第4章1節『裏切られた国(リジェクテッド・ネイション)』 第1節「指揮なき戦争」
10月8日 午前7時。南西諸島戦域。
高浜2佐による“統帥奪取未遂事件”から数日が経過していたが、防衛省・統幕は公式発表を一切行っていなかった。
国家中枢の“沈黙”は続き、その代償は前線に濃密に降りかかっていた。
与那国島。
柿沼浩介・1尉は、粗末な掩体壕の中から望遠鏡を覗き込んだ。島の西部に上陸した中国陸戦隊との小規模交戦が続いていたが、彼の中隊は未だに正式な交戦許可を得ていない。
「もうとっくに戦争なんだよ、これは」
副官が呟いた。
「なのに“まだ自衛行動の範囲”か」
柿沼は唇を噛み、部下の目を見た。
「我々は、祖国に命じられてここにいるんじゃない。ここに“敵がいる”から戦うんだ」
彼の語調には怒りよりも諦念が混じっていた。
那覇基地・空自第9航空団。
板垣司令は、管制室でスクリーンに映る米軍機の群れを見つめていた。
グアムからのB-1爆撃機、F-22戦闘機、そしてイージス艦部隊が沖縄本島周辺で独自の防衛作戦を開始していた。
「米太平洋軍司令部は、日本の“協力が限定的”であるため、独自作戦に切り替えると通告してきました」
空幕参謀からの報告。
「それで、我々は?」
「何も指示はありません」
板垣は、眉間に深い皺を刻んだ。
「だったら、我々も“現地独断”で空域防衛を継続するしかない」
東シナ海・石垣沖。
海自「まや型」護衛艦・第2護衛隊群。
氷室艦長は、艦橋で空を仰いでいた。頭上をかすめる無人機の編隊。IFF信号のない中国製攻撃ドローンが、航行中の海保船を監視していた。
「……もう、これは戦時下ですよ」
副長が呟いた。
「そうだな。しかし、撃墜命令は出ていない。だが——」
氷室はきっぱり言った。
「“交戦規定(ROE)”が出ないなら、こちらで“状況判断”するしかない。敵と見做せば、撃つ」
その一言に、艦橋の空気が張りつめる。
しかしその一方、部隊の足元では、深い疲弊と困惑が広がっていた。
那覇第15旅団の歩兵中隊では、数名の隊員が姿を消していた。
「訓練中に転落……ということになっていますが、内部では“脱柵”と噂されています」
副官が耳打ちする。
「逃げたっていうのか?」
「いえ、“なぜ戦っているのか分からなくなった”と遺書に書かれていたそうです」
沈黙が、作戦指揮所を包んだ。
民間でも、空白の指揮の影響は如実に出ていた。
石垣市役所は再び開庁していたが、避難誘導は事実上、教師・三橋夏美ら民間人主導で進められていた。
「自衛隊の“存在”は確認されているのに、避難所にも顔を出さない」
「何か“命令がない”って言ってるらしい」
三橋は、避難所で怯える子供たちに水と毛布を配りながら、悔しさを噛みしめた。
「守ってくれるはずの国が、ここにいない」
10月8日 午後11時。市ヶ谷・防衛省 地下第1会議室。
鹿島幕僚長は、深夜の作戦報告会を無言で聞いていた。
誰も彼に意見しようとしなかった。
高浜2佐は“行方不明”として処理された。
だが、誰もが知っていた。
「命令を出せない国」としての日本は、今や“主権なき戦場”を各地に拡大していた。
静かなる崩壊が、確実に進行していた。