第二話 信長『トラ、トラ、トラ、我、奇襲に成功せり』
〔天文二十一年 (一五五二年)五月下旬〕
その日の夜。
笠寺砦の米を保管する郷蔵で火事が起り、山口-教継は笠寺砦に駆け付けて消火をはじめると、桜中村、星崎、鳴海、大高と続けて屋敷や城で不審火が起っていると報告を受けた。
それは何かが始まる予兆を感じただろう。
各城の米蔵を守るように命じると、消火を急いだ。
郷蔵から燃え広がる火の足は速く、それが自然な火事ではない事を物語っていた。
朝方にやっと火を消していた。
うっすらと明るくなる東の空を眺め、かすかに残る白い煙を見上げていると、兵が信長兄ぃの来襲を告げるのだ。
信長兄ぃは島田から常滑街道を駆け下りて、野並から藤川に沿って駆け上がり、相生山付近から南下して鳴海に入った。
信長兄ぃの後ろで馬に乗っている森-可成が声を上げた。
「信長様。最初の村が見えてきました」
「最初の壺に火を付けよ」
「畏まりました」
可成が後ろを走る足軽三百人に「一の壺に火を付けよ」と叫んだ。
腰から笛のような火筒 (ファイヤーピストン)を押して抜くと火種が起こり、腰に巻いている五つの壺の内の一つに火を付けた。そして、壺の留め金を外し、肩から首にぐるりと巻いている縄を引き抜く。
おおよそ一間 (1.8メートル)の端を持って、壺を器用に回し出す。みっちりと密集していた隊列が長く縦に延び、互いの壺がぶつからないように、ジグザグに間隔を広げた。
走りながら投石を当てるのは難しいのだが、馬を走らせて矢を射る『流鏑馬』に似た競技『流れ投石』を子供らに流行し、黒鍬衆の必修科目としている。
土木作業員の娯楽の一つだ。
走りながら三つの的に当てると褒美が貰える。または、二人でどちらが外すかを競うのも流行っている。
元々、土木作業員だった足軽らは走りながら壺を回すのは苦ではなかった。
信長兄ぃが叫ぶ。
「鳴海村、東の田畑を狙う。村人と戦う気はないが、乱戦になった時は同士討ちに気を付けろ」
「信長様。合い言葉は!」
「トラ、トラ、トラだ」
可成が兵に合い言葉を伝えた。
伝え終わると、信長兄ぃと馬を併走した。
「トラ、トラ、トラとは変わった合い言葉でございますな」
「魯坊丸が言っておった。奇襲が成功する不思議な合い言葉だそうだ」
「気持ちよい響きですので成功するでしょう」
「あちこちの城や屋敷で放火して、注意を逸らすとは念入りな事だ」
「まだ日も上がっておりません。薄暗いので成功間違いこざいません」
「であるな」
細い街道から広い街道に出ると、鳴海村が見えてきた。
村の見張りが信長兄ぃを見つけた。
そりゃ、火の付いた壺をグルグルと回していれば、見つかるだろう。
だが、その意味も判らず、村人らは異様な火の隊列を見据えた。
「放て!」
信長兄ぃの声で油の入った小壺が天空を舞って田畑に落ちると火が立ち上がり、異様な早さで一面に広がった。
真に火の海と化した。
「三左、この広がり方は異常ではないか?」
「ちぃ、魯坊丸め。何か仕掛けをしおったな」
「魯坊丸様の仕業ですか?」
「悪童しかおらん」
「なるほど……このような策を考えるご仁なのですか」
「よし、ここまでだ。次の村に行くぞ」
村に押し入ってくると身構える村人を無視して、信長兄ぃは反転した。
先に戻ってきた楓が俺にそう報告する。
「信長様は次の村を襲った後に、扇川を越えて、第三の村を襲いに向いました。その後、大高方面の村々を放火していると思われます」
「約束通り、村は襲わなかったのだな」
「はい。今回は陸田のみです」
「寺の荘園には手を出しておらんな」
「大丈夫でした」
たった三日で今川方となった笠寺、鳴海、大高、沓掛の領民に織田領へに移住を薦めた。そして、信長兄ぃが本格的に山口攻めを開始するという噂を広めた。
那古野で足軽四百人ほど召し抱えたが、そんなわずかな補強で山口と全面的に戦えるとは考えていないだろう。
実際に戦う気もない。
狙いは敵に米蔵であり、今回の奇襲で山口家が保管する米蔵のいくつかが焼失した。
元々、銭欲しさに米を売り払っていたので在庫がかなり減ったと思う。
信長兄ぃの放火は青田刈りであり、秋の実りを減らす兵糧攻めである事を知らせた。
田畑を守ろうと兵を分散させれば、各個撃破で兵を減らす。
適地に侵入した信長兄ぃを包囲しようと動くだろうが、その情報を齎す今川の伊賀者を加藤-三郎左衛門が率いる愚連隊が刈り取っている真っ最中だ。
今回の奇襲でどれだけの今川方の伊賀者を狩れるか?
それが今後を決める。
敵の伊賀者がこちらの想定より多く、さらに手強い場合は考え直す必要が出ている。
奇襲とは情報戦がすべてであり、情報を制した者が奇襲を制する。
少数で多数を駆逐するには工夫がいる。
幸い、今川方は今川-義元が派遣した武将が指揮権を持っているが、実際に兵を動かすのは山口-教継という二重構造になっており、複雑な命令ができない。
今川方の伊賀者を潰せば、やりたい放題になるだろう。
駿河に報告して指示を仰ぐ。
おおよそ二十日で田畑の三分の一を焼失させる。
米蔵は常に放火を狙う。
「楓、どんな些細な情報でも報告しろ。ここから十日が正念場になるぞ」
「蟻が這い出る隙もない情報をお届けします」
「任せた」
「任されました」
楓が悪戯っぽく笑っていた。
信長兄ぃは先頭に立って危険を一身に集めているけど、こっちの方が圧倒的に忙しいんだよね。
もちろん、信長兄ぃの動きで清須とかの西尾張を警戒するさくら、駿河・遠江の動きを探る紅葉も忙しくしていた。