静かな光に包まれて~静謐の魔法~
辺境地の屋敷の中庭へ続く回廊で、
イエレナはふと足を止めた。
空気が――
柔らかく、揺れている。
風ではない。
冷たさも、緊張もない。
それなのに、
空間そのものが、静かに息をしているような感覚。
(……なんだろう……)
視線の先。
石畳の中央に、セレストが両手を軽く広げて佇んでいた。
詠唱はない。
魔法陣も、紋様も現れない。
ただ――
彼の周囲で、淡い光が、ちらちらと舞っていた。
星屑のように小さく、
蛍のように淡く。
それらは空へ昇るでもなく、
地に落ちるでもなく、
ただ、結界の輪郭をなぞるように、ゆっくりと巡っている。
怖さは、なかった。
強い光でも、眩い輝きでもない。
むしろ――
夜明け前の、まだ陽が差し込まない時間帯のような。
(……やさしい光……)
胸の奥が、
理由もなく、静かに落ち着いていく。
兄・アズベルトの祝福は、
いつも――前へと導くものだった。
手を引き、
「大丈夫だ」と告げ、
陽の下へ連れ出してくれるような光。
けれど、
セレストの魔法は――違う。
今ここにいる自分を、
夜空に瞬く星のように、
ただ、そっと包み込む。
引き寄せることもなく、
照らしすぎることもない。
そこに在ることを、
静かに許すような光。
そんなふうに、
空気ごと抱き留められている感覚だった。
淡い光が、
最後にひときら瞬いて――
音もなく、
溶けるように、消えていく。
同時に、
張り巡らされていた結界が、
静かに、整えられたのが分かった。
「……あ」
思わず、声が漏れた。
セレストがこちらに気づき、
少しだけ驚いたように目を瞬かせる。
「あ、ごめん。起こしちゃった?」
穏やかな声。
魔法と同じ、静かな調子。
「今、結界を確認してたんだ。
張り直すほどじゃないけど……念のためね」
その言葉が、
胸の奥で、じんわりと広がった。
誰かを縛るためでも、
試すためでもない。
ただ――
守るための魔法。
それが、
特別でも誇示でもなく、
当たり前のように在るということ。
母国では、
こうした魔法に触れる機会は多くなかった。
生活を支える力としてはあっても、
基本は魔道具に頼るものだった。
(……魔法って、
こんなふうにも使えるんだ)
浮かんだその思いは、
まだ言葉にならないまま、
静かに、胸の奥へ沈んでいった。
淡い光がすべて溶けきったあと、
庭先には、ひんやりとした夜気だけが残る。
セレストは一歩、距離を詰め、
彼女の隣へ――そっと並んだ。
声を、かける代わりに。
自身の外套を、
ためらいもなく、静かに広げて――
まるで「ここにいていい」と示すように、
イエレナの肩ごと、包み込む。
「……あ」
不意に変わった温度に、
イエレナは小さく息を漏らした。
セレストは、その反応に
ほんの少し困ったように笑って、
低く、穏やかな声で言う。
「……寒いでしょ?
