【幼少期】風に揺れる ひとひらの記憶 - イエレナ -
昨日から、隣国アストレア王国からお客様が来ているらしい。
朝から城の中がいつもより少しだけ騒がしい。
けれど、外の風は変わらず穏やかだった。
お父様もお母様も慌ただしくしていて、兄さま――アズベルトも、朝からどこかへ呼ばれていた。
私はまだレビュタントの儀を受けていない。だから、大人たちの集まりには出られない。
退屈で、でも静かにしていないといけなくて、そっと城の回廊を歩いていた。
外の庭では風がさざめいていて、窓の外に広がる木々の葉が、金色の光を受けてゆらゆら揺れていた。
ふと、角を曲がった先で、見慣れた背中を見つけた。
「あ、アズっ!」
思わず声がこぼれる。
弾かれるように駆け寄った私に、アズは少しだけ目を丸くしてから、困ったように笑った。
「……あの、こっちはお客さま、だから」
そのひと言に、私は一瞬で足を止めた。
兄の背の横に立っていたのは、見たことのない少年。
雪のように白い髪が春の光を受けてきらりと揺れ、深い瑠璃の瞳がこちらを見ていた。
その瞬間、胸の奥がきゅっと掴まれたように感じた。
ただの「知らない人」なのに、周りの空気が少し違って見えたから。
そして、気づいた。
――彼のまわりを、小さな精霊がひらひらと飛んでいる。
どうして? 普段はこんなにたくさん集まらないのに。
(……なんでだろう)
私はとっさにアズの背に隠れたけれど、目だけは彼から離せなかった。
絵本に描かれていた王子様のようで、けれどアズとは違う優しさに包まれた雰囲気をまとっていた。
「イェナ、紹介するよ。こっちはアストレアの第五王子、セレスト。ぼくの友だち」
兄の声にうながされ、私は小さく頷いた。
すると、セレストは少し緊張したように、それでもまっすぐな声で言った。
「……こんにちは。セレスト、です」
ぱちりと瞬きをして、私はようやく「……こ、こんにちは」と小さく返した。
それだけなのに、心臓がどくんと大きく鳴った気がした。
ほんの短い挨拶なのに――その声が耳の奥に残る。
やわらかな響きが胸の奥でほどけていくようだった。
何を話せばいいのか分からず、私はアズの袖をそっと掴んだ。
その指先が少し震えているのを、自分でも感じていた。
けれど、不思議と怖くはなかった。
「ね、アズ。お庭……行ってもいい?」
ほんの少し、勇気を出して言ってみる。
アズは優しく笑いながら頷いた。
「うん、今日は人が多くないから平気。セレストも一緒でいい?」
その言葉に、私はちらりとセレストを見た。
瑠璃色の瞳がまっすぐこちらを見ていて――
胸の奥がふわりと熱くなる。
ためらいながらも、小さくうなずいた。
その瞬間、彼の口元が少しだけほころんだのが見えた。
それだけで、なぜか胸がきゅうっとなる。
アズのあとを追って回廊を抜けると、陽光が透けてあたたかく満ちていた。
鳥の声が風に混じり、草の香りがふわりと漂い、
この場所全体がやさしく息をしているようだった。
「ここのお庭、イェナがすごく好きなんだ。草木の名前とか、たくさん知ってるんだよ」
アズがそう言うと、私は思わず頬を熱くしながら答えた。
「……アズが、教えてくれたことも、あるから」
「でも最近はイェナの方が物知りなんだよ」
アズの冗談にセレストが小さく笑った。
その笑い声は、初めて聞くのにどこか懐かしい響きがした。
そのとき。
ふわりと羽音がして、一羽の小鳥が私の膝のそばに降り立った。
「……あ」
思わず声がもれる。
小鳥は逃げるどころか、ぴょんと私の指先に移り、小さなくちばしでつついた。
その感触に、くすぐったくて小さく笑ってしまう。
「だめだよ。いま、なにも持ってないの」
小声でなだめると、小鳥は首をかしげて、それでもじっと私を見つめていた。
まるで本当に言葉が通じているかのように。
横でアズが「ほんとに、森の子だな……」と笑う。
その声に釣られるように、セレストも目を細めていた。
視線を上げると、彼のまわりでまた精霊が舞っているのが見えた。
どうしてこんなに、心地よさそうに――あの人のそばにいるんだろう。
(……不思議なひと……)
胸の奥が、ほんの少し熱を帯びた。
それが何なのか、まだ幼い私はうまく言葉にできなかった。
小鳥はふわりと羽ばたき、光の中へ溶けるように空へ消えていった。
私はその後ろ姿を目で追いながら、胸の奥がほんのりあたたかくなるのを感じていた。
精霊が心地よさそうに舞う、不思議な男の子。
アズとは違う優しさをまとう、その横顔。
それがどんな気持ちなのか、幼い私はまだ知らなかった。
ただ――絵本に出てくる王子様のように、きれいなひとだと思った。
◇ ◇ ◇
やがてその記憶は、いくつもの季節のなかに埋もれていった。
幼い日のひとときのきらめきは、朝露のように静かに消えてしまったのだ。
――だから今の彼女は、このときセレストに出会っていたことを思い出すことはない。
けれど確かに、あの瞬間、心の奥に小さな光が灯っていた。
それは、まだ名前のない気持ち。
絵本の王子さまを見つけたときのような、不思議であたたかな出会い。
風に揺れる、初めての“恋”のかけらとして――
確かに胸の奥に刻まれていた。
その名を知るのは、もっとずっと先のこと。
けれど、あの日の風の匂いだけが、
今もどこかで静かに息づいている。
(了)
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