静謐な甘やかし
それは、
兄・ラファエルから届いた――ひとつの小箱が、すべての始まりだった。
『セス。“いいもの”を手に入れたから、君にも贈るよ。
どうか、楽しんでくれ』
兄らしい、柔らかな微笑みを思わせる書き置きとともに手渡されたそれは、
掌に収まるほどの、精巧な魔道具だった。
透明な水晶の内部には、幾重にも絡み合う術式。
魔力を流せば――壁一面に映像を投影する仕組みらしい。
「また、妙なものじゃないでしょうねぇ」
ギウンが、半ば呆れたように肩をすくめる。
「第一王子殿下の“いいもの”は、だいたい癖が強い」
「……悪意はないよ。ただ、趣味が独特なんだ」
セレストはそう苦笑しながら、
水晶の魔道具へ静かに魔力を注いだ。
次の瞬間、
白い壁に、光が走った。
「うわっ、なにこれ!」
リリュエルが歓声を上げ、イエレナの肩に降り立った。
「映像記録……?」
「えぇ。鑑賞用ですね」
興味を示したのは、ギウンとアウル、そして――イエレナもだった。
「動く、絵?」
「まあ、そんなところだね」
セレストが魔力を流すと、白い壁に揺らめく光が走り、やがて映像が定まった。
「絵が動いてる! すごーい!」
リリュエルが歓声を上げたかと思うと、
勢いよく部屋をひと回りし――そのまま、ギウンの頭に着地した。
「お、おい」
「ここ、特等席!」
イエレナは思わず目を輝かせ、
気づけばギウンの隣へ腰を下ろしていた。
その膝に、いつの間にか毛布がかけられる。
隣に腰を下ろしたセレストの気配に、
少しだけ、肩の力が抜けた。
「よかったら、鑑賞のお供に」
背後から聞こえた声と同時に、
アウルが温かいミルクを配っていく。
最初は、ただ珍しい映像だった。
きらきらと光が揺れ、
どこか温かい物語を思わせる場面もあって、
誰もが自然と、見入っていた。
――けれど。
中盤に差し掛かった頃から、
映像の空気が、ゆっくりと変わり始める。
暗い通路。
歪む人影。
耳に残る、不快な音。
「ギャーーーッ!!」
突如、リリュエルが悲鳴を上げた。
「やだやだやだ!! ボク、ハッピーなのがいい!!」
そう叫ぶや否や、
ギウンのフードに潜り込み、必死に身を隠す。
「……おいおい」
ギウンは苦笑しながら頭を掻いた。
「聞こえねぇよ、悲鳴で」
「だって怖いもん!!」
リリュエルは飛び出しては隠れ、
映像に驚くたびにギャーギャーと騒ぎ、
落ち着きなくギウンの周囲をぐるぐると飛び回っていた。
一方。
アウルは、微動だにせず映像を見つめている。
(……よく作り込まれている)
ホラーだろうが何だろうが、
それをただの“記録”として受け止め、
真剣に分析している顔だった。
イエレナは――
リリュエルの悲鳴と、映像の演出が重なり、
思わずびくりと肩を震わせて、身体を縮こませる。
(だ、大丈夫……前より、慣れてきたんだし……)
辺境での生活のなかで、
夜の静けさも、暗がりも、少しずつ受け入れられるようになった。
怖がりなままではいたくなくて――
ほんの少しでも、変わりたかった。
けれど。
次の瞬間、
映像から甲高い悲鳴が弾ける。
「……っ?!」
心臓が跳ね、
指先から、すっと血の気が引いた。
視界が滲む。
息が、浅くなる。
(……もう、無理……)
反射的に、
イエレナはギウンの袖を、きゅっと掴んでいた。
「ん? どうしました姫さ――」
「イェナ。おいで」
重ならない、静かな声。
その一言で、
張り詰めていたものが、音を立てて切れた。
次の瞬間。
イエレナはセレストの胸に飛び込み、
ぎゅっと、力いっぱい抱きつく。
顔を押し付け、
衣を掴み、離れない。
――まるで、
兄アズベルトの胸に、そうしていた頃のように。
一拍遅れて、
セレストの腕が、そっと彼女を抱き返した。
