静謐の王子のもとで~後編~
――転移が、解ける。
足裏に、硬い地面の感触。
風の匂いが、がらりと変わった。
「……っ、うわ……」
ギウンが一歩よろめき、思わず膝に手をついた。
「俺、転移……苦手だわ…うぅ…...っ...」
顔色は見事なまでに青い。
額に滲んだ汗を乱暴に拭いながら、何度か深く息を吐く。
「だから言ったでしょ。酔いやすくなるって」
セレストは肩をすくめ、苦笑混じりに言う。
その声音には、焦りも緊張もない。
一方で――
ネイサンも、アウルも、動揺の色はまるで見せなかった。
「……問題ありません」
アウルは短く答えたきり、
すでに視線を巡らせ、周囲の地形と気配を把握し始めている。
転移直後とは思えないほど、思考は研ぎ澄まされていた。
――演習場。
だが、訓練場特有の整然とした空気は、もうない。
重い。
濁った魔力が、空気に沈殿している。
獣の咆哮。
地を叩く衝撃。
遠くで、何かが崩れる音。
「……これは」
ギウンも、さすがに顔を上げた。
肌が粟立つ。
本能が、危険を告げている。
「等級が高い……」
アウルが、低く呟く。
「訓練用では、ありませんね」
その瞬間。
「殿下!」
前線から駆けてきた指揮官が、
泥と血にまみれた姿で膝をついた。
「魔獣、複数体が暴走。
現在確認できているだけで三体。
うち一体は――高位個体です」
一瞬、場が静まり返る。
セレストは一歩前へ出る。
その表情から、
先ほどまでの柔らかさは消えていた。
瞳が、静かに――鋭く澄む。
「……状況は?」
声は低く、落ち着いている。
問いは短く、無駄がない。
それだけで、
場の空気が“整う”。
指揮官は、即座に答えた。
「育成訓練中に魔獣が強化暴走。
中央演習区画で一体。
残り二体が外周へ向かっています。
制圧部隊のみでは、抑えきれません」
「被害は?」
「負傷者多数。
致命傷は――今のところ、抑えています」
セレストは、ほんの一瞬だけ目を閉じた。
そして、開く。
「分かった」
短い言葉。
だがその声には、
迷いも、躊躇もなかった。
「ネイサン。
外周へ向かう二体を分断。
無理に討伐しなくていい。足止めを」
「了解」
「アウル、状況把握を。
魔力の流れを見て、暴走の原因を探って。出来るね?」
「承知しました」
最後に、ちらりとギウンを見る。
「ギウン。
――吐きそう?」
「……正直、ちょっと」
「じゃあ、吐いたらすぐ合流ね」
「殿下!?」
冗談めいた一言。
だが、その奥にあるのは、揺るぎない信頼だった。
ギウンはふっと息を吐き、
口の端をつり上げて立ち上がる。
「……大丈夫っすよ。
戦場に立てば、目ぇ覚めます」
「頼もしいね」
セレストは小さく頷いた。
次の瞬間だった。
彼の足元で、静かに魔力が脈打つ。
――否。
脈打った“だけ”で終わらなかった。
周囲一帯の空気が、一斉に引き締まる。
重ねるように、より強力な結界が張り巡らされる。
詠唱はない。
合図もない。
ただ、そこに在るべきものが“配置された”だけ。
「……え」
ギウンが、思わず声を漏らす。
「……一瞬で?」
問いが形になる前に、
セレストの姿は――消えていた。
「ぼさっとするな」
ネイサンの低い声が飛ぶ。
「早くしないと、
殿下に“根こそぎ”持っていかれるぞ」
その一言で、
アウルもギウンも、はっと我に返る。
視線を交わす暇もない。
二人は同時に踏み出した。
(――速い。
想定より、ずっと)
――ここは、見極めの場だ。
そして同時に、
置いていかれれば終わりの戦場でもある。
◇ ◇ ◇
セレストが姿を消した、その直後。
演習場の空気が、目に見えて歪んだ。
魔力が――荒れている。
流れは乱れ、秩序はない。
ただ、興奮と衝動だけが場を満たしていた。
「――全隊、後退!」
誰かの叫びが響くよりも早く、
セレストはすでに“そこ”にいた。
暴走する高位魔獣の前方。
撤退しきれていない部隊の、さらに前。
「……混乱、してるね」
ぽつりと零れた声は、
戦場の喧騒に紛れるほど静かだった。
責める気はなかった。
――今は、時間を稼げばいい。
次の瞬間。
意味もなく、
理性もなく。
魔獣が咆哮する。
巨大な前足が、衝動のまま地を叩き割る。
だが。
「――通さない」
短い言葉と同時に、
空間が“折れた”。
衝撃は霧散し、
叩きつけられるはずだった力は、
絡め取られるように消えていく。
結界。
しかも、単なる防壁ではない。
逃げ遅れた部隊の背後から側面にかけて、
魔獣の動きに合わせて形を変える、
幾層もの“流動型”防御。
暴力は、すべて受け流される。
「全員、下がって!
