39.三人の教育と兵糧攻め
天文二十一年七月二十九日。
雨、夕方から豪雨となった。
風が強い、野分(台風)だろうか?
わからん。
風の強まりが増さないから直撃コースではなさそうだ。
しかし、今年の雨の多さにうんざりする。
今年の収穫量は九割程度、つまり不作だ。
ただし、稗と稲黍は雨に強く、食料が不足する心配はない。
余ったら雑穀は焼酎にする……が、今年は余らないかもしれない。
中根南城の飯も雑穀を増やすか。
風向きが変わり、雨が入ってくるようになったので雨戸を閉じた。
「お市、お栄。今日は泊まってゆけ」
「わかったのじゃ」
「わかりました」
雨戸を閉じると真っ暗になり、燈明に火が付くとほんのりとした灯火が部屋を照らした。
部屋を閉め切ると蒸し暑くなるから嫌なのだ。
「魯兄じゃ。はやく続きを話すのじゃ」
「どうして今川は『殿へ』と書き、武田は『どのへ』と書くのですか。今川家と武田家は同じ源氏の義家、『八幡太郎』を祖としています」
「お栄は良い質問する。このような改変が行われたのは、足利が幕府を開いてから起こった」
俺がそう答えると、お栄が首を捻った。
お栄は何がよいのか。また、鎌倉幕府と室町幕府の違いもわからない。
俺は関東管領と足利一門の配下の話をはじめた。
関東管領は関東を治める鎌倉公方を助ける二番目に偉い役職となる。
その配下に足利一門の武士がいた。
ある日、道を歩いていると二人が正面からぶつかった。
どちらが下馬して道を譲らねばならないのか?
「もちろん、配下の武将じゃ。部下が上司に道を譲るのは当然なのじゃ」
「お市姉様。魯坊丸兄上がそんな当り前の質問をしません。おそらく、足利一門の部下が進み、関東管領が下馬して道を譲ったのです」
「そんなのは可怪しいのじゃ」
「はい。私も可怪しいと思います。でも、魯坊丸兄上がわざわざ聞いてくるのです」
「里はどう思うのじゃ」
「よくわかりません。関東管領って、本当に偉い人ですか?」
里の疑問ももっともだ。
俺が北条家の説明をするとき、関東管領の城を攻めていると教えた。
里は関東管領が偉いのかという根本的な疑問を持ってしまった。
三者三様で面白い。
「まず、正解を言うと。お栄の通りだ。足利一門の為に関東管領が道を譲れと幕府は命じている」
「ほらね」
「可怪しいのじゃ」
「お市の意見は正しい。上司が部下に道を譲るのは可怪しい。だが、幕府はそう命じた。室町幕府を立てた足利-尊氏は『足利一門は武家の統領だ』と触れ回り、足利一門を特別とした。鎌倉幕府の頃は足利家も『八幡太郎』の子孫に過ぎない。一番偉い訳でもなかったし、武家の棟梁でもなかった。だが、尊氏は『足利こそ、武家の棟梁』と風潮し、三代目の義満の頃には、皆もそうなのかと思いはじめた」
「嘘を広めるのは悪いことなのじゃ」
「尊氏様は悪い人だったのですね」
「悪い人」
「足利-尊氏は大悪党だ。足利家が一番偉い。足利家でなければ、高い役職に就けない。そのように人事を動かし、日の本中の足利一門を優遇した。各武将らは足利一門と婚姻を結び、足利一門になろうとした。だから、足利一門の今川家は“殿へ”と書き、武田家には“どのへ”と書く。手紙の順番も足利一門を前にする。“足利家にあらずんば、武士にあらず”とすり込んだ」
「尊氏は悪い奴だったのじゃ」
「お市は真実を知った。しかし、周りの大人は尊氏に騙され、それを信じておる。みだりに口にするなよ。信勝兄上が知れば、お市を部屋に閉じ込めて、反省するまで食事抜きにするぞ」
「食事抜きは嫌なのじゃ」
「今の話は他言無用だ。他で絶対に喋るな。本当に悪い奴はずる賢い。正しいことを口にすると、逆賊と呼ばれ抹殺される。絶対に言ってはならん」
「食事なしは嫌じゃ。誰にもいわん」
「お栄、里もわかったな」
「はい。わかりました」
「母上にも言いません」
お栄と里も青い顔をする。
脅し過ぎたか?
