2.信長、寺を放火す
天文二十一年三月四日。
夜も明けぬ早朝、いつもより騒がしい音で目を覚ました。
まだ誰も起こしに来ていない。
少し早いが布団から出ると、すっとさくらが部屋に入ってきた。
「若様。おはようございます」
「今日の寝ずはさくらだったか」
「はい。その通りでございます。最近、寝ずの番から遠のいておりましたので、若様の寝顔を十分に堪能させて頂きました」
「一言多い」
「すみません。感動の余り、心の声まで漏れてしまいました」
はぁ、俺は溜息を吐いた。
喋らなければ美人さんなのだが、さくらが口を開く度に残念に思う。
「朝から随分と騒がしいな」
「昨日の晩から若様へ訪問が後を絶ちません。千代女様が対応され、本館の大広間で待機させております」
「すぐに行った方がよいか」
「いいえ。朝から来る者が増えております。昼頃まで待たせて、一度で終わらせれば良いと千代女様が申しておりました」
「では、千代に従おう」
千代とは、望月-千代女のことである。
近江甲賀の里、望月-出雲守の息女であり、俺の護衛侍女として雇った。しかし、望月家は近江守護である六角家の重臣であり、甲賀五十三家の筆頭である。朝廷に護衛を輩出する家柄であり、朝廷との繋がりも深い。
少なくとも織田弾正忠家より家格が高い。
俺が成人した暁には、正室候補として特別な待遇で受け入れられた。
その振る舞いはキリっとしており、顔のパーツが見事に揃い、頭脳明晰、言葉遣いも控えめで“大和撫子”という言葉がぴったりな美少女であった。
特に走ると髪が風になびいて美しい。
但し、人間に欠点は付き物である。
千代女は極度の戦闘狂であり、誰彼なく戦いを挑む狂犬“望月の鬼姫”の異名を持ち、同年代の甲賀忍び衆見習いを寄せ付けない強さを持っていた。
護衛侍女として雇われた千代女であったが、侍女長の転属で千代女が侍女長に就任していた。
そこで千代女の才能が開花した。
柔軟な思考を持ち、物理、化学、薬学、先進の技術など奇抜な俺の知識を享受できた。
下手をすると俺より詳しくなってしまった。
畿内、西国、関東まで交易の手を広げたので、侍女に収まらず専属秘書に格上げした。
専属秘書の正式名称は、奉公方“目付頭目”である。
目付は監察官のことであり、俺に仕える者のすべてを監視・指導する役職である。
俺の多彩な仕事を助け、尾張甲賀衆と伊賀衆を率いる目付としても有能さを発揮している。
さくら、楓、紅葉は、今の千代女を『水を得た魚』と称する。
なお、正式な呼び名は“ちよじょ”であるが、皆は“ちよめ”と呼んでいる。
常識に疎い俺の判断より、千代女の判断を信じる。
「千代女様は忙しいので早朝の訓練はさくらが取り仕切ります」
「今日は辞めておこう」
「いいえ、これから厳しい時期を迎えます。鍛錬を怠らないようにと、千代女様に仰せ遣っております」
さくらは千代女の命令に忠実だ。
明るくハキハキして憎めないさくらだが、手加減とか、細かいことが苦手だ。
しかもドジっ子属性を持つ。
さくらの短刀が“手が滑りました”とか言って刺され兼ねない。
さくらとの鍛錬は遠慮した。
が…………さくらは強引で真っ直ぐな性格だった。
ランニング、体操、木刀の素振りと続き、さくらとの模擬戦だ。
「若様。行きます」
どりゃ、さくらが大声を上げて襲い掛かった。
俺は殺されたくないので必死に受けた。
全身打ち身の酷い目にあった。
朝食を食べて、朝から仕事だ。
提出された帳簿に目を通す。
昨日の交易船の目録も届いていた。
昼を食べていると、千代女が本館から戻ってきた。
「千代。そろそろ行く方がよいか」
「いいえ、調査に向かわせた者が戻っておりません。家臣一同には若様に頼らず、自らできることを考えて下さいと申しております」
「考えがまとまるまで待て、そういうことか」
「いいえ、考えがまとまるなどありません。煮詰まるまでお待ち下さい」
考えはまとまらないか。
親父は自分の死を偽装し、尾張国を混乱させる策を考えていた。
まず、清須の守護代織田-信友に好機と思われて、和議を破らせたかった。
親父は奉行であり、上司の信友は守護代である。
奉行が和睦を破って守護代を攻めてのでは世間体が悪い。
そこで親父は画策した。
まず那古野の信長兄ぃと末森の信克兄上の仲が悪くした。
頭を二つすれば、仲も悪くなる。
