第1章第2節「静かなる侵入」
10月3日 10時12分。与那国島・陸自駐屯地。
中隊長・柿沼浩介・1等陸尉は、観測所からの急報を受けて双眼鏡を握った。
「東南東、9キロ先。水平線の影、海面に泡痕が……間違いない。高速艇だ」
後方に立つ副官が声を詰まらせた。「本部からの交戦許可は?」
「来ていない」
柿沼は、ためらいなく口を開いた。
「第一種戦闘配備、全中隊に伝達。通信班は島内警報サイレンを作動。民間施設に退避警告」
副官は硬直した。「越権では……」
「この島にいるのは俺たちだけだ。命令が来るまで座して待つのか」
「はっ」
柿沼は無言で双眼鏡を下ろした。気象衛星が示す薄雲の合間、海面には3隻の鋭い波が描かれていた。
それは、訓練でしか見たことのない上陸艇の挙動だった。
同刻、石垣島・八重山中学校。
「生徒の皆さん、落ち着いて行動してください。避難用具はそのままで、先生の指示に従って体育館に集まります」
三橋夏美はマイクを握りしめながら、視線を教室の窓越しに走らせた。
遠くに見える白波の切れ目。地元漁師たちが港から出漁を取りやめ、急ぎ引き返してくる姿が見えた。
「本当なんですか? 戦争って」
教室の片隅で震える女子生徒がつぶやいた。
「わからない。でも……何があっても先生は君たちを守る。だから、動いて」
行政無線は沈黙を続けていた。
市役所に電話をかけても誰も出ない。災害用伝言ダイヤルも混雑中の音声しか返ってこなかった。
教職員たちの手で、避難所として指定された体育館が急ごしらえで整えられていく。
誰もが、これは訓練ではないことを本能で悟っていた。
同日 10時45分。市ヶ谷・統合幕僚監部 地下第2作戦区画。
高浜拓真・2佐は、無言でモニターに並ぶ通信ログを確認していた。与那国からの警報信号。石垣島の電波沈黙。
そして、台湾からの応答ゼロ。
「動かないか……」
隣で幕僚がため息をついた。「この規模で、未だに“警戒段階維持”とは。政府は狂ってますね」
「いや、狂ってはいない。恐れているだけだ。自分たちが、国家として“最初の一発”を撃つ責任を持つことを」
高浜は、部下に向かって指示を出す。
「特殊作戦群全中隊に伝えろ。非公式行動コード“零-Zero”発令。即応展開態勢へ。情報遮断に備え、独自通信系統を構築。上層部への報告は……最低限でいい」
「了解」
高浜は、手元の端末に指を走らせた。
【Z-0:敵対行動未確定下の自律的局地防衛行動を承認。対応部隊は独自判断のもと展開】
「この国は、命令を出さない。ならば、我々が命令となる」
11時18分、ソウル。
ロケット弾が仁川郊外に着弾。
次いで、陸路を越えて侵入してきた北朝鮮特殊部隊による銃撃戦が発生。
韓国軍は非常召集をかけ、空軍が応戦を開始するが、都市内での混乱は深刻を極める。
CNNとBBCは「北朝鮮、韓国に対する局地侵攻開始」と速報。
同日 正午、官邸。
総理大臣・三田村肇は、記者会見に臨んだ。
「現時点で、日本国は戦争状態にありません。石垣、与那国方面において一部の情報がありますが、それらは確認中であり、国民の皆様には冷静な行動をお願いしたい」
記者が手を挙げる。「与那国では自衛隊が第一種戦闘配備を行ったと伝えられています。政府の認識は?」
「確認されておりません」
もう一人が質問する。「台湾が陥落したとの未確認情報があります」
「そのような報告は受けておりません」
三田村は一礼し、会見室を後にした。
幕僚室の奥で、それをモニター越しに見ていた高浜拓真は、静かに呟いた。
「これが……“国の死”の始まりだ」