幽霊より怖いもの~前編~
辺境の夜は静かだ。
あまりにも静かで――
人の気配が薄い分、
小さな音がやけに鮮明に耳へ刺さってくる。
そんな夜更け。
僕の部屋の扉が、そっと叩かれた。
「……セス?」
かすれた声。
眠気ではなく、どこか怯えた響き。
扉を開けると、
両手を胸の前でぎゅっと握って突っ立っているイエレナがいた。
部屋の灯りに照らされたその顔は、
ほんのり青ざめている。
「イェナ? どうしたの……こんな時間に」
「……あのね、変な音がして……
最近、夜中に、屋根の上とか……窓とか……」
言えば言うほど声が小さくなる。
(……可愛い。)
怖がっているのは本当なのに、
その頼り方があまりにも稀で、
胸がくすぐられる。
「珍しいね、イェナが僕を頼ってくれるなんて。」
思わず微笑むと、イエレナの肩がぴくっと跳ねた。
「た、頼りたくて来たわけじゃ……っ」
「幽霊でもいたの?」
「っ……!」
否定しない。
むしろ反応が可愛すぎる。
つい調子に乗ってしまう。
「へぇ……幽霊、か。どんなのだった?」
「僕は見たことないんだけど……」
「イェナは、見えたの?」
ぽろぽろと落ちていく質問に、
イエレナは顔を真っ赤にして俯く。
「……み、見てないけど……」
その震え声すら愛おしい。
(ああ、これは……からかいたくなるやつだ。)
「僕にできること……あるかな?」
わざと低く囁けば、
イエレナの肩がさらに縮こまる。
「か、からかわないでよ……本当に怖くて……」
その言葉が胸に刺さったのに、
嬉しさが勝ってしまって――
僕は、調子に乗りすぎた。
「じゃあ――」
指先でそっと彼女の顎に触れ、
軽く上向かせる。
「朝まで一緒にいようか?」
イエレナの瞳がぱちぱちと揺れる。
頬が一気に赤くなる。
可愛すぎて、
もうひとつ言いたくなった。
そっと耳元で誘うように。
「……それとも、僕の部屋で一緒に寝ようか?」
次の瞬間。
ぷしゅう、と音がしそうなほど真っ赤になったイエレナが
目を見開いて叫んだ。
「も、も、も……もう!!
人が真面目に相談してるのに……っ!!
セスなんて知らない!!」
バッ!!
勢いよく手を振りほどいて、
バタバタと駆け出していく。
「イ、イェナ!?」
「もういいっ!!アウルのとこ行く!!」
夜、バタバタと逃げていったイエレナの背中を
僕は追いかけなかった。
もちろん心配はあった。
でも――
(アウルのところへ行くと言うなら、大丈夫だろう。)
アウルの忠誠心は誰よりも強く、
イエレナの扱いも心得ている。
それに。
逃げるイエレナの後ろ姿が、
あまりにも可愛すぎて。
つい微笑んでしまった。
(……あんなに怒るとは思わなかったけど。)
まあ、朝になれば機嫌も戻っているだろう――と
そのときの僕は、本気で思っていた。
◇ ◇ ◇
辺境の爽やかな空気の中、
僕は落ち着いた足取りで食堂へ向かった。
イエレナに会ったら、
昨夜のことを軽く謝って、
笑って済ませられるだろう――と。
「おはよう、イェ――」
と言いかけた瞬間。
ぷいっ。
横を向かれた。
(……え?)
頬をふくらませ、
口を引き結び、
眉間にしわを寄せて……
完全に怒っている顔。
イエレナが僕を見ることすら拒否している。
「イ、イェナ?」
恐る恐る呼びかける。
その顔は――
めちゃくちゃムスッとしている。
目が合った瞬間、
明らかに“睨んできた”。
(......これ、まずいやつかもしれない....)