「……大丈夫だよ」
低く、優しい声。
「ははっ……殿下は、嫉妬と理性で大変だな」
ギウンが口元を緩める。
「聞こえているよ」
セレストは静かに返したが、
抱く腕は、緩めなかった。
結局――
最後まで映像を見ていたのは、
ギウン――と、その頭上で悲鳴を上げ続けるリリュエル、
そして真剣そのもののアウルだった。
◇ ◇ ◇
セレストは、
映像の音にびくりと身体を震わせるイエレナを抱き上げると、
そのまま部屋を離れ、廊下を進んだ。
腕の中で、
イエレナの身体がすっぽりと収まっている。
重みは、軽い。
けれど、その存在感だけは、ひどく大きかった。
彼女は足を宙に浮かせたまま、
必死にセレストの首へとしがみついている。
細い腕が、ぎゅっと回され、離れる気配はない。
顔は見えない。
首元に埋めるように押し付けられている。
「……イェナ、歩ける?」
問いかけてみるが、
返事はなかった。
代わりに、
小さな唸り声が、首筋に落ちる。
「……うぅ」
温い吐息。
かすかに震える声。
そのひとつひとつが、
セレストの神経を、正確に削ってくる。
(……まずい)
理性を繋ぎ止めるため、
歩調を一定に保つ。
呼吸を整え、余計なことは考えない。
片腕で、彼女の背をしっかりと支え、
もう一方の腕を、膝の裏へ回す。
――イエレナの必死な縋りを、
受け止めるしかなかった。
その腕の中で、
イエレナの身体が、びくりと震える。
次の瞬間――
彼女の唇が、かすかに動いた。
「……アズ……」
掠れた声。
その名が零れた瞬間、
イエレナの腕に、ぎゅっと力がこもった。
逃がさない、と訴えるように。
縋るように、必死に。
「……っ」
セレストの胸元で、
呼吸が、ほんのわずかに乱れる。
――ああ、そうか。
怖いとき。
どうしようもなく、不安に押し潰されそうなとき。
彼女は、兄の名を呼び、
こうして、縋っていたのだろう。
それを、今は。
自分に、向けている。
顔を押し付けたまま、
イエレナは首筋に、小さな唸り声を落とす。
「……や……こわ……」
温い吐息が、直接触れた。
かすかな震えが、腕越しに伝わってくる。
セレストは、抱く腕に
静かに、しかし確かに力を込めた。
「……大丈夫」
低く、揺るがない声で。
「アズじゃないけど……僕がいる」
それでも、
イエレナの私室に辿り着いても、
首に回された力は、弱まらなかった。
まるで――
離した途端、また恐怖に呑まれてしまうかのように。
(……さて)
どうしたものかと、
セレストは一瞬だけ思案する。
そして――
ひとつの妙案が浮かんだ。
彼は腕の中のイエレナを抱え直し、
そのまま、そっとベッドへ横たえる。
だが――
背に、柔らかな感触が触れた瞬間、
イエレナの身体が、びくりと震えた。
反射的に、腕に力がこもり、
彼女は離れようとしなかった。
「……」
セレストは、その腕を無理に外そうとはせず、
ただ、ほんの少しだけ距離を詰める。
「イェナ」
低く、優しい声。
その名を呼ばれた瞬間、
イエレナの身体が、また小さく揺れた。
「……離れないから。
顔、見せて」
普段より、
ほんの少しだけ――甘い声色。
その一言で、
イエレナの中に、後悔とも羞恥ともつかない感情が
一気に押し寄せた。
(……あ……)
アズではなく。
セスに――甘えてしまった。
そう気づいた途端、
胸の奥が、じわりと熱を帯びる。
けれど、怖さはまだ、完全には消えていなかった。
心が、うまく追いつかない。
「イェナ」
もう一度、名を呼ばれる。
おずおずと、
イエレナは腕の力を緩め、
そっと、視線を上げた。
――近い。
覆いかぶさるような距離に、
逃げ場を塞がれた気がして、
胸が、どくんと跳ねる。
(あ……れ……?
この状況……よく、ない……?)