うつけ者と噂される信長兄ぃは、家臣団の評判も悪い。
津島・熱田は信長兄ぃ派、家臣団は信勝派と、織田弾正忠家を二つに割った。
分裂した織田弾正忠家なら勝てると守護代が勘違いする。
守護代に和睦を破らせる。
織田弾正忠家は、身の危険を感じて仕方なく諸語代の織田大和守家を滅ぼした。
そういうストーリーを描いた。
そんな舞台を描いている途中で親父が本当に退場してしまった。
織田弾正忠家は二つに割れて混乱している。
中根家の家臣らも、うつけの信長兄ぃか、若輩の信勝か、どちらに付くべきかと悩んでいる。
俺は家臣団をどう説得するか悩んでいた。
夕刻になっても千代女は呼びに来ない。
夕食を終え、夜の仕事を熟す内に千代女が戻ってきた。
千代女が「準備が整いました」と言う。
養父は昨日から末森に行った儘であり、留守は俺に任されていた。
「どういう結論になったのだ」
「信長様に従うべきという者。信勝様に肩入れすべきという者。ごく少数ですが、信光様の繋ぎを頼むべきという者。そして、大多数が魯坊丸様に家督を継がせようという結論に分かれました」
「どうして俺だ」
「元服をすぐに執り行えば、信長様や信勝様を実力で従わせることができると考えたようです」
「できると本気で思っているのか」
「私もその意見に賛成です。ほとんど問題はありません。信光様も喜んで後ろ盾になってくれるでしょう」
「あぁ、信光叔父上か」
信光叔父上は、俺が家督を継げばどんな差配をするかを見たがっていた。
七歳というだけで侮る武将らが、今川義元の誘惑に乗せられて反乱を起こし、俺はその後始末に翻弄させられる。
それを見事に裁く様を見たがっていた。
内と外に敵を作る。
俺はそんな面倒なことはやりたくない。
うつけ者の信長兄ぃでも同じ事が起きるが、俺よりマシだろう。
史実に沿っているので予想できる。
少なくとも俺が家督を継ぐ未来よりは対処し易い。
「やらんぞ」
「承知しております。しかし、中根家の家臣は若様を盲目的に信仰しておる者が少なくありません」
「教祖様ね」
「はい、その魯坊丸様は教祖様です」
教祖様のいうことは絶対。
浄土真宗では、『阿弥陀仏』と唱えて戦えば天国に行けるとか。
死を恐れない狂信者が畿内で暴れた時期もあった。
熱田では、俺を熱田明神の生まれ代わりと信じている者が多いから絶大な力を持っている。
七歳でも神様の言うことは絶対だ。
神様、万歳。
千代女に教祖様と言われて、俺は皆を説得する言葉が決まった。
誘導が巧いな。
大広間に入ると、俺に視線が集まった。
俺は中央をドンドンと床を鳴らして前に進み、奥の一段高くなった畳に腰掛けた。
「皆の者、大義である」
家臣らは一同に頭を下げる。
下げ終わると、狂信者らが俺に立ち上がって『檄』を発して欲しいと希望した。
大広間は彼らの熱気で渦巻く。
若い家臣ほど熱狂しており、俺が家督を継ぎ、尾張を治めれば、すべて良くなると疑わない。
そんな良策があるのか?
内心でそう思いながら、俺はあぐらを掻き、右膝に右肘を乗せて、右手の顎を乗せる前傾姿勢であり、無表情を崩さない。
あらゆる俺への賛美を聞き終わると、俺はそっと左腕を前にして手の平を広げた。
「皆の者。黙れ!」
「皆の者。黙れ!」
「皆の者。黙れ!」
「魯坊丸様のお話を聞け」
俺の後ろで侍女達が大きな声を上げて家臣の声を制止した。
無表情からにやりと不遜な笑みを零す。
そして、代表格の下級家臣を睨んだ。
「話は判った。其方の大義をありがたく思う」
「魯坊丸様」
「だが、俺がこの事態を予想しなかったと思うか。父上が天寿をまっとうされて旅立つのを知らなかったと思うか」
「そんなことはございません」
「俺を信じよ。長子による家督相続は世のならわしである。天下太平を望むならば、邪道は好かぬ。よいか。神々の法に従え」
「神々の法でございますか」
「安心しろ。お前らは俺を信じればよい。俺に従え。それだけでよい」
千代女が大きな声で「すべて、魯坊丸様に従います」と発した。
すると、他の側近、侍女らも声を揃えて復唱した。
その声は家臣らにも広がり、大合唱となった。
そして、沈黙。
「皆の者。今日は大義であった。何があってもよいように準備のみは怠らずにしろ。以上だ」
俺は立ち上がって大広間を後にした。
俺が部屋から出ると、大広間