幽霊より怖いもの~後編~
夜。
辺境の屋敷は、虫の声と風の音しか聞こえないほど静まり返っていた。
イエレナは小さな灯りを頼りに、
廊下をそっと歩いていく。
(……本当に、行っていいのかな……
セスの寝室、なんて……)
胸がどくん、どくんと脈を打つ。
迷いながらも扉の前に立つと――
ノックをすると、
内側からすぐに優しい声が返ってきた。
「……イェナ?入っておいで。」
その一言で、
心臓が飛び跳ねた。
手のひらが汗ばむのを感じながら、
ゆっくり扉を開く。
室内はやわらかな灯りがひとつだけ。
静魔法で冷気を調整しているのか、空気は落ち着いている。
セレストは窓際で何か術式を組んでいたが、
イエレナが入ってきた瞬間、
ふっとやわらかい笑みを向けた。
「緊張してる?」
「し、してない……!」
即答したのに、声は裏返る。
耳まで赤くなりながら、
イエレナはそっと布団の端に腰を下ろした。
セレストは歩み寄り、
いつもの柔らかな声で言う。
「寝台に入ってていいよ。
ゆっくり休んで。
結界を張ってあるから、怖いことはないと思う。」
その言葉に、
ふっと胸が緩んだ。
イエレナは布団に身を沈め、
仰向けのまま天井を見つめる。
その瞬間――
寝台の横にしゃがんだセレストが、
そっと彼女の頭を撫でた。
優しい手のひら。
不安も緊張も、静かに溶けていく。
イエレナの息が、ふわりと乱れる。
「……せ、セスは……?」
恐る恐る尋ねると、
セレストは指先を髪に置いたまま、
少し目を伏せた。
「……一緒に寝たいところだけど。」
「っ……!」
一気に全身が熱を帯びる。
胸の奥まで熱が広がる。
セレストは照れたように微笑み、
静かに息を吐いた。
「でも……君が怖い思いしてた原因を、ちゃんと調べないとね。」
その声には、
甘さよりも“守りたい”が確かに宿っていた。
布団をぎゅっと握りしめながら、
イエレナは小さく呟いた。
「……終わったら……戻ってくる……?」
一瞬、セレストの動きが止まる。
囁いたその言葉は、ほんのかすかな音だったのに――
彼の胸の奥に、深く響いた。
次の瞬間、
極めて優しい声が耳に届く。
「……もちろん。」
イエレナの前髪をそっと払い、
瞳を覗き込むようにして囁く。
「だから、ゆっくり休んでて。すぐ戻るよ」
その響きに、胸がまたどきんと跳ねた。
イエレナは小さく頷き、
そっと目を閉じる。
セレストはゆっくり立ち上がり、
灯りの強さを少し落としながら言った。
「――おやすみ。」
その声は、
怖い夜すらやわらかく包み込むほど温かかった。
◇ ◇ ◇
ゆっくり眠れて、
目を開けた瞬間にわかった。
(……身体が、軽い……)
こんなに深く眠れたのは、いつぶりだろう。
胸を締めつけていた不安が、嘘みたいに薄くなっている。
イエレナは布団から身を起こし、
そっと足を床に下ろした。
朝の柔らかな光が、
薄いカーテン越しに寝室へと差し込んでいる。
静かで温かくて、
夜の恐怖の名残なんてどこにもない――
そう思った次の瞬間。
「……え?」
イエレナの視線が止まった。
寝台のすぐ傍。
小さなソファに――
セレストが座ったまま、うたた寝していた。
背中を少し丸め、
長い髪が肩から滑り落ち、
腕を組んだ姿勢のまま。
寝息はとても静かで、
寝室の空気に溶け込むように穏やかだった。
「え……な、なんでそこで……」
思わず声が漏れる。
セレストはゆっくりと目を開き、
眠たそうに瞬きをした。
「……イェナ……おはよう。」
まだ半分夢の中みたいな柔らかい声。
その声音が、胸の奥をじんわり温かく染める。
イエレナは慌てて駆け寄った。
「ちょ、ちょっと待って!
なんでソファで寝てるの!?
べ、ベッド使えばよかったのに……!」
セレストは、どこか眠たげな笑みで肩をすくめた。
「うん……使えるなら、そうしたかったんだけどね」
「……え?」
どこか歯切れの悪い返答。
眠たげなのに、ほんの一瞬だけ、話題を逸らしたような間があった。
(……今、誤魔化された?)
気になって眉を寄せるイエレナに、
セレストは肩をすくめるように、さらりと続ける。
「さすがに、アウルに怒られちゃうからね」
「アウ、ル……?」
意味が分からず首を傾げるイエレナ。
その視線を受け流すように――
セレストは軽く腕を伸ばし、背筋をほぐした。
そして、何気ない口調のまま言う。
「……それと、原因はもう分かったよ」
「へ……?」
頭の中が追いつかない。
セレストは、眠気の残る声で淡々と言った。
「コウモリだった。」
「……………………え?」
あまりの情報に思考が停止する。
「屋根裏の梁に、小さいのが巣を作っていたよ。
物音も、影も……全部それだよ。」
イエレナの目がみるみる赤くなる。
「こ、コウモリ……?」
セレストは苦笑して、
眠気の残る仕草で髪をかき上げた。
「うん。もう追い払ったから安心していい。」
(……この数日間の怖さ……
コウモリ……?)