そう思った――その瞬間だった。
セレストの口元に、
ふっと、笑みが深まる。
それは、いつもより――
ほんの少し、妖艶で。
次の瞬間、
額に、柔らかな感触が落ちた。
「……っ」
口づけ。
――かと思えば。
こめかみ。
まぶた。
頬。
そして、耳元へ。
間を置かず、
軽い口づけが、次々と降り注ぐ。
「……っ……!」
心臓が、痛いほど跳ねた。
何が起きているのか。
どうして、こんなことをされているのか。
理解が、追いつかない。
「せ、セス……っ!」
必死に胸元を押すが、
びくともしない。
「ふふ……イェナ、真っ赤だね」
囁きは、あまりにも近い。
「もう、怖くは――なくなったかな?」
その言葉に、
イエレナは、はっと目を見開く。
(……あ……)
――わざと、だ。
「なっ……! あ……っ……!!」
けれど。
セレストの言う通りだった。
気づけば、
さっきまで胸を締めつけていた恐怖は、
どこにも残っていない。
代わりにあるのは、
触れられた温度と、
大きく脈打つ心臓と、
どうしようもない――恥ずかしさ。
涙目で訴えるイエレナを見て、
セレストはくすりと笑い、
彼女の髪を整えるように、そっと耳へとかけた。
「よかった。
もう、怖くないね」
なぜか――
セレストは、ひどく満足そうだった。
その表情を視界に捉えた瞬間、
イエレナは今度こそ、本気でどうにかなりそうになる。
(な、なんで……そんな顔……)
怖さはもうない。
けれど、その代わりに、
胸の奥がむず痒くて、熱くて、落ち着かない。
「どうする?」
セレストが、穏やかに問いかける。
「……もう少し、一緒にいようか?」
「っ!!!!」
イエレナの肩が、びくんと跳ねた。
「だ、大丈夫っ!!」
反射的に、全力で首を振る。
「ほ、ほんとに……もう、平気……っ!」
あまりにも必死なその様子に、
セレストは一瞬きょとんとしたあと――
「ふふ……」
困ったように、
でもどこか楽しそうに笑った。
「そんな全力で拒まなくても……」
その一言で、
イエレナの顔が、一気に熱を帯びた。
(……っ、セスが……いじわるだ……)
俯いたまま、
言い返す言葉も見つからず、
ただ、ぎゅっとシーツを握りしめるしかない。
セレストは、それ以上踏み込まず、
ほんの少しだけ距離を取った。
「……おやすみ、イェナ」
そう言って、
どこか名残惜しそうに視線を外す。
イエレナは胸に手を当て、
未だ早鐘を打つ鼓動を、
必死に落ち着かせた。
(……ほんとに……ずるい……)
怖さを消してくれた人が、
同時に、いちばん心を乱すなんて――。
辺境の夜は、
もう静かだったけれど、
イエレナの心だけは、
しばらく眠れそうになかった。
◇ ◇ ◇
イエレナの部屋を後にしたセレストは、
どこか満足げな表情のまま、元の部屋へ戻った。
すると――
「……?」
視界に入った光景に、
さすがの彼も一瞬、言葉を失う。
ギウンも。
アウルも。
リリュエルまでもが――号泣していた。
「……ええと……どうしたの?」
恐る恐る問いかけると、
まず口を開いたのはアウルだった。
「酷い作品だと思いましたが……良作でした」
淡々とした声とは裏腹に、
目元は、しっかり赤い。
「あぁ……すげーよかった……」
ギウンは目を擦りながら、
しみじみと頷く。
「うぅ~……あの女の子、よかったねぇ~……!」
リリュエルは完全に感情移入したまま、
ギウンのフードを握りしめて泣いていた。
「……」
セレストは、
数秒ほど沈黙する。
(……そういう方向だったのか)
「殿下、ラストまで観た方がいいっすよ」
ギウンが小首をかしげる。
「……って、なんかご機嫌ですね?」
その一言に、
セレストは、わずかに肩を跳ねさせた。
「えっ……あ……いや……」
言いかけて、
言葉を探す。
――だが、
言い訳が思いつく前に、
口元の緩みは、もう隠しきれていなかった。
「……いや。何でもないよ」
その様子に、
ギウンはにやりと笑い、
アウルはすべてを察したように、静かに目を伏せる。
リリュエルだけが、
まだ涙目のまま首を傾げた。
「……セス、ハッピー?」
「……ふふ。うん、そうかも」
短く返したその声は、
いつもより――
ほんの少し、柔らかかった。
(了)
もし気に入っていただけたら、本編もそっと覗いてみてください。
▼本編はこちら
『亡国の姫は、隣国の静謐王子に甘やかされる』
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