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閑話(38) 戸部政直の花嫁と今川の撤退

瀬名(せな)-氏俊(うじとし)の心は晴れなかった。

 妹の子が義元の小姓から側近に採り立てられ、武田(たけだ)家を継ぎ、信正(のぶまさ)の名をいただいた。それを喜んだのも束の間に妹が尾張の小国衆に嫁ぐ話が上がったからだ。

 国人は笠寺の戸部城主、戸部-政直という

 妹は左衛門尉(さえもんのじょう)に嫁いで信正を産んだが、夫を早く亡くした。

 駿河武田家は内房(うつぶさ)(静岡県富士宮市)に領地を持ち、幼い信正が家督を継ぐことができずに中継ぎが立てられた。

 妹は息子の元服と共に家督継承を求め、義元はそれを認めた。

 甥っ子が無事に家督を継げたのは瀬名家としても喜ばしい。しかし、氏俊はあっさりと義元が認めたことに疑問を持っていたが、やはりと頷くしかない。

 妹は義元の兄である氏輝(うじてる)の養女となり、駿河武田家に嫁いだ。

 瀬名家は九州探題を務めた今川(いまがわ)-貞世(さだよ)を祖とする名門であり、義元の義理妹となる。三十路前であるが、今川一門、引いては足利一門の価 値は大きい。 

 妹も承知しており、今更覆すこともできなかった。

 氏俊は一緒に呼ばれた弟の関口(せきぐち)-親永(ちかなが)に氏俊は頭を下げた。


「妹をよろしく頼む」

「兄上、某にとっても妹でございます。無事に届けて参ります」

「頼む」


 関口家は貞世の次男教兼(のりかね)が養子に入ってから今川一門となった家であった。 

 同じく、瀬戸家の次男であった親永が断絶しかけていた関口家の養子となった。

 今回、親永は笠寺まで妹を送る任を与えられた。

 親永は天文二十一年七月十一日に駿河を出発したが、十四日と十五日の雨で足止めされた。

 十六日も岡崎に入ると、笠寺は山崎で今川方が惨敗したと聞いた。

 親永は城代の山田(やまだ)-新右衛門尉(しんえもんのじょう)-元益(もとます)に会談を求めた。


「お初にお目にかかる。関口-刑部少輔でござる」

「お噂はかねがね聞いております」

「単刀直入に申します。御屋形様の御妹様をお預かりしております。御妹様に何かあれば一大事でございますが、我が兵は二百。これでは心許ない。どうか兵をお貸しいただきたい」

「畏まりました。御妹様に何かあれば、我もタダでは済みますまい。街道の領主にも声を掛けます」

「忝い」


 十七日に岡崎を発し、知立神社へ進んだ。

 翌日、周辺の領主からも兵が集まって一千五百人に達した。

 葛山-長嘉から戸部-政直が大高城に入っていると知らされ、一行は大高へ入った。

 戸部-政直は盛大に出迎えてくれた。


 天文二十一年七月十九日。

 政直は関口-親永の立会いで婚儀が執り行われた。

 政直も男盛りだ。

 正室を廃して、義元の義妹を迎えた。

 政直は今川一門に列され、公方様と同じ足利一門の姫を妻に娶ったと評される。

 大変な名誉であった。

 しかも、妻の子が義元の側近と聞くと政直は笑みを浮かべた。

 自称、清和源氏を謳っているが戸部家は根無し草であり、家格はあってもないに等しかった。

 だが、姫の子が生まれれば、その子は足利一門の血を引く。

 歓喜のあまり不細工な笑みが止まらない。

 親永は政直の忠義心が揺るぎないと感じて安堵した。

 婚儀には葛山-長嘉も立ち会った。

 その夜、親永と長嘉は会談した。


「なんと。撤退すると申されるのか」

「対抗する手段として山崎の地に砦を築いてから引くつもりでしたが、そのような猶予もござん」

「そこまで」

「鳴海に置いた兵糧を焼かれ、秋の収穫も見込めず。今川の兵を飢えさせないために米を集めれば、笠寺、鳴海、大高の民草が暴動を起こしかねませぬ」

「御屋形様から兵糧を大目に準備しろと言われたが、御屋形様は見越しておられたのか」

「そうでござろう」


 鳴海の山口-教継は兵糧の蓄えが多くなかった。

 昨年、米が高騰したので米を売って借財を精算し、余った銭に武具をそろえた。

 織田弾正忠家は少なくとも他領から見れば豊作であった。

 教継も熱田から高い土〔蝮土〕を買った意味があった。

 しかし、織田-信秀が亡くなり、今川-義元の脅威に比べると、織田方に残る意義がないと考えたのだ。だが、織田-信長が豹変した。

 赤塚の戦いで引き分け、正面から戦わずに兵糧を狙い出した。


「正面から戦わず、兵糧攻めとは武士の風上に置けませぬ」

「城に忍んで蔵に火を掛ける。田畑の油を撒いて燃やすですか」

「しかも。戦では“目潰し”を放ってくるのでござる」

「正々堂々と戦って勝てぬ。そう察したと」

「おそらく。織田家の家督も弟に譲り、一城主と成り下がったことで武士の誇りも捨てたようでござります」

「卑怯と侮辱するのは簡単でございますが、厄介な相手となったと見るべきですな」

「いかにも」


 今川方の兵は信長を卑怯者と罵り、正面から戦わないことを非難していた。

 しかし、親永と長嘉は信長の評価を上げた。

 卑怯になりきれる者は恐ろしい。

 幸い、今川の兵が去れば、親永が大目に兵糧を持ってきたので一月は持つ。

 八月は収穫月だった。

 笠寺、鳴海、大高の収穫は見込めないが三河から運ぶことができる。

 畿内と中部は長雨で飢饉になりそうだが、駿河、遠江に至っては長雨の影響も小さい。

 一度、駿河に戻り、今川-義元に指示を仰いで戻ってくることにした。

 親永は二十日に笠寺に移動すると、二十一日に今川方の全兵がこの地を後にした。

 山口の兵は今川がいなくなれば、信長が攻めて来ないと安堵した。

 しかし、山口-教継の心は晴れない。

 織田方が攻めてくれば、籠城するしか手はない。

 教継を今川-義元は助けにきてくれるのだろうかと不安が過っていた。


■戸部政直の嫁

今川氏輝いまがわ うじてるに仕えていた武田左衛門尉たけださえもんのじょうは、瀬名せな 氏貞うじさだの娘を正室に貰っていおり、いつ嫁いだかは定かでない。


今川家臣の駿河武田家は左衛門尉を代々名乗っている。

どこからきたのかは定かではなく、義元の兄である氏輝の時期にも名が出てくる。

古くは南北朝時代から駿河に住み、そのまま今川家に取り込まれたとも思える。


武田信正たけだ のぶまさ

駿河武田家は今川義元の奉行衆(実務官僚)として、1540年代から1550年代(天文年間)にかけて、今川義元の命令を伝える「添状そえじょう」や、寺社・領民への安堵状(権利を認める書類)に彼の署名が多く見られる。


瀬名氏貞が天文7年3月16日(1538年4月25日)に没していることから武田信正の室とは考え難く、信正の母と考えています。


小説では、武田信正の母を瀬名 氏貞の娘を戸部政直に年増の妻として嫁がせたとしております。


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