胸の奥がぞわぞわと騒ぎ出す。
そんな空気の中――
「……はぁ。」
背後から、魂の抜けたようなため息。
振り向くと、
目の下に見事なクマを作ったアウルが立っていた。
髪は乱れ、
前髪から飛び出した寝癖が主張している。
「....アウル、昨夜なにがあったの?」
声をかけると、
アウルは半眼のまま、静かに、しかし確実に怒りを含んだ声で言った。
「どうしたじゃありません。
姫様が昨夜……
“泣きそうな顔で”私の部屋に来られまして。」
アウルは怒っているのか呆れているのか、
その瞬間、セレストの心臓が跳ねる。
「……っ、泣きそう……?」
アウルは続けた。
「幽霊が怖くて眠れないのに、
殿下が意地悪する。と」
「いや、ちょっと待って?」
「その後……」
アウルは重く疲れた瞳を細める。
「姫様の部屋で“気配探査”を続けておりました。
――結果、私は一睡もしておりません。」
そこへギウンが、
ひょいっと肩を組みながら割り込んでくる。
「ははっ、大変だったなアウル!」
まさかの爆笑。
アウルはぎろりとギウンを見る。
ギウンのいつも通りの軽い返しが響く。
視線をイエレナへ戻すと――
イエレナはセレストの顔を一瞬だけ睨んで、
「……知らないっ!」
子どもみたいに頬を膨らませて、
スカートの裾をつまみ、
パタパタパタ――ッ!
と小さな足音を響かせながら、
その場から一目散に逃げていった。
髪がふわりと揺れ、
怒っているのが丸わかりの背中はぴんと張っていて、
耳の先まで真っ赤だった。
(……逃げられた……)
手を伸ばしかけて、
でも追いかけることができず立ち尽くす。
胸の奥が、ぎゅう、と痛んだ。
その隣でギウンが腕を組み、肩をすくめる。
「……あー。」
困ったような、でもどこか楽しそうな兄貴の笑み。
「姫さん、あれでも結構根に持つんですよ。
早めに仲直りした方がいいですよ、殿下。」
セレストは深く息を吐いた。
「あぁ……うん。
……そうだね。」
いつもの静かな余裕も微笑みも、今はどこにもない。
イエレナの逃げていく後ろ姿が、
頭から離れず胸がざわつく。
(……どうしよう。
本気で怒らせた。
機嫌、直してくれるだろうか……)
そんなセレストの落ち込みを横目に、
アウルが静かに言葉を添えた。
「こっちに来てから、
あそこまで感情を露わにされたことはありませんでしたからね。
――姫様としては、殿下に“素を見せられるようになった”ということでしょう。」
少しだけ優しい声音で。
「……いい傾向ではあると思いますよ。」
その言葉に、セレストの胸がすこしだけ温かくなる。
けれど同時に――
心の奥の痛みは消えなかった。
(……早く謝らないと。)
静謐の王子は、
初めて“機嫌取り”という難題に直面していた。
◇ ◇ ◇
屋敷の中をひと通り探しても、
どこにもイエレナの姿がなかった。
廊下にも、食堂にも、庭にも。
ギウンは「姫さん、隠れるの上手いからな〜」と笑うだけ。
胸の奥がざわざわと焦りを増していく。
(……どこに行ったんだ、イェナ。)
もしかして、本当に怒らせすぎたのではないか。
そう思った瞬間、
胸の奥にきゅっと鋭い痛みが走る。
足は自然と温室の方へ向いていた。
彼女がこっちに来てから、
毎朝必ず花に挨拶して、
少し時間ができると土をいじって――
一番落ち着ける場所。
ガラス越しに差し込む日の光が
白いタイルへ斑に落ちて、
鮮やかな緑がゆっくりと揺れる温室。
扉を開けた瞬間――
ひんやりとした、湿った空気が頬を撫でた。
そして。
(……いた。)
イエレナが、
いつも世話をしている赤い小花の鉢の前で
ちょこんとしゃがみ込んでいる。
背中は丸く、