あまりに気の抜けるオチに、
涙ぐんでいた自分が急に恥ずかしくなってくる。
顔どころか、耳の先までじわじわ赤くなる。
イエレナが口をぱくぱくさせて固まっていると、
セレストがそっと微笑んだ。
「理由が何であっても、怖かったことには変わりないからね。
これでゆっくり眠れるかな?」
その声は、
ふわりと包み込むように温かい。
コウモリだったという事実なんて、
一瞬で――完全に上書きされる。
不安が全部溶けて、
胸だけがじん、と熱を帯びる。
(……いつも、こうやって……
安心させてくれる……)
その想いが胸に溢れた瞬間、
イエレナは小さく肩を震わせた。
「……セス……」
呼びかけた声が、
思ったよりも弱くて甘い。
セレストはすぐに気づいて、
ゆっくりと手を伸ばし、
私の指先をそっと包んだ。
その瞬間。
「……少しだけ……いいかな?」
囁かれた声が、
くすぐったいくらい優しくて――
胸の奥がぎゅっと掴まれた。
え、と息を呑む間もなく、
手を引かれた。
身体がふわりと引き寄せられる。
「きゃ……!」
バランスを崩したイエレナを、
セレストが受け止めるように抱き寄せる。
気づけば、
イエレナの身体はセレストの胸元に収まり、
彼の脚のあいだに立ったまま抱きしめられていた。
腰に回された腕は、
驚くほど優しくて――
でも、逃げられないほどしっかりしている。
(ち、近い……っ)
息が触れ合う。
胸と胸が触れそうになる。
手は自然とセスの肩にまわってしまっていた。
恥ずかしくて顔を上げられない。
「……イェナ、もう怒ってない...?」
いつもの落ち着いた声じゃない。
不安を隠しきれない、かすれた問い。
胸の奥が、ぎゅっと締めつけられた。
数日怖かったことより、
その声のほうが、ずっと苦しい。
息が震えて、
胸の奥がじんと熱くなる。
「……怒ってない、よ……」
小さくても、真っ直ぐな答え。
セレストの身体が一瞬だけ強ばり、
すぐに、安堵するように力が抜けた。
「……そっか……」
そのまま、静かに身を屈めて、
私の首元へ、そっと顔を寄せてくる。
触れていないのに、
吐息と体温だけが伝わってくる距離。
「……もう少しだけ、このままでいいかな……?」
耳元に落とされたその声が、
怖いくらいに甘くて。
早まる鼓動が聞こえてしまっている気がして、
恥ずかしさに逃げ出したくなるのに――
セレストの肩に回していた腕に、
無意識のまま、わずかに力がこもった。
いつも私を守ってくれる、あの優しさとぬくもりは、
今だけ、どこか違っていて――
“私に、甘えてくれている”
そんな気がして、
胸がいっぱいになった。
セレストの腕の中で、
胸の奥がじんわりと温かく満ちていった、その時――
コツ、コツ。
控えめなノックの音。
「……セレスト殿下。
書簡をお持ちしました」
アウルの声だ。
(や、やだ……っ……恥ずかしい……!)
慌てて離れようとしたイエレナを、
セレストは逃がさない。
腕はほどけるどころか、静かに抱き寄せられる。
「セス……っ、はなして……!」
「……入っていいよ、アウル」
「っ――!」
扉が開く。
数秒の沈黙。
「…………失礼いたしました」
呆れと諦めが混じった声。
けれど、セレストは平然としていて意に介さない。
背中に回した片手はそのまま、
もう片方で、差し出された書簡を受け取る。
「ありがとう」
(……どうして、そんなに落ち着いてるの……?)
アウルは書簡を渡しながら、
どこか優しい、けれど呆れた調子で言った。
「……仲直りできたようで、何よりです」
「うん」
セレストは、心から安堵したように微笑んだ。
昨夜の不安が、すべて溶けたと分かる笑顔。
その表情に、胸がふっとほどける。
気にしていたことも、眠れなかったことも、
伝えきれなかった想いも――
ぜんぶ、その笑顔が語っていた。
「では、私はこれで」
アウルは静かに一礼し、退室した。
扉が閉まると、寝室にやわらかな静けさが戻る。
我に返って、身を離そうとする。
「……も、もう……離して……」
声は小さいのに、鼓動だけがうるさい。
けれどセレストは、
ほんの少し腕を緩めただけで、完全には放さなかった。
小さく息を含んだ笑みを落とし、耳元へ。
「……イェナが嫌じゃないなら、
もう少しだけ……このままでいたいな」
弱くて、甘くて、ずるい声。
胸の奥が、じんわり温かくなる。
「……セスは、ずるいよ」
そう呟くと、背に回った手が、そっと撫でた。
「うん。自覚はある」
可笑しくて、恥ずかしくて、
でもどうしようもなく嬉しくて――
イエレナは、セレストの服をきゅっと握り返した。
「……ありがとう。
調べてくれて……ずっと、そばにいてくれて……」
顔を上げると、
セレストの瞳が、やさしく細められる。
「怖い時は、何度でも呼んで。
からかったり……もう、しないから」
「……ほんとうに?」
「うん。
イェナが泣きそうになるのは……もう、見たくない」
胸が、きゅっと鳴る。
ふと、セスが照れたように笑った。
「――それに」
まっすぐな声で、続ける。
「イェナに嫌われるほうが……
幽霊より、ずっと怖いから」
「……っ」
耳まで熱くなる私を見て、
セレストは、安堵したように息をついた。
抱擁が、ゆっくりほどけていく。
その温度が惜しくて、思わず袖口をつまむ。
「……イェナ?」
「……もう少しだけ」
震える小さな声に、
セレストの瞳がやわらかく揺れた。
そして、そっと頭を抱き寄せる。
「……うん。
もう少しだけ、ね」
朝の光の中、静かに寄り添うふたり。
怖かった夜も、拗ねた気持ちも――
今は、セレストの腕に包まれて、ほどけていった。
(了)
もし気に入っていただけたら、本編もそっと覗いてみてください。
▼本編はこちら
『亡国の姫は、隣国の静謐王子に甘やかされる』
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