守られる日々の中で
※本編補足
本作は、
リリュエルがまだイエレナのもとに現れる前――
辺境地で、静かに身を潜めて暮らしていた頃のお話です。
辺境地の冬は、静かだった。
雪はまだ降っていないが、空気は張りつめるように冷たく、屋敷の外は薄い霧に包まれている。
窓辺に立ちながら、イエレナはふと口を開いた。
「……セス。今日、買い出しに行くんでしょう?」
背後で外套を整えていたセレストが、動きを止める。
「ああ。食料が少し足りなくてね」
一瞬の沈黙。
それから、イエレナは小さく息を吸った。
「……私も、行ってみたいです」
自分でも驚くほど、素直な声だった。
振り向いたセレストの表情が、わずかに強張る。
言葉を選ぶように、視線が泳いだ。
「……ごめんね、イェナ」
それだけで、答えは分かった。
「今は……外に出るのは危険だから。
この状況化で君のことを、誰かの視線に晒すことはできない。」
帝国が、まだ王家の残党を探していること。
辺境地であっても、不審な動きがいくつか報告されていること。
イエレナの瞳の色も、髪の色も、あまりにも覚えられやすいこと。
そのすべてを、彼は語らなかった。
語らなくても、イエレナは理解していたからだ。
それでも。
胸の奥で、小さな何かがきしむ。
「……そう、ですよね」
声は落ち着いていた。
けれど、指先がわずかに震えているのを、セレストは見逃さなかった。
「いつとは言えないけど……落ち着いたら、一緒に出かけよう」
一歩、距離を保ったまま、彼は続ける。
「――必ず」
その言葉に、イエレナは一瞬だけ目を見開き、
それから、ゆっくりと視線を落とした。
「……はい」
それ以上は、何も言わなかった。
空気が重くなりかけた、そのとき。
ギウンが、わざとらしいほど明るい声を出した。
「姫さん! これ、一緒にやりません?」
「……なに?」
イエレナが首を傾げると、
ギウンは手にしていた道具を軽く掲げた。
布地の束。
糸と針。
小袋に分けられた、淡く赤みを帯びた砂状の石――
微細な火属性魔石の欠片と、温石用の素材だった。
「これっすよ。寒い日はまだ続くんで。
温石袋、数が足りなくてですね。
一人でやるのも味気ないんで、一緒にやってくれると助かるなって」
努めて、いつもより少し大きな声。
気遣いを悟らせないための、彼なりの明るさだった。
イエレナは、布と中身を見比べ、
指先でそっと袋の縁をなぞる。
「……縫う、だけ?」
「ええ。袋作って、中身入れて、口を閉じるだけっす。
姫さん、手先は器用でしょう?」
一瞬だけ、迷い。
それから、ほんの小さく息を吸って――
「……うん。やる」
頷いた拍子に、
淡い銀の髪がわずかに揺れた。
その返事に、ギウンはにっと笑う。
「よっしゃ。じゃ、任せますよ、姫さん」
作業台に並べられた布袋の一つを手に取り、
イエレナは針に糸を通す。
表からは見えない、袋の内側。
縫い合わせる線の途中に、
ごく簡素なルーンを、糸でなぞるように縫い込んでいく。
複雑な術式ではない。
ただ、熱を逃がさず、穏やかに留めるための、生活用の簡易構文。
「……冷めませんように」
声にもならないほど小さな囁きが、
糸と一緒に、布の中へ溶けていった。
それを、
少し離れた場所から――
セレストは、何も言わずに見ていた。
その様子を横目で見ながら、
アウルがセレストの隣に静かに歩み寄る。
「……賢明な判断かと」
低く、慎重な声。
「フェルディナでは、城の内外を問わず駆け回っていた姫様です。
この状況は……少々、酷ではありますが」
「……そうだね」
短く返したセレストは、それ以上言葉を続けなかった。
視線の先では、
イエレナがギウンの指示に従い、ぎこちなくも作業を始めている。
その背中を、
セレストはただ、静かに見つめていた。
(――イェナの笑顔を、取り戻したいのに)
守るために選んだ距離が、
彼女を少しずつ縛っていることも、分かっていた。
◇ ◇ ◇
その夜。
静まり返った屋敷の中で、
セレストが書簡に目を通していると、
控えめな足音が近づいてくる。
「……セス」
顔を上げると、
イエレナがそっと隣に立っていた。
「……今日、我が儘言ってごめんなさい」
小さな声。
視線は、床に落ちている。
「っ……イェナ、君のせいじゃない」
すぐに否定するが、
イエレナはゆっくりと首を振った。
「……違うの」
一拍、息を整えてから。
「困らせたから……
セスの考えも、思いも……ちゃんと、わかってる」
そこで一度、言葉が詰まる。
それでも、逃げずに続けた。
「――理解してる、の」
無理に笑おうとはしなかった。
ただ、真っ直ぐに受け止めようとする声音だった。
セレストは言葉を失い、
そっと、彼女の方を向く。
謝らせたかったわけじゃない。
分かってほしかったわけでもない。
それでも彼女は、
自分なりに“理解しよう”としている。
それが、
なにより胸に重かった。
「……一緒に出かける日、待ってます」
そう言って、
イエレナは眉を下げ、ほんの少しだけ――弱々しく笑った。
約束を信じているからこその笑顔。
けれど、その奥にある我慢まで、セレストにははっきり見えてしまう。
「……」
セレストは、何も言えなかった。
腕を伸ばせば、届く距離だった。
抱きしめてしまえば、
きっと彼女は安心して、力を抜くことができるだろう。
それが、できなかった。
今は――
まだ、その資格がないと、自分に言い聞かせていたから。