肩も小さく落ちていて、
怒っている、というより――
しょんぼりとした姿。
光が髪に落ち、
ゆるくほどけた三つ編みが頬にかかっている。
その姿に胸がぎゅっと締め付けられた。
「……イェナ。」
声を落として呼ぶと、
イエレナはびくっと肩を震わせた。
ゆっくりと振り向き、
セレストを見た瞬間――
ぷいっ。
また横を向いた。
(……本気で怒ってるし、拗ねてる。
これは……これで可愛い、けど……今はダメだ。)
そっと歩み寄って、
イエレナの横に膝をつく。
温室の静かな空気。
ガラス越しの光が葉に反射し、
揺れる影が二人の間をやわらかく揺らしていた。
セレストは一度だけ深く息を吸い、
声を落として言った。
「……昨日は、意地悪してごめん。」
イエレナは無言。
でも、ぎゅっと握った膝の上の手が小さく震えた。
「……勇気出して、相談したのに……」
ぽつりとこぼれた声は、
とても小さくて、でも確かだった。
「うん。」
セレストは即答した。
遮らず、否定せず、
ただまっすぐに彼女の言葉を受け取る。
イエレナは視線を落としたまま、
唇を噛んで続ける。
「……面白がられて……悲しかった。」
その言葉が、
胸に鋭く刺さる。
セレストは迷いなく言った。
「……ごめん。」
小さく、しかしはっきりと。
「嬉しかったんだ。頼ってもらえて……
それが可愛くて……つい、からかい過ぎた。」
その“可愛い”という一言があまりにも破壊力が強くて、
イエレナの肩はびくっと跳ねた。
「~~っ!!!!」
喉の奥でひゅっと声が吸い込まれる。
耳まで真っ赤になり、
恥ずかしさと怒りと、どうしようもない嬉しさが
胸の中でぐちゃぐちゃに混じった。
顔を上げようとしても――上げられない。
そんなイエレナに、
セレストはそっと身を屈めて顔を寄せた。
わずかに触れるほどの距離。
真剣な眉のラインも、
長いまつげも、
うっすら光る瑠璃の瞳も……
全部、すぐそこ。
(……近い……)
温室の光が二人のあいだに斑を落とし、
揺れる葉の影が静かに揺らめいている。
「本当に、ごめんね?」
声は低くて、
でも柔らかくて、
胸の奥にすっと染み込むようだった。
イエレナの目を覗き込むその瞳は、
ひとつの濁りもない。
嘘も飾りもなく――
ただ彼女の気持ちだけを見つめている。
その温度に、
イエレナの胸がどくん、と跳ねた。
逃げようとして逸らした視線も、
すっと戻されてしまう。
(……こんな顔で謝られたら……)
涙の気配が、まつげの端で震えた。
怒っているのに。
拗ねているのに。
悲しかったはずなのに。
それでも、
セレストの“真剣な声”が胸を締め付ける。
頬をつたう熱が、
じんわりと涙へと変わりそうになる。
イエレナは唇を噛んで、
それを必死にこらえた。
「……セスの、そういうとこ……ずるい……」
震えた声。
怒っているのに、悲しくて、恥ずかしくて――
全部が混ざった小さな訴え。
その一言に、
胸の奥がきゅっと締めつけられる。
涙の気配に気づいたセレストは、
そっと手を伸ばした。
イエレナの肩がびくりと跳ねる。
逃げようとしても、
その優しさに触れた途端、動けなくなる。
指が頬に触れ、
こぼれそうな涙をすくうように拭う。
その仕草は、限りなく優しくて。
触れられている部分だけ、
じんわりと熱を帯びていく。
「……泣かせちゃったね、ごめん。」
低く、静かで、
胸に沈むような声。
その声を聞いた瞬間、
イエレナのこわばりがふっとゆるむ。
「な、泣いてない……」
か細い抗議。
けれど震えた声では説得力がない。
セレストは、
少しだけ息を漏らして笑った。
「ふふっ……そういうことにしとくよ。」
