雪の夜に灯る声
辺境地にある――セレストの“隠れ家”と呼ばれる屋敷は、
雪に閉ざされたように静まり返っていた。
窓の外では、淡い光を受けた雪片がゆるやかに舞い、
白い世界が音もなく広がっている。
それは美しくも、どこか遠い夢の景色のようだった。
(……今日も、雪……)
イエレナはダイニングの片隅、
暖炉に背を向けて小さく座り込んでいた。
膝を抱え、指先は膝の布をぎゅっと握りしめている。
日が沈みかけると、胸の奥がざわつく。
理由もなく息が浅くなり、手足が冷たくなる。
橙の灯りが赤を帯びるたび、心の奥で“何か”が騒ぎ出すのだ。
(……だめ、見ちゃ……だめ……)
視界の端で炎が揺れ、薪の弾ける音が響くたび、
体が軋むように強張る。
燃える色が怖い。
赤も、橙も、あの日の記憶を連れてくる。
だからイエレナはいつもその光に背を向け、
顔を埋めるように膝を抱え込んだ。
みんなの声が聞こえるダイニングなら、大丈夫だと思った。
誰かの気配を感じていれば――「今は安全なんだ」と思えるから。
けれど今夜は、なぜか誰の声もしない。
静けさの中、鼓動の音だけがやけに大きく響いた。
(……息が、苦しい……)
背中が強ばり、喉がきゅっと締まる。
視界の端で炎の明滅がちらりと揺れた瞬間――
頭の奥で、あの夜の叫びが蘇る。
崩れ落ちる瓦礫、焦げた空気。
誰かの泣き声、名を呼ぶ声。
「……っ」
息が浅くなり、心臓が痛いほど脈打つ。
震える指先。
瞼の裏には、燃え上がる城。
崩れる塔、怒号に悲鳴、
そして、外套を翻して去っていく兄・アズベルトの背。
『……イェナ、行け!』
兄の声が、確かに聞こえた気がした。
「……もういや……」
かすれた声が漏れる。
涙が頬を伝い、イエレナは小さく身を抱きしめた。
そのとき――背後から、穏やかな声が響いた。
「姫様、ホットミルクでも飲みますか?」
ハッとして顔を上げると、
アウルが少し離れた場所から心配そうにこちらを見つめていた。
灯りに浮かぶその表情は静かで、けれど確かな温もりを帯びている。
「…ア、ウル…」
喉がひりつき、言葉が出ない。
それでもアウルは何も問わず、
ゆっくりと近づいて彼女の肩にブランケットを掛けた。
「無理に話さなくて大丈夫です。……独りじゃありませんから」
アウルの言葉に、イエレナは小さく頷いた。
まだ震える指先を感じながらも、
その声が胸の奥に静かに染み込んでいく。
「……ありがとう、アウル」
かすれた声でそう言うと、彼は穏やかに微笑んだ。
そのとき――
「戻りました~!……あっ、姫さん!果物食べます?もらったんすよ~!」
にぎやかな声とともに扉が開く。
ギウンが両手いっぱいに果物の籠を抱え、
外の冷たい空気を連れてきた。
「ちょ、ギウン。声が大きいです」
「え?あ、やべ……すんません!」
アウルにたしなめられ、ギウンが頭をかきながら苦笑する。
けれどその明るい声が、張りつめていた空気を少しずつ溶かしていった。
「姫さん、ほら。リンゴと柑子!甘くて美味いんすよ。」
「……うん。ありがとう、ギウン」
イエレナの声はまだ少し震えていた。
無理に口角を上げた笑顔は、どこかぎこちない。
それでもギウンは気づかないふりをして、いつもの調子で笑う。
「へへっ、よかった! 明日には甘く煮込んで出しますからね!」
その明るさに、アウルが小さくため息をつきながらも苦笑する。
「……ギウン。」
「あっ....あはは~、つい…!」
ギウンが頭をかくと、空気がわずかにやわらぐ。
アウルは首を振りながらキッチンへ向かい、
火にかけたミルクのやさしい香りが、すぐに部屋いっぱいに広がった。
「姫様、少し温まりましょう。」
差し出されたカップの白い湯気が、
イエレナの頬をやわらかく包む。
両手で受け取り、手のひらの温もりを確かめるように――
彼女は静かに息をついた。
