【幼少期】風に揺れる初恋のかけら - セレスト -
アストレアの空よりも、すこし淡く、透き通った青が広がっていた。
フォルディナの春は、光そのものがやわらかい。
空気も景色も輪郭がふんわりとしていて、日差しは城の白い石壁をなぞるように降り注ぎ、
石畳に落ちる影さえ丸く優しく映していた。
父王に随行して訪れたのは、もう何度目だろう。
外交の場に並ぶことも珍しくなくなったが、今回は数日にわたる滞在。
政だけでなく、この国の内側へ一歩深く踏み込むような気配があった。
だからだろうか。
どこか胸の奥が落ち着かない。
風が髪を揺らしただけで、異国にいることを改めて実感する。
夢の中のように柔らかな現実――その不思議な距離感に、心がかすかにちくりとした。
(この国で、何かが始まる……)
誰に言われたわけでもなく、ただ、そう思った。
セレストには時折、言葉にならない予感が降りてくることがあった。
まだ幼い自分には扱いきれないほど大きいのに、確かに存在する“何か”。
「……今日の空は、きれいだな」
ぽつりとこぼした声が風に溶け、春の光に運ばれていく。
すぐ隣には、アズベルトがいた。ひとつ年上の王子。
初めて会った頃は背筋をぴんと伸ばし、近寄りがたいほど大人びて見えた。
けれど何度か顔を合わせるうちに、ふとした瞬間に人懐こい笑みを見せるようになった。
――そういう人を、セレストは他に知らなかった。
「こっちこっち。昼はここの回廊、すごく光が入るんだ」
振り返るアズベルトの笑顔は頼もしく、
すでに“兄”の顔をしているようで、少しだけ悔しかった。
彼のあとを追いながら、ぼくたちはフォルディナ城の東棟を歩いていた。
花の刺繍を施したタペストリー、精霊を象った細工灯、春の草原のような色の絨毯。
アストレアよりも繊細な装飾は、城そのものが静かに呼吸しているようだった。
そして、この国には精霊が多い。
庭園や噴水、柱の陰……気を抜くと、ふっとこちらを覗かれているような気配がある。
それは気のせいではないのかもしれない。
――そのとき。
「アズっ!」
弾むような声が回廊を震わせた。
ぱたりと角から現れた小さな少女の姿に、景色が一瞬きらめいた気がした。
春の光が、その子のまわりにだけ溜まっているように見えた。
ぱたぱたと駆け寄ってくるのは七つか八つほどの少女。
髪は淡い金と銀が混ざり合い、風を受けて霧のように揺れている。
そして瞳は――アズベルトと同じ、ペリドットの宝石のように澄んだ黄緑。
けれどその色は、兄とは違う光を宿していた。
朝露に濡れた新緑の葉のようにやわらかく、見る者を包み込むようなあたたかさ。
同じ色であるはずなのに、どうしてかまるで別の世界を映しているように思えた。
(アズと同じ瞳……なのに、全然違う……)
胸の奥が小さく震える。
理由はわからない。
ただその瞳に見つめられると、
どこか掬い上げられるような感覚に囚われた。
「……あの、こっちはお客さま、だから」
アズベルトがやわらかに笑ってそう言うと、
少女――イエレナははっとしてアズベルトの背に隠れた。
細い肩が小さく震えている。
けれど、ちらりと覗いた瞳には警戒だけでなく、好奇心の光も混じっていた。
「イェナ、紹介するよ。こっちはアストレアの第五王子、セレスト。ぼくの友だち」
その声にうながされ、イエレナは小さく頷き、もう一度こちらを見た。
淡い緑の瞳に映る世界は、秘密の扉のようで――胸の奥がふわりと揺れた。
ほんの一瞬、視線が重なった。
その瞬間、胸の奥がかすかに熱を帯びる。
何とも言えない、不思議な感覚。
まるで風がそっと心の頁をめくっていくようで、息を吸うことすら忘れてしまいそうだった。
ほんの少しの静けさと、柔らかな温かさに包まれているような感触。
――森の精霊が姿を現すとしたら、きっとこんな感じなんだろう。
言葉にならないほど透明で、
指先で触れたらすぐに消えてしまいそうだけれど、
どうしてもじっと見つめていたくなるような存在だった。
「……こんにちは。セレスト、です」
ようやく絞り出した声に、イエレナは小さく「……こ、こんにちは」と返した。
それだけで、胸の奥で何かが静かに鳴った。
ほんの短い挨拶なのに――その声が耳の奥に残る。
やわらかな響きが胸の奥でほどけていくようだった。
イエレナが隠れるようにしていたアズベルトの腕を、そっと掴んだのが見えた。
その手はとても小さくて白く、細い枝のようにか弱いのに、
ぎゅっと握る指先には確かな力がこもっていた。
「ね、アズ。お庭……行ってもいい?」
少しだけ勇気を出したような声。
アズベルトは笑みを浮かべて頷いた。
「うん、今日は人が多くないから平気。セレストも一緒でいい?」
イエレナはちらりとぼくの顔を見て、ためらいがちに――けれど、小さくうなずいた。
その仕草だけで、胸の奥がふわりと温かくなる。
ぼくは小さく息を整え、二人のあとを追った。
回廊を抜けて中庭へ出ると、陽光に透けた空気がやわらかく満ちていた。
小鳥のさえずりと草の香りが風に混じり、この場所全体がゆるやかに息をしているようだった。
イエレナは花や草木の名を次々と口にした。
好きなものを語る瞳はきらきらしていて、やはり――森の精霊そのもののようだった。
ふと、一羽の小鳥が舞い降り、イエレナの指先にとまる。
驚くどころか、彼女は微笑み、「だめだよ、なにも持ってないの」と囁いた。
その声音はまるで鳥と通じ合っているかのようで、アズベルトが「ほんとに森の子だな」と笑う。
その笑い声を聞きながら、ぼくの胸がまた熱くなる。
どうしてこんなにも目が離せないのか――自分でもわからなかった。
◇ ◇ ◇
数日の滞在のあいだ、ぼくの心は何度もあの瞬間に戻っていた。
イエレナの姿を思い浮かべるたび、胸の奥からじわりと熱が押し寄せてくる。
ただの同年代の子――そう思おうとしても無理だった。
ミスティ・ブロンドの髪が風に揺れるたび、星屑のような光が舞い、
緑の瞳は生きた光を宿した宝石のように澄んでいた。
その存在はぼくの胸を締めつけ、
守りたいという焦燥にも似た感情が、抑えきれずに溢れていた。
まだ名前のつけられない感情。
けれど今ならはっきりわかる。
――それが、”ぼく”にとっての「初恋」だったのだ。
そしてその記憶は、今も胸の奥で、
あの日の春風のように静かに息づいている。
(了)
もし気に入っていただけたら、本編もそっと覗いてみてください。
▼本編はこちら
『亡国の姫は、隣国の静謐王子に甘やかされる』
https://ncode.syosetu.com/n4630lg/