――今だ!」
指示は簡潔。
だが、その声には抗いようのない圧があった。
部隊が一斉に動く。
その間も、
セレストは一歩も退かない。
魔獣が、標的を変える。
理性を失してなお、
“最も厄介な存在”だけは本能で理解したらしい。
乱雑で、荒い。
技術も、戦術もない。
ただ、興奮に任せた破壊衝動。
「……ふう」
ため息ひとつ。
次の瞬間、
地面に影が走る。
魔力そのものが、
水滴が波紋するように地を這い、
魔獣の足元へと広がっていく。
「――沈め」
詠唱は、ない。
足元から噴き上がる光が、
暴れる四肢を一斉に絡め取る。
拘束。
圧縮。
同時に、内部で暴走する魔力を封じる。
魔獣が絶叫する。
だが、それは長く続かなかった。
「……何か、干渉してるね」
あまりにも冷静な分析。
セレストは片手を上げ、
指を、ひとつ鳴らす。
それだけで。
空中に展開された無数の魔力線が収束し、
一点へ――
高位魔獣の魔核へと、
正確無比に突き刺さった。
轟音。
だが、爆発は起きない。
制御された破壊。
余波すら、外へ逃がされている。
巨大な身体が、
糸の切れた人形のように崩れ落ちた。
――沈黙。
数秒遅れて、
張り詰めていた空気が解ける。
「……撃退、完了」
淡々とした声。
遠くで追いついた部隊が立ち止まる。
誰もが、言葉を失っていた。
避難は完璧。
被害は、ほぼゼロ。
高位魔獣は、単独制圧。
「……は?」
遅れて到着した指揮官が、
間の抜けた声を漏らす。
その横で、
アウルとギウンが同時に息を呑んだ。
(……これが、アストレア王国の第五王子……)
だが、驚愕している暇はない。
「――殿下」
アウルが一歩踏み出す。
視線はすでに、戦場全体を捉えていた。
「暴走の原因を確認しました。
魔獣そのものではありません。地中に――術式残滓があります」
即断即決。
観察と分析は、すでに終えていた。
「複数箇所に展開された誘導型魔力干渉。
魔獣を“興奮状態に固定”する仕組みです」
「そうみたいだね。挙動がおかしかった。」
納得したように、頷く。
「位置は?」
「東側、崩れた演習壁の下。
魔獣二体が、まだ影響圏内にいます」
「了解」
短い返答。
次の瞬間。
「ギウン、ネイサン。
二体、押さえられる?」
問いというより、確認だった。
「――当然」
ネイサンが即答する。
「任せてください」
ギウンも笑って、前へ出た。
「多少暴れてる方が、やりやすいっす」
二人が同時に動く。
正面から進路を断つネイサン。
側面から圧をかけるギウン。
連携に、言葉はいらなかった。
その様子を少し離れた位置から見て、
セレストが、ふっと笑う。
「……いいね」
小さく、楽しそうに。
「さすが、アズの腹心だよ」
一拍。
「――終わらせようか」
その言葉と同時に、
セレストの周囲で魔力が“静かに”立ち上がる。
荒れない。
唸らない。
ただ、圧倒的な密度で。
地中に張り巡らされていた術式残滓が、
一斉に浮かび上がる。
引きずり出されるように。
「――鎮静」
短い言葉。
それだけで。
魔獣たちの咆哮が途切れ、
暴走していた魔力が、一気に抜け落ちる。
巨体が揺れ――
そのまま、崩れ落ちた。
気絶。
完全な無力化。
戦場に、
再び静寂が戻る。
「……お疲れさま。大丈夫だった?」
声音は、ひどく柔らかく。
穏やかな笑みを浮かべるセレストは、
先ほどまで戦場の中心に立っていた人物とは思えないほどだった。
――つい数瞬前まで、
高位魔獣を、単独で沈めていたというのに。
「……ふわふわしてるのに……
やること、えげつないっすね……」
ギウンは乾いた息を漏らし、
半ば呆れたように、半ば感心したように頭をかく。
アウルは静かに息を吐いた。
――なるほど。
これなら、託せる。
アズベルトが、
すべてを賭してでも選んだ理由が、
今なら、はっきりと分かる。
彼らが守るのは、
この王子と――
その隣に立つ姫の未来だ。
(了)
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『亡国の姫は、隣国の静謐王子に甘やかされる』
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