「……じゃあ……」
イエレナは一歩、下がる。
「おやすみなさい」
静かな声。
それだけを残して、ぱたぱたと軽い足音を立てながら、
彼女は廊下の向こうへと去っていった。
その背中が見えなくなるまで、
セレストは、動けなかった。
扉が閉まる音も、
足音が完全に消えるのも、
すべて聞き終えてから――
ようやく、胸の奥に溜め込んでいた息を、
ゆっくりと吐き出す。
(……必ず)
声には出さず、
それでも、確かに誓う。
彼女が待つと言ったその日を、
“ただの約束”に終わらせないために。
◇ ◇ ◇
翌朝。
イエレナは、いつも通りだった。
朝の挨拶も、手伝いも、作業の合間の小さな相づちも。
昨日のことなど、何もなかったかのように。
作業台の端には、
昨夜の続きを待つ温石袋が並んでいる。
縫い上がった布袋と、
まだ口を閉じていないもの。
小皿に分けられた、淡く赤みを帯びた魔石混じりの温石。
イエレナはその一つを手に取り、
慣れた手つきで針を進めていた。
けれど――
それが、かえって目についた。
「……物分かりが良すぎるのも、困りものだね」
ぽつりと漏らしたセレストの言葉に、
隣で作業していたギウンが肩をすくめる。
「姫さんは昔からお転婆ですけどねぇ」
少しだけ、声を落として続けた。
「ちゃんと、周り見てるんすよ。
自分より先に、空気読むタイプで」
独り言のようなその言葉に、
セレストは苦笑するしかなかった。
――だからこそ、止めてしまったのは自分だ。
「ギウン」
低く、鋭い声が割り込む。
「サボらないでください。
そちら、まだ終わっていませんよ」
アウルが、手元の帳面を指で叩きながら睨んでいた。
「えー、ちゃんと手は動かしてるだろ~」
「....どう見ても、進んでないんです」
ばっさり切り捨てられた、そのとき。
「……私、まだできるよ」
少し離れたところから、
イエレナが顔を上げてそう言った。
縫いかけの温石袋を胸の前に持ったまま、
視線だけをこちらに向ける。
笑顔は、やっぱり穏やかで。
声も、明るい。
「この袋、あと少しだから。
だから、ギウンの分も――」
「姫様」
即座に、アウルが遮る。
「ギウンを甘やかさないでください。」
イエレナは一瞬、言葉に詰まった。
「う……」
小さく唸って、
指先が、無意識に布を握りしめる。
その様子を見て、
ギウンが小さく笑った。
「ほら、殿下。
こういうとこっすよ」
気丈で、優しくて、
ちゃんと我慢ができてしまうところ。
セレストは何も言わず、
ただイエレナの背中を見つめた。
明るく振る舞うその姿が、
昨日よりも、少しだけ遠く感じられて――
胸の奥に、静かな痛みが残った。
「……だから、かな」
セレストは小さく息を吐き、
誰に向けるでもなく、そう零した。
「甘やかしたくなる」
それは独り言のようで、
けれど――胸の奥からこぼれた、本音だった。
セレストは書類確認の手を止め、
イエレナのいる方へと歩み寄る。
作業台の上には、
縫いかけの温石袋と、布、糸、針。
淡く赤みを帯びた魔石混じりの温石が、
小皿に分けられて並んでいた。
隣に立つと、
イエレナは気配に気づいて、顔を上げる。
「……セス?」
「イェナ」
名前を呼ぶだけで、
それ以上の言葉は続かない。
イエレナは一瞬きょとんとしたあと、
いつものように、少し眉を下げて微笑んだ。
「なあに?」
――その笑顔が、いちばんずるい。
無理をしていることも、
我慢していることも、
全部わかっているのに。
それでも、
こちらを気遣うように笑うから。
セレストは、
伸ばしかけた手を、ぎりぎりで止めた。
(……今は、まだ)
抱きしめることも、
強く慰めることも、
きっと――彼女を惑わせるだけだ。
「……僕にも、手伝わせて」
そう言って、
作業台の向かいではなく、
あえて――彼女の隣に腰を下ろす。
イエレナは少しだけ目を瞬かせ、
それから、小さく頷いた。
「……うん」
彼女は何も聞かず、
慣れた手つきで、布と糸、
そして温石の入った小皿を差し出す。
「ここ、袋を縫って。
中身は……このくらい」
指で示された量は控えめで、
詰めすぎない、慎重な配分だった。
セレストは言葉を挟まずに頷き、
不慣れな手つきで針を通す。
糸が布を抜けるたび、
かすかな音が、静かな室内に落ちた。
イエレナは隣で、
表からは見えない袋の内側に、
細い線を描くように、糸で簡易ルーンを縫い込んでいる。
複雑ではない。
けれど、無駄のない線。
その手元を、
セレストは盗み見るように目で追う。
意識している様子はない。
けれど――
彼女の指先に触れるたび、
祝福が、静かにルーンへと馴染んでいく。
しばらくのあいだ、
言葉は、必要なかった。
同じ作業を、
同じ速度で、
同じ場所で。
それだけで、
胸の奥に張りついていた重さが、
ほんの少しだけ、和らぐ。
その様子を見つめながら、
セレストは胸の内で、静かに誓う。
――必ず、一緒に外へ出る日を。
この約束を、
ただの慰めに終わらせないために。
守られる日々の中で、
彼女の世界が、
いつの間にか狭まってしまわぬように。
(了)
もし気に入っていただけたら、本編もそっと覗いてみてください。
▼本編はこちら
『亡国の姫は、隣国の静謐王子に甘やかされる』
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