「……ありがとう」
その声はかすかに震えていたが、
ほんの少しだけ、先ほどより柔らかかった。
アウルとギウンが後片づけを始め、
やがて部屋の明かりが一つ、また一つと落ちていく。
就寝の時刻。
屋敷の中には、薪のはぜる音だけが静かに残った。
(……もうすぐ、みんな寝ちゃう)
胸の奥がきゅっと縮む。
暗闇が近づくたびに、息が浅くなるのを感じた。
(……一人になりたくない。でも……)
(誰かを呼んだら、また迷惑をかけてしまう)
カップの中で、白い湯気がゆらりと揺れる。
その揺らめきが、どこか自分の心のように頼りなく見えた。
(……私、こんなに弱かったっけ)
(なんで、私だけ……こんなところにいるんだろう)
押し殺していた疑問が、
ふいに胸の奥から浮かび上がる。
言葉にならない痛みが、じんわりと胸を締めつけた。
静寂の中、暖炉の火が小さく弾ける。
その音にさえ、心臓が跳ねた。
イエレナは顔を伏せ、膝の上で指を固く絡める。
――その様子を、少し離れた場所から見つめていた影があった。
「……姫様、寝室までお送りしますよ」
アウルの低い声が、静かな部屋に落ちた。
けれど、イエレナにはその言葉が届いていない。
カップを見つめたまま、瞳はどこか遠くを彷徨っていた。
光を失ったその眼差しが、
まるで今にも消えてしまいそうで――アウルの胸が痛む。
(……一夜にして、全てを失って)
(それでも独りで、この土地まで逃げてきたのだ)
どれほど壮絶だっただろう。
あの穏やかで、誰よりも優しかった姫様が――
どんな喪失を背負い、どれほどの痛みを抱えてここへ辿り着いたのか。
(あの夜から、もう数週間……)
(……こうして、生きていてくださるだけでも奇跡なんです)
今も眠れぬ夜を過ごしているのだろう。
夜が深まるほど、姫様の影は薄く、静かになっていく。
(どうしたら――姫様が、穏やかに過ごせるだろうか……)
アウルは答えのない問いを胸に、
ただ、そっと彼女の背を見守り続けた。
暖炉の火がかすかに揺れ、ぱちりと小さな音を立てる。
その光の中で、イエレナの影が細く震えていた。
けれど――その静けさの奥で、
どこか危ういほどの孤独が蠢いているのを、アウルは感じていた。
(……誰の声も、届かない)
その確信が胸を冷たく締めつける。
どうすることもできずに立ち尽くした、その時――
足音が、静かに近づいてきた。
廊下の方から、柔らかな靴音が響く。
振り返ると、薄い外套を羽織ったセレストが立っていた。
「……まだ、眠れていないようだね」
低く、けれどあたたかい声。
アウルが小さく頭を下げると、セレストは頷き、
「後は任せて」と目で告げた。
その眼差しに、迷いはなかった。
静かに歩み寄り、セレストはイエレナの前に膝をつく。
彼女の頬も、指先も、白く強張っている。
「イェナ」
優しく名を呼ぶ声が、静寂を震わせた。
わずかにイエレナの肩が動く。
「……まだ、眠れそうにないみたいだね」
その穏やかな響きに、イエレナの瞳がゆっくりと揺れる。
けれど焦点は合わない。
彼女の中では、まだ“あの夜”が続いていた。
「……眠るのが怖いのかな。――それとも、独りが嫌?」
その問いかけに、イエレナは首を振ろうとした。
けれど声は出ない。
ただ、震える唇から――小さな言葉が零れた。
「……ごめん、なさい……」
ぽたり、と涙が床に落ちる。
それをきっかけに、堰を切ったように言葉が溢れた。
「私……だけ、逃げて……」
「みんな……置いてきて……」
「見捨てて、ごめんなさい……」
「守れなくて……弱くて……何も出来なくて……」
「それなのに……独りが怖くて……」
「守られてばかりで……何も返せなくて……ごめんなさい……っ」
涙と共に、言葉が次々と零れ落ちる。
掠れた声が途切れながら、まるで自分を責めるように謝り続けた。
