初めは無視するつもりだったが、なぜか、白猫はその青年が気になった。

 どことなく、リオに似ている。


 そっと歩み寄り、首を傾げた。


 ――やっぱり似てる。

 

「弟か?」


 青年は白猫に気づくと、驚いて肩を震わせた。


「君は……?

 ……兄さんの恋人か何か?」

「そうだ」


 ――嘘だが。


「……そう」


 青年は、少しだけ頬を緩めた。

 ほっとしたような、寂しいような。

 白猫はそれを、ただ見ていた。


「幸せなんだ……兄さん。

 ……良かった」


 白猫はじっと青年を見つめる。

 彼はわずかに目を伏せたあと、白猫の水色の瞳をまっすぐに見た。


 その瞳は、どこかリオに似ていた。

 

「……僕のことを、兄さんから何か聞いた?」


 白猫は首を振った。


「……僕、好きな人がいるんだ。

 兄さんの政略結婚の相手の女性。

 まだ婚約は、調っていないけど。

 兄さんは、僕に彼女を譲るために、家を出たんだ」


 彼の瞳が、痛みをこらえるように細められる。


「……不便はない?

 僕が兄さんにできることは、ある?」

「わからない」

「……そう」

 

 青年は俯いた。

 やがて、顔をあげて、淡く微笑む。


「……兄さんに、また来ると伝えて」

「……うん」


 弟は、白猫に向かって深く頭を下げた。

 そして、静かに踵を返して去っていく。


 白猫は、ただ、その背を見ていた。


 背の向こう。

 空に浮かぶ雲は、さっきとは違う形をしていた。


---


 風に揺れる胡桃色の髪。


 白猫は背伸びして、手を大きく振る。

 石畳の道の向こう。

 リオが、ゆったりと帰ってきた。

 

「リオ! おかえり!」

「ただいま」


 リオは、黒い鉄柵の門を押して入ってくると、門前にいた白猫に包みを渡した。

 白猫は、それを高く掲げる。


「ミートボール!」

「そうだよ。今日の夜ご飯に。

 白猫さんは、それが好きでしょ?」

「リオ! 好きだ! 抱っこしてくれ!」

「嫌だ」


 リオは笑いながら家の中に入っていった。

 白猫も、ミートボールの包みを大切に抱えて後を追う。


 部屋に、紅茶の香りが満ちた。


 リオは、部屋の中央のテーブルにカップを二つ置いた。

 リオには紅茶。

 白猫にはミルク。


 リオが静かに席に着くと、白猫は椅子を引き寄せて隣に座った。


「リオ」

「ん?」

 

 カップを口に当てていたリオが顔を上げる。


「交尾しようか」


 リオはふっと笑った。


「……しないよ」

「じゃあキスしよう」

 

 彼は片眉を上げる。


「猫は交尾のときにキスはしないでしょ」

「毛づくろいはする」


 白猫が顔を寄せて、リオの頬を小さく舐めた。

 リオは驚いて肩を震わせる。

 

 彼は恐る恐る頬に指先で触れた。


「……痛くないんだね。猫の舌は痛いのに」


 白猫は目を見開く。


「……よその猫に舐めさせたのか?

 浮気じゃないか」

「何言ってんのさ」


 リオが眉を寄せて白猫を見るが、彼女はそれを無視した。

 白猫はため息をつくと、カップを持ち上げてミルクを飲む。


「……リオは優しい兄なのだな。

 でも、もう少し自分に優しくしてもいいんじゃないか?

 ――そんなお前も好きだが」

 

 壁時計の針の音。

 リオがカップをテーブルに置いた。


 彼は小さく息を吐く。

 そして、席を立った。


 白猫も、静かにカップを置く。

 カップを揺らすと白い水面も揺れた。


 ――ふいに、白猫の大好きな香りに包まれる。


 リオが白猫を、後ろからそっと抱きしめた。

 

 白猫は、頬が熱くなった。

 振り向きたいのに、なぜか振り向けなかった。


 少しだけ、リオの腕に力がこもる。


 やがて、彼は離れた。

 

 木床を踏む音。

 白猫が振り返ると、彼はいつもの仕事机に向かっていた。


「……リオ! もっと!!」

「……うるさい!」


 リオの耳は赤かった。

 白猫の頬も赤かった。


 白猫は椅子の上で膝を抱えると、一人で笑った。

 あたたかくて、くすぐったい。


 紅茶の香り。

 インクと紙の匂い。


 そして、大好きな、彼の香り。


 出窓から差し込む光は、今日も、やわらかかった。

 

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