足利一門というだけで優遇されると教えたかっただけなのだが、薬が効き過ぎた。
食事抜きは三人にとって重要らしい。
俺は話を変えることにした。
駿河から大高に入った戸部-政直に嫁がきた。
今川の姫、足利一門の姫だ。
今川一門として扱って貰えるというだけで、政直は織田を見限って今川へ付いた。
足利一門というまやかしの力は凄い。
婚儀は終わると、今川の兵が去っていった。
笠寺を守っていた守将も含め、すべて今川方の武将が消えた。
信長兄ぃは鳴海へ出陣し、敵兵を誘ったが討って出てこない。
城に籠もって亀のように動かない。
動くと腹が減るので省エネに切り替えたのだろうか?
川の氾濫で駄目になった田畑の復旧すらできておらず、鳴海と大高の収穫は絶望的となった。
解散させて村に帰さないので田畑の復旧も儘ならない。
少し蓄えがある村人は米を求めて熱田に買いにくる。
商人が売らないという選択はない。
しかし、米俵を背負う者や馬に担がせる者にはならず者が襲い掛かり、その米を奪っていった。
さくらが“我々は野盗などではない”と嘆く。
護衛を雇うので、割とシビアだ。
ただし、布で米を巻いて身に付けて運ぶ程度は目溢しする。
また、村人の山での山菜摘み、海での魚捕獲も無視する。
今川方から刈谷、知立、福谷に米が届けられたと伝わると、森隊と伊丹隊が出動した。
森隊と伊丹隊は輸送隊を襲った。
笠寺・鳴海・大高の兵が飢える声が聞こえてきた。
「魯兄じゃもそんな悪いことをしておるのかや」
「あぁ、俺は悪党だからな。逆らう奴には容赦しない」
「尊氏と一緒じゃ」
「一緒だな。しかし、飢えて死ぬのが嫌ならば、織田家に降ればよい。食えるようにしてやる」
「魯坊丸兄上は凄いです」
「お栄、何が凄いのじゃ。わらわはわからんのじゃ」
「私も難しいことはわかりません。でも、今川は織田よりずっと大きな大国です。先日、魯坊丸兄上が教えてくれました。その大国に小国の織田が勝つには尋常ならざる手を打たねばなりません。兵糧攻めはその一つですね」
「その通りだ。策の内容は話せん。いつか話してやる。だが、一つだけ覚えておけ。土地を捨てられない者は愚か者ではない。祖先が苦労して手に入れた土地を守りたい。そんな純粋な思いで生きている。素朴な民なのだ」
「素朴な民ですか」
「土地を手に入れるのは大変なことであり、祖先が苦労の末に手に入れた。祖先を大切に思うから離れられない」
「やっぱり、魯兄じゃが悪党なのじゃ」
「兄上は悪党じゃありません」
「里、俺は悪党だ。素朴な民を苦しめている。非情な男だ」
「兄上」
「だが、素朴な民よりお市やお栄や里の方が大切だ。俺は大切な者を守る為に非情になれる。名も知らぬ民より、お前達が大切だ」
「わらわらのためかや」
「そうだ。俺のため、みんなのため、守りたい者を守るために悪に徹する。彼らに謝ることはせぬが、己が悪をなしているという自覚だけは忘れん。恨まれて当然だ。無辜の民を踏み潰していることを忘れたとき、俺も滅ぶ」
俺がそういうと三人が黙ってしまった。
お市、お栄、里に感じるものがあったのだろうか?
よくわからん。
部屋が鎮まり返ると、隣の侍女代の声が響いた。
護衛侍女ではない、普通の侍女代だ。
里の侍女と女中、お市とお栄の侍女に仕事を教えていた。
織田の姫に仕える侍女が武家の姫や荘官や名主の推挙で上がっている。
無教養な訳もなく、当然のように読み書き計算ができた。
しかし、事務仕事が得意な訳がない。
お市、お栄、里に割り振られる仕事はその侍女らの仕事となる。
侍女代が「主をいつまで待たせるつもりですか」と怒鳴り、鬼に変貌してしごいていた。
いつか、どこかで見た光景だったような気がする。
やられた事をやり返していた。
いつも同行して、暇なときは甘い茶菓子に頬を緩めていた侍女らの目に涙がこぼれていた。
俺はなんとなく、心の中で手を合わせた。
すまん。