「....アズに会いたい……っ」
「――みんなに、会いたいっ……」
セレストは息を呑む。
崩れ落ちそうな彼女の姿が、胸を締めつけた。
――このままでは、本当に消えてしまう。
衝動のまま、セレストはイエレナを抱き寄せた。
腕の中で、彼女の小さな体が震える。
凍りついた心を溶かすように、セレストは何も言わずその背を撫でた。
「――君のせいじゃない。」
その囁きは、雪のように静かで優しかった。
イエレナはその言葉にすがるように、セレストの胸元を掴む。
堰を切った涙が止まらず、嗚咽混じりに声を震わせた。
「ごめんなさい……ごめんなさい……」
セレストはその小さな肩を包み込むように抱きしめ、
頭を撫でながら、ただ彼女が泣き止むのを待った。
何も言わず、何も問わず――ただ静かに、温もりだけを伝える。
やがて、泣き疲れたイエレナの呼吸が、少しずつ穏やかになっていく。
その気配に気づいたセレストは、低く、やさしく囁いた。
「……イェナ、もう謝らなくていい」
涙の粒が、彼の衣に吸い込まれていく。
セレストはひと呼吸置き、ゆるやかに言葉を続けた。
「僕は、イェナがここにいてくれて――本当に良かったと思ってる」
そう言いながら、ふと扉の方へ視線を向ける。
「……もちろん、ギウンもアウルも、そう思ってるよ」
控えていた二人のまなざしには、
言葉よりも確かな優しさが宿っていた。
その温もりを受け取るように、
セレストは再びイエレナへ視線を戻し、
包み込むような声音で言葉を重ねる。
「――だから、我慢しないでほしい。ひとりで背負わなくていい」
そっと手を伸ばし、乱れた髪を梳いて耳にかけた。
震える頬に触れた指先で、流れ落ちた涙をやさしく拭う。
「君の……イェナの、安心できる場所でありたいんだ」
その声は、凍えた心を包み込むように――
静かで、やさしい温もりを帯びて響いた。
イエレナは下唇を噛んだまま、潤んだ瞳で彼を見上げる。
かすれた声が、震える息とともに零れた。
「――ここに、いていいの....?生きてて、いい...?」
セレストは微笑んだ。
その表情は少し困ったようで、それでも誰よりも優しかった。
「うん。……いてくれないと、僕が困るよ」
穏やかな声音とともに、瑠璃の瞳が柔らかい光を宿す。
その温度が伝わるように、イエレナの胸の奥がじんわりと熱を帯びた。
次の瞬間、また涙が頬を伝い落ちる。
――どうして、この人はこんなにも温かいのだろう。
――許されていいはずのない自分を、なぜこんなにも優しく包むのだろう。
滲んだ涙が光を受けて淡く揺れ、
その揺らめきが消える前に、イエレナは小さく息をつき、
そっとセレストの胸に顔を埋めた。
彼の胸元から伝わる鼓動が、
壊れかけた心をひとつずつ繋ぎとめていく。
「……ありがとう、ございます……セレスト様……」
涙で震えながらも、唇の端がふるりと上がる。
濡れた頬に、かすかな笑みが咲いた。
苦しさの中に、それでも救われたような――
まるで“泣きながら笑っている”ような表情だった。
セレストはその笑顔を見て、胸が締めつけられる。
頬を伝う涙の粒が光を受けてきらめき、
その瞳には、ようやく生まれた“生の光”が宿っていた。
「お礼を言うのは僕の方だ。……今、ここにいてくれてありがとう。イェナ」
そう囁いて、セレストはそっと頬を撫でる。
親指の腹で涙を拭う手つきは、
まるで壊れ物を扱うように優しかった。
イエレナは微かに笑いながら、もう一度小さく涙をこぼした。
――それは悲しみではなく、
ようやく心がほどけたあとの、安堵の涙だった。
(了)
もし気に入っていただけたら、本編もそっと覗いてみてください。
▼本編はこちら
『亡国の姫は、隣国の静謐王子に甘やかされる』
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