薄着で出歩いたら、風邪を引くよ」
外套の内側には、
さっきまで舞っていた淡い光の名残が、
星屑みたいに、ちらちらと瞬いている。
イエレナは、
包まれたまま、ふっと表情をほころばせた。
(……あたたかい)
身体だけじゃない。
胸の奥まで、静かに。
そんな中で――
セレストは、ふと首を傾げる。
まるで、
思い出したことを確かめるみたいに。
「そういえば――
イェナは、魔法は扱えるの?」
あまりにも自然な問いだった。
試すでもなく、
測るでもなく。
ただ、知りたいことを、知りたいままに尋ねる声音。
その響きに、
胸の奥が、わずかに揺れる。
「アズは……使えてたけど……」
言葉を選ぶように、一拍置く。
視線が、無意識に足元へ落ちた。
「……私は……
使えてるのか、分からない……」
そう答えた瞬間、
自分でも驚くほど、声が小さくなっていた。
セレストは、何も言わない。
遮らないし、急かさない。
ただ――続きを待っている。
だから、少しだけ。
ほんの少しだけ――正直になれた。
「……私、精霊さんたちと……
意思疎通はできる、けど……」
困らせていないか、不安になりながら、
言葉をつなぐ。
「でも……アズみたいに、
魔法を組み合わせたり……
術式を発動したりは、できなくて……」
精霊たちは、いつも応えてくれる。
悲しい時も、怖い時も、
ただ「助けたい」と願った時も。
――気づけば、力が働いている。
自分の意思で。
明確に。
“使う”という感覚を、
ほとんど意識したことがなかった。
「……私が何かを“使う”前に……
精霊さんたちが、応えてくれるの」
それが普通だと思っていた。
疑問に思ったことも、
学ぼうとしたことも、なかった。
魔力と祝福の違いも、
正確には、分かっていない。
沈黙が、落ちる。
(……やっぱり、変だよね……)
そう思って、
さらに視線を落としかけた、その時――
「……なるほど」
穏やかな声が、
夜気の中に、静かに落ちてきた。
驚いて顔を上げると、
セレストは少し困ったように――
それでいて、どこか優しげに、
ほんのわずか、笑っていた。
「イェナが、どうしたいかにもよるけど」
一拍、間を置いてから、続ける。
「魔力は、ちゃんとあるよ。
そこまで多くはないけど……」
思わず、息をのむ。
「……どのくらいか、わかるの?」
恐る恐る尋ねると、
セレストはあっさりと頷いた。
「うん。ある程度はね」
即答だった。
だからこそ、
胸の奥が、ひくりと揺れる。
一瞬の沈黙。
言葉にする前の迷いが、
喉の奥で、かすかにつかえた。
イエレナはそっと視線を上げ、
外套の内側から、
セレストを見上げる。
「……聞いても、いい?」
拒まれるかもしれない。
重たいものとして、扱われるかもしれない。
そんな不安が、
声の端に、滲んだ。
けれどセレストは、
気にした様子もなく――
「ふふ……」
小さく、息を零すように笑ってから、
少しだけ、おどけた調子で言う。
「幼児と、同じくらいかな」
「……幼児」
思わず、
そのままオウム返ししてしまう。
セレストは肩をすくめる。
けれど、その冗談めいた口調の奥には、
確かな真剣さが、静かに滲んでいた。
「きっと、足りてたんだね。
だから、魔力が“育たなかった”。
そんな感じだよ」
その理由は、
どこか、あたたかくて――
酷く、優しい。
「……足りて、いた……」
小さく呟くと、
その言葉が、胸の奥で
何度も、何度も反響した。
欲しいと思う前に。
求めるより先に――
応えてもらっていた。
「……私……」
何か言おうとして、
言葉が、見つからない。
セレストは、
そんなイエレナを、急かさなかった。
「だからね」
穏やかな声。
「イェナは、
“魔法が使えない”んじゃない」
一拍、置いて。
「まだ――
“使おう”としたことがないだけだよ。」
その言葉が、
胸の奥へ、静かに落ちてきた。
未熟な自分が、恥ずかしかった。
何もできない自分が、歯がゆかった。
ここにいることさえ、
誰かの邪魔になっている気がしていたのに。
――この人は、あたたかい。
そう気づいた瞬間、
胸の奥が、きゅっと縮んで、
それでも、ゆっくりとほどけていく。
嬉しくて、
安心して、
気づけば、口元に小さな笑みが浮かんでいた。
同時に、
涙が零れてしまいそうになる。
その気配に、気づいたのか。
外套の内側――
イエレナを包む腕に、そっと力がこもった。
「……ふふ」
喉の奥で、
思わず零れてしまった笑いに――
「……なんで、笑っているの?」
セレストの声が、静かに落ちてくる。
からかうでもなく、
探るでもなく。
さっき見た魔法と同じ、
ひどく穏やかな声色だった。
まるで、
今ここにいるイエレナを、
そのまま、受け止めるみたいに。
それがまた嬉しくて、
イエレナは、くすくすと小さく笑ってしまう。
するとセレストも、
少し困ったように眉を下げて、
それでも――優しく、笑った。
(了)
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『亡国の姫は、隣国の静謐王子に甘やかされる』
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