その笑みは優しくて、
でもほんの少しだけ意地悪で、
イエレナの胸をまたどくんと鳴らす。
耳まで真っ赤になったイエレナは、
ぎゅっと視線を落として唇を噛む。
触れられた頬だけが熱くて、
胸の奥はじんわり温かくて――
全部がもう、どうしていいかわからない。
セレストは、
そんなイエレナの混乱をすべて受け止めるような目で見つめていた。
逃げ道を塞ぐでもなく、
無理に近づくでもなく。
ただ――
優しく、そっと。
「……もう一度、状況を教えてくれる?」
低く落ちたその声には、
焦らず寄り添うような柔らかさがある。
「イェナが安心できる場所でないと、ね?」
その一言に、
イエレナの肩がびくりと揺れた。
怒りも、拗ねも、
胸の奥に引っかかっていたちいさな棘も――
ぜんぶ、
その声に触れた瞬間ふわりとほどけてしまう。
(……そんな風に言われたら……怒ってられないよ……)
イエレナは、
落としていた視線を少しだけ上げた。
セレストは、
彼女が恥ずかしくて顔を上げられないことも、
泣きそうなことも――
全部わかっているような、
優しい目で見つめ返してくる。
「イェナの言葉なら、どんなものでも聞くよ。
ちゃんと守るから。」
まっすぐに落ちてくるその声に、
胸がどくん、と鳴る。
温室の中で揺れる葉音が、
静かに二人を包み込む。
イエレナは、
ぎゅっと握っていた手を少し緩めた。
「……あのね……」
すこし震えた声。
でも先ほどよりずっと素直。
「屋根の上で……カタッて音がして……
それで、窓の外も……なんか影が通った気がして……
ここ数日、ずっと続いてて....怖かったの。」
イエレナは、勇気を振り絞るように言葉を紡いだ。
セレストは黙って頷く。
「うん。」
短い返事。
けれどその声音には、
どんな長い言葉よりも深い“受け止める気持ち”があった。
「セスのとこに行ったら……安心できるかなって……
その、すこしだけ……思ったのに……」
そこまで言った途端、
恥ずかしさが一気に込み上げて、
イエレナは慌てて視線をそらした。
耳まで真っ赤。
セレストの瞳がふっと細まり、
甘く、深く、柔らかく色を変える。
「――イェナ。」
ただ名前を呼ばれただけなのに、
どくん、と胸が跳ねる。
そしてセレストは、ごく自然に、当たり前のように言った。
「今日は僕のところおいで?」
「なっ……! ま、また――っ!!」
反射的に声が跳ね上がる。
昨夜からの流れ的にも、
絶対、からかってるとしか思えなかった――
けれど。
その瞬間。
真正面から向けられた瞳とぶつかった。
真剣。
淡い光と静謐さを帯びた、“王子”の目。
一切、冗談ではなかった。
「……イェナ。」
セレストは続ける。
「僕の寝室で寝るといい。
数日その状況が続いているなら、
ちゃんと原因を調べないとね。」
声は優しいのに、
言葉にはどこか“守る者”の強さがあった。
イエレナの心臓がきゅっと縮む。
(……からかって、ない……?)
それを悟った途端、
胸に溜めていた不安がじんわりほどけていく。
セレストは、そっとイエレナの手に触れる。
「ひとりで怖かったんでしょう?
……ごめんね。僕が気づけなくて。」
温室の光の中で、
二人の影が触れ合う。
イエレナは、
ゆっくり、ゆっくりと顔を上げた。
真っ直ぐ見つめ返してくるセレストの瞳は、
優しさでいっぱいで――
もう怒れるはずなんか、なかった。
もし気に入っていただけたら、本編もそっと覗いてみてください。
▼本編はこちら
『亡国の姫は、隣国の静謐王子に甘やかされる』
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