静謐の王子のもとで~前編~
アストレア王国の空は、やけに高かった。
フェルディナとは違う、乾いた風。
城門を抜けた瞬間、ギウンはそれを肺いっぱいに吸い込みながら、無意識に息を吐く。
「……空気まで他人行儀っすね」
「私語は慎んでください。」
即座に、アウルが小声で釘を刺す。
声音はいつも通り冷静だ。けれど、ほんのわずか――緊張が混じっていた。
二人は今、
アストレア王国第五王子――セレストの私邸へと案内されていた。
「フェルディナ王国より、
ギウン様、アウル様のお二方が到着されました」
風貌からして執事長であろう老執事が、
無駄のない所作で一礼する。
「セレスト殿下は、現在中庭にいらっしゃいます」
それを引き継ぐように、案内役の騎士が静かに告げ、
身を引いて道を譲った。
中庭へと足を踏み入れた、その瞬間――
空気が、はっきりと変わる。
派手さはない。
張り詰めてもいない。
ただ静かで、澄み切っていて――どこか、落ち着きすぎている。
その中心に、ひとり。
「……あ」
ギウンが、思わず声を漏らした。
銀白の長い髪を風に揺らしながら、
分厚い一冊の書を片手に立っていた青年が、ゆっくりと顔を上げる。
表紙には題名はなく、
古い魔導文字と、精霊紋様だけが静かに刻まれていた。
瑠璃色の瞳が、まっすぐに二人を捉えた。
「来てくれたんだね」
柔らかな声。
拍子抜けするほど穏やかで、警戒心の欠片も感じさせない。
「……お世話になっております」
アウルが一歩前に出て、跪く。
「フェルディナ王国より派遣されました、アウルと申します。」
「同じく、ギウンです。」
揃って名乗ると、セレストは一瞬だけ目を細め――ふっと微笑んだ。
「久しぶりだね。昨年の理煌祭以来かな」
その笑みは、
思っていたよりもずっと静かだった。
「……長旅、お疲れさま。
ここでは、堅苦しい礼はいらないよ」
そう言って、本を閉じる。
「アズから話は聞いているよ。――無理を言われたね」
その一言で、ギウンの喉がきゅっと詰まった。
軽く言われるのは違う。
かといって、重く扱われるのも違う。
そのどちらでもない言い方が、かえって胸に残った。
「……セレスト殿下」
ギウンは一瞬だけ迷ってから、口を開く。
「俺たちは、あの方の命でここに来ました。しかし――」
言葉を探し、続ける。
「……それ以上に、姫さんを守るために来た」
その瞬間。
セレストの表情が、ほんのわずかに変わった。
笑みは消えない。
ただ、深くなる。
「うん」
短く、しかし確かな肯定。
「それでいい。僕も、同じ理由でここにいる」
その言葉に、
アウルが静かに顔を上げた。
「殿下は……それを、覚悟の上で?」
問うような視線。
セレストは空を見上げる。
「覚悟、というほど立派じゃないよ」
風が、銀髪を揺らした。
「ただ、守ると決めただけ。それが僕にできることだから」
一拍置いて、付け加える。
「それに……アズの頼みは、断れない。」
くすり、と笑う横顔から、ギウンは目を離せなかった。
ふっと肩の力が抜ける。
「なんだか、思ってたより話しやすい殿下っすね」
「そう?」
「はい。もっと、近寄りがたい人かと」
率直な言葉に、セレストは小さく笑った。
「それは、よく言われるよ。
でも、これから一緒にやっていくなら――仲良くしたい」
柔らかく、しかし真っ直ぐに視線を向ける。
「君たちの忠誠心はアズからよく聞いてる。
すぐに信頼し合えるとは思っていないけど……」
一瞬だけ、言葉を選び。
「イエレナ嬢を守る者として、これからよろしくね」
穏やかな表情。
けれど、その奥にある芯は確かだった。
アズベルト殿下とは、まるで違う空気。
柔らかいのに、掴みどころがない。
――それが、ギウンとアウルが抱いた、セレストという王子の最初の印象だった。
「数日は、ゆっくりしていってね」
あまりにも自然な調子で、セレストはそう言った。
「その後は、僕の率いる精鋭騎士団の――
