第3章1節『沈黙する中枢(サイレント・コア)』 第1節「命令の空白」
10月4日 午前4時22分。
市ヶ谷・防衛省 地下第1作戦会議室。
白光灯の下、分厚い強化コンクリートに囲まれた作戦会議室は、異様な静寂に包まれていた。
中央の巨大スクリーンには、日本列島の衛星投影地図。無数の赤点が、台湾海峡、朝鮮半島、与那国・石垣周辺に点滅していた。
その画面を前に、統合幕僚長・鹿島元成・陸将は、腕を組んだまま、微動だにしない。
会議室の隅に立つ戦略AIオペレーター・堀川慶が、沈黙を破った。
「AI“YAMAT-5”の最新戦域解析です。国土周縁における敵性行動強度指数が閾値を超えました。統合予測アルゴリズムの結論――」
彼は画面を指さす。
「“戦端は既に開かれている”。防衛出動相当の状態に突入したと、機械は言っています」
幕僚たちの視線が鹿島に集まった。
だが、鹿島は答えない。
彼の指先は、小さく震えていた。
「では……出動命令を出すべきでは?」
海幕副長が口を開く。
「まだ“宣戦”ではない。総理府の確認を得ずに、自衛権発動を下せば、文民統制違反になる」
鹿島の声はかすれていた。
「だが、このままでは……」
空幕作戦部長が続けようとした瞬間、鹿島は手を挙げた。
「“まだ”なのだ」
彼の眼には、深い疲労と恐怖があった。
「我々は、命令を受けるまで動いてはならない。これは、国家の原則だ」
その場の空気が凍りついた。
午前5時03分、同省地下第3通信区画。
高浜拓真・2佐は、IDカードと生体認証を組み合わせ、戦略通信センターのバックアップ回線へアクセスした。
目標は、全国の陸・海・空各部隊に向けた「緊急非公式警告情報」の送信。
「命令なき今、少なくとも“自律判断を抑制するな”という意志を示す必要がある」
傍らの副官が言った。「これは指揮系統逸脱になります」
「いいや、“空白の補完”だ」
高浜は、旧式衛星通信用プロトコルを手動で入力した。
「S-CODE-DELTA、Priority-C。送信開始」
送信が開始されると同時に、高浜の額に汗が滲む。
「これで全国の部隊は、少なくとも“動け”というメッセージを受け取るはずだ」
同時刻、陸自・福岡駐屯地。
第4師団の司令部では、幕僚がざわめいていた。
「市ヶ谷からの作戦命令はなし。だが、先遣隊が与那国に到達不能との報告が」
「周辺空域も敵無人機多数」
師団長は短く頷いた。「緊急戦時態勢に入る。訓練名目での師団集結を開始せよ」
空自・千歳基地。
「北朝鮮軍が韓国北部都市に砲撃。民間施設に被害多数」
「日本上空の通信衛星へジャミング兆候」
司令が一言。
「戦時下だ。だが、命令は来ない。……ならば、我々が現場を支える」
各基地、各部隊――命令の来ない中央に見切りをつけ、次第に独自の「有事行動」へと踏み出し始めていた。
だがその頃、東京・永田町の首相官邸では、内閣安全保障会議が「対話による事態鎮静化を追求すべき」との意見統一を進めていた。
「戦争ではない。少なくとも、我々がそう言い続ければ、戦争にならない」
この瞬間、日本という国家の“指揮中枢”は、沈黙と虚無の中にあった。
その沈黙に、鉄のような意志で風穴を開けようとしていた者が、高浜だった。