村上春樹論
村上春樹
昨今、ノーベル賞発表の時期になると、毎年の様に騒がれる様になった村上春樹。
ハルキストと呼ばれる彼の熱狂的なファンもいる一方で、彼の文章を気持ち悪いと毛嫌いする人もいる。
何故、こうまでして村上春樹に対する評価は二分されるのだろう。
もっと言えば、彼の文章の何処が気持ち悪く、またそれは、何故なのだろうか。
先ず、そもそも、村上春樹は一体何がしたいのかについて、考えてみたいと思う。
それでは初めに、村上春樹が作家としてどの立場にいるかについて考えてみたい。
私は、作家には主に三つのタイプがあると思っている。
一つ目は、書きたい物語があるタイプ。
二つ目は、作品を通じて読者に伝えたいことがあるタイプ
三つ目は、作品を使って表現したい事があるタイプ。
私は、村上春樹は、三つ目の、作品を使って表現したいことがあるタイプだと思う。
何故ならば、別に彼の作品を読んでいて、例えばだが、反戦だの、愛は勝つだの、そんなメッセージを感じたことはないし、かといって、私はこんな話が書きたかったんですという風には、とてもじゃないが、思えないからだ。
もし仮に、ここまでの私の推察が正しいとして、彼は一体、何を表現したいのだろうか。
単純な愛だとか憎しみとかいう感情だろうか。
私は違うと思う。
彼の文章は基本的に、そんな風に、一言で表せる様なものではないからだ。
じゃあ何を表してるのかと言えば、多くの人が彼の文章を読んだ時に感じるであろう、何を言ってるのか、何が言いたいのかが分からないというその感覚が実は、一番正解に近いのではないかと思う。
つまり、彼が表現したいのは何かよく分からないものではないかということだ。
もっと言うと、我々の感情というものを、そのまま、ありのままの状態で表現しているのではないかということだ。
そして、そうであれば、彼の作品の登場人物達に、感情の起伏があまりない様に見える事の説明がつくというものだ。
とは言っても、これだけでは何を言っているのか分からないだろうから、詳しく説明しよう。
先ず、大前提として、言葉というのは、定義であるという話がしたい。
どういうことかというと、言葉とは、あくまで架空の、もっと言うと、我々が、実体があるなしに関わらず、この世に存在している何かを、相互の共通認識の上で名前付けしたものに過ぎない。
つまりは、言葉とは虚構であり、実体ではないのだ。
例えば、貴方が何らかしらの感情を抱く時、我々はそれを、嬉しいや悲しいなどの言葉で表そうとする。
しかしだ、貴方が抱いている感情は、本当にそんな言葉で表せるものだろうか。
もっと複雑で、色々な感情がごちゃ混ぜになった、到底言葉で言い表せやしない様なものではないだろうか。
我々はただ、そんなよく分からない感情に、一番近いであろう感情を指す言葉で、表しているのに過ぎないのではないだろうか。
結局の所、言葉は無力なのだ。
今、敢えて感情という掴みどころのないよく分からないものを例に挙げたが、物体を例に挙げると、もっと分かりやすくなる。
例えば、椅子という言葉。
それを聞いた時、貴方はどんな椅子を思い浮かべただろうか。
丸い椅子、四角い椅子、背もたれがある椅子、ない椅子、回転する椅子、しない椅子、一体どんな椅子を思い浮かべただろうか。
詰まる所、一つの言葉から連想される椅子は無数にあり、幾ら修飾を繰り返して説明したとして、実物を知らなければ、話し手と聞き手が、全く同じものを思い浮かべることは、不可能だろう。
ここで一旦村上春樹の話に戻りたい。
村上春樹が、よく分からない感情を表したいのだとすれば、どの様な手法を彼は取っているのだろうか。
私が考えるに、行動に感情を表現させているのではないだろうか。
行動を言葉で表現した際、そこにはあまり聞き手と話し手の認識の乖離は生まれない。
つまりは、感情という言葉では語れないものを語るには、行動という言葉で語れるものが相応しいということだ。
また、さらに言えば、基本的に行動というのは、感情や思考の結果出力されるものである。
であれば、行動という結果から原因たる感情を推察させるというのは何ら不思議なことではないだろう。
だからこそ、彼の文章はキモいと言われるのだ。
本来、行動を描写する際には、それの原因たる感情がついて回る。
性的な描写であれば尚更だ。
だが、先程述べた通り、村上春樹に至ってはそうではない。
だからこそ気持ち悪いという感想が出てくる。
言うなれば、凄く美味しそうな味のないカレーを食べている様な、もしくは、カレーの味だけを感じる、味覚以外のどの感覚も刺激しないものを食べている様な感じだろうか。
見た目から味、味から見た目を想像できなければ、それはそれは気持ち悪いだろう。
だがそれこそ彼のやりたいことであり、作家人生をかけて成し遂げたいのだろう。
そう思えばこそ、性行為という、男女の愛憎やその他様々な感情が伴う行動、を彼は必ずと言っていいほど描写するのだろう。
あの不思議な設定や、到底理解の及ばない物語中の現象も、より理解できないもの、すなわち感情を浮かび上がらせるための舞台装置に過ぎないというわけだ。
存外、彼の小説は意外と単純だ。
そこまで奇怪な様相を呈しているわけではない。
もう一度、フラットな目線で、彼の小説を、眺めるといい。
きっと、気持ち悪さで見えなくなっていたものが、見えてくるはずだから。
追伸
よく素体に挙げられる村上春樹の性的描写について
村上春樹の文章を一辺倒に「気持ち悪い」と評し切り捨てる「バカ」の脳内で何が起きているのかを考えてみよう。まず先ほどの節で解説した、記号的な「言葉」によってクオリアを表すという営為についてだが、別にこれは日常会話やその他の短なコンテクストにおいてのみ行われることではなく、膨大な媒体、ここで言えば「小説」においても適応させうる話である。その上で考えると、小説という媒体でクオリアを語るときに、果たして記号として言葉を用いるのみでそれを表しうるものであろうか。答えは、否。もし言葉一つでクオリアを表せるのであれば全ての小説には、行為も、情景も、人間も、必要なく、ただ淡々とそれを理路整然とした論理構築によって語る随筆であれば良いのだから。
つまり村上春樹にとっての気持ち悪い描写ー専ら性的な描写とは、物語に於いて記号的にクオリアを表す役割を担っているのだ。しかし、バカはこれを解さない。彼らは、長大な物語に於いて、言葉以外の、例えば行為、情景、人間などがどういった役割を担うかということについて認識できないのだ。この文章を読んでいるあなたが、当該バカの場合を考慮して説明すると、村上春樹の小説における性的描写の部分のみを切り取って「ミソジニー」などと評価し語る行為は、「運行時間割を作成する」という文章を見て「うんこうじかんわり?うんこ?なんて下品な!」と大声で喚き散らすようなことである。本来、村上春樹の文章の批評においてあるべき姿とは、その指示されるクオリアについて、またはそれを表現するためにいかに洗練されたプロセスを選択するか、ということであり、先ほどの例で言えば「運行時間割を作成する、という行為の意義性」について論じるのが、健全な評論というものである。運行時間割は確かに「うんこうじかんわり」であるけれども、うんこであるはずがない。言ってしまえば、バカどもはこのとき「運行時間割を作成する」という文章が読めていないのだ。