騎士団長兼、従者のネイサンがいる。色々と教わるといいよ」
二人の反応を確かめる様子もなく、言葉は続く。
「一か月後には、僕の元で正式に働けるように試験を受けてもらう。
そのつもりでいてね」
業務の話だというのに、
命令でも、確認でもなく――まるで世間話の延長のようだった。
それだけ告げると、
セレストはふっと表情を和らげ、にっこりと笑う。
「それで……フェルディナ国での話を聞きたいな。
一緒にティータイムを取らない?」
あまりにも穏やかで、柔らかくて。
まるで春先の陽だまりのような雰囲気。
ギウンは思わず瞬きをし、
アウルは一拍遅れて言葉を失った。
「あ、紅茶は好き?」
二人の内心など気にも留めない様子で、セレストは首を傾げる。
「あの……取り決まりや、正式な手順などは……?」
思わずアウルが口を挟む。
だが、セレストは意に介さず、柔らかな笑みを崩さない。
「そんなものは、ないよ?」
さらりと。
本当に、何でもないことのように。
「まずはこの地に慣れてほしい。
それからでいい」
穏やかな声音。
なのに、不思議と異論を挟ませない静かな強さがあった。
ギウンは、思わずアウルと視線を交わす。
――なんだ、この王子。
厳格なんてものはない。
威圧的でもない。
なのに、妙に逆らう気が起きない。
◇ ◇ ◇
庭の奥に設えられたテーブルには、すでに湯気の立つティーポットが用意されていた。
香りは柔らかく、どこか甘い。
ギウンとアウルは無言で腰を下ろす。
警戒、というほどでもない。
けれど、状況が読めない。
そんな二人の空気など意に介さず、
セレストは自然な所作でカップを手に取った。
「フェルディナ国には、何度か伺ったことがあるんだ」
にこにこと、楽しげに。
「公務で、だけどね。港町も、王都も――いい国だった」
まるで旅の思い出を語るような口調。
そこに、政治的な探りや計算の色は感じられない。
「殿下は、フェルディナに詳しいのですね」
アウルが控えめに言うと、
セレストは小さく首を振った。
「詳しい、というほどじゃないよ。
ただ――アズが大切にしている国、だから」
その名を、あまりにも自然に口にして。
「彼、ああ見えて結構“押し売り”だよね」
くすり、と笑う。
「君たちのことも、延々と語られたよ。
忠義深いだの、無茶をするだの」
冗談めいた調子に、
ギウンは思わず吹き出しそうになるのを堪えた。
「……あの方が、そんなことを?」
「うん。以前から特別な関係なのは、見ていて分かっていたけど
そこまで語らせるなんて――相当、大切なんだろうね」
肩をすくめる仕草すら、どこか軽い。
その雰囲気に、
ギウンの肩から、少しずつ力が抜けていく。
「――殿下は、お酒を嗜まれますか?」
「……いや? あまり飲まないかな。
でも、アズは強いみたいだね。
彼の飲みっぷりは、こっちでも有名だよ」
「はは……フェルディナの酒はそもそも強いんで。
祝福が関係してるのかは分かりませんが、アズベルト殿下はほとんど酔われないっす」
「そうみたいだね。
酔っているところ、一度も見たことがない」
その一言をきっかけに、会話は少しずつ自然に弾み始めた。
フェルディナの風土。
城下の空気。
あの国での日常。
セレストは楽しそうに耳を傾ける。
質問は多くない。けれど、ひとつひとつが的確で、「聞いている」ことをきちんと伝えてくる。
アウルは基本的に口を挟まない。
ただ静かに紅茶を口に運び、必要なところで短く相槌を打つ。
――観察している。
この王子が、本当に“何者”なのかを。
けれど、どれほど見極めようとしても、セレストは終始変わらなかった。
柔らかく、穏やかで、まるで何も疑っていないかのように。
威圧もない。探りもない。命令もない。
なのに、この場の主導権は、いつの間にか完全に彼が握っている。
ギウンは、ふとカップを置きながら思った。
(……気づいたら、喋ってるな、俺)
信用したわけじゃない。
