第2章2節『命令なき戦場(ゴースト・オーダー)』 第2節「行動する者たち」
10月3日 16時07分、那覇基地・第9航空団司令室。
板垣裕一・空将補は、応接室の窓越しに空を見上げた。
「この空が、敵のものになるのを見ているだけなのか……」
F-15Jの出撃準備完了報告が届いてから、既に30分以上。
統幕からは何の指示も下りてこない。むしろ、沈黙だけが強まっていた。
「……第305飛行隊、F-35A、即時発進せよ」
「司令、それは正式なスクランブル命令では……」
「これは訓練だ。偶発的な定期哨戒とでも報告しろ。空を空けるよりはましだ」
飛行隊長が敬礼した。「了解。すぐに発進させます」
板垣が命令書類に捺印する直前、机上の電話が鳴った。
「板垣空将補、あなたは即時待機処分となりました。航空幕僚監部より通達が届いております」
電話の声は冷たかった。
「…なるほど。今、日本で“行動”するというのは、罪なのか」
同刻、石垣島市・川平地区。
三橋夏美は、数十人の住民を引き連れて、市立小学校の裏山へと避難していた。
市の災害対応班は不在。市役所は正午を過ぎてから職員が退避し、扉には「臨時閉鎖」の張り紙。
自衛隊の車両も見かけなかった。
「先生、ここって安全なんですか?」
背後から震える子どもの声。
「山の上は、少なくとも津波や上陸には耐えられる。何もないよりは、ずっといい」
ラジオは断続的な停波を繰り返し、携帯は圏外。
だが、遠くから聞こえる不気味なエンジン音が現実を物語っていた。
「みんな、できるだけ物音を立てず、静かにして。子どもたちは先生たちが守るから」
自衛官も役所も来ない――この島に残されたのは、教師と市民だけだった。
午後5時02分、与那国島・南東海岸。
敵の小型舟艇が砂浜を超えて次々と兵員を吐き出していた。
柿沼浩介・1尉は、丘上の観測所で叫んだ。
「全小隊へ通達、交戦開始だ! 対舟艇射撃、優先目標は補給ライン!」
すでに指揮系統は統幕とは断絶されていた。通信は混線し、島内ネットワークのみが辛うじて生きている。
弾薬は少ない。増援はない。
「機関銃手、崖上へ展開! スナイパーは港湾倉庫へ。市街地の遮蔽を最大限使え!」
初弾が敵の舟艇を貫き、浜辺が火に包まれる。
その刹那、柿沼は言った。
「上陸阻止戦をここに開始する。中央の命令がなくても、これは“戦争”だ」
午後6時00分、市ヶ谷・統合幕僚監部 地下第2戦略区画。
高浜拓真・2佐は、極秘会議室に部下を招集していた。
「今や現場の指揮官たちは、それぞれの判断で防衛を始めている。だが中央は何も命じない。このままでは、自衛隊そのものが“無秩序化”する」
若手幕僚が囁く。「……クーデター、ですか」
「違う。これは、指揮の“奪還”だ」
高浜は壁のホログラム端末を操作した。
「“CODE-T-ACT”。旧指揮連絡網へのバックドア経由で、限定的に作戦指揮系統を制御する。合法性は……この非常時においては、後で法が追いつく」
「反発されます」
「構わない。反発しているうちは、自衛隊はまだ組織だ」
会議室には沈黙が落ちた。
「命令なき戦場で、命令を創り出せる者だけが、国家を防衛できる」
それが、高浜の信念だった。
そして、ついに――彼は行動を開始する。