けれど、この王子の“間”が妙に心地いい。
その事実に、二人はまだ、はっきりと言葉を与えられずにいた。
◇ ◇ ◇
王城からの呼び出しは、唐突だった。
中庭に控えていた従者が低く名を告げると、
セレストは少しだけ眉を下げ、穏やかな笑みのまま立ち上がる。
「――殿下」
短く名を呼ぶと同時に、
王城からの使いが駆け寄ってくる。
「演習場より急報です。
訓練中、複数の魔獣が暴走。
制圧部隊が追いついていません」
一瞬、場の空気が張り詰める。
「……ダリアス兄上は?」
「遠征中で、不在とのことです」
その報告に、
セレストは小さく息を吐いた。
「そう。なら――僕の出番だね」
軽く言いながらも、瞳の色がわずかに変わる。
柔らかさの奥に、魔導士としての集中が宿った。
だが――。
「私も、同行させてください」
即座にアウルが口を挟んだ。
場の空気が、ぴたりと止まる。
セレストは驚いた様子も見せず、
ただ静かにアウルを見つめ返した。
「君たちは、まだ“客人”扱いなんだ。
そんな立場の人を連れていくわけにはいかないよ」
声は柔らかい。けれど――
一線を引く、はっきりとした言い方だった。
それでも、アウルは引かなかった。
「承知しております」
一礼もせず、
ただ真っ直ぐ、セレストを見据える。
「それでも――殿下を見極める必要があります。
我々は、そのためにここへ来ました」
率直すぎるほどの本音。
一瞬、緊張が張り詰める。
だが、セレストは怒らなかった。
困ったように笑い、振り返る。
「仕方ないね」
そう言って視線を向けた先。
「ネイサン」
いつの間にそこにいたのか。
影のように控えていた青年が、静かに一歩前へ出る。
鋭い眼差し。無駄のない佇まい。
――騎士団長。
「――しかし」
ネイサンが言いかけた、その瞬間。
セレストは人差し指を立て、自分の口元にそっと添えた。
「僕はね。この二人と、仲良くやっていきたいんだ」
柔らかい声音。
だが、その奥の意思は揺らがない。
「彼らが“見極めたい”と言うなら――その場を設けなきゃ」
ネイサンはセレストを見つめ、次いでアウルとギウンへ視線を移す。
――値踏みするように。
そして、ふっと息を吐いた。
「……承知しました。
では、形式上だけでも騎士として扱いましょう。」
ギウンは思わず目を瞬かせる。
(……話、通ったぞ)
アウルはほんのわずかだけ目を伏せた。
「……感謝します。」
ネイサンが即座に判断し、セレストへ向き直る。
「急を要する状況です。
転移で向かいますが、よろしいでしょうか、殿下」
確認の言葉。判断を委ねる声。
セレストは一拍置いてから、ゆっくり首を横に振った。
「あまり複数人で転移魔法は使いたくないんだけど――」
困ったように笑い、肩をすくめる。
「今日は仕方ないね」
ふっと指先を持ち上げた。
詠唱は、ない。
魔力が、空気の中に静かに満ちていく。
「酔いやすくなるから、気をつけてね」
何気ない注意の直後。
足元に淡い光が広がった。
円でも、幾何学模様でもない。
重なり合う光の“流れ”そのものが、陣を形作っていく。
「――無詠唱……」
ギウンが息を呑む。
アウルは目を細め、その魔力の動きを一瞬たりとも逃さない。
魔力は荒れず、暴れず、まるで“最初からそこに在った”かのように配置されていく。
「準備はいい?」
セレストの声に、ネイサンが頷く。
アウルもギウンも陣の中へ足を踏み入れた。
光が、足元からせり上がる。
身体が、わずかに浮く感覚。
「行こうか」
微笑んだその瞬間。
陣が起動した。
光が弾ける。
音もなく、衝撃もなく。
次の瞬間――そこにいたはずの四人の姿は、跡形もなく消えていた。
もし気に入っていただけたら、本編もそっと覗いてみてください。
▼本編はこちら
『亡国の姫は、隣国の静謐王子に甘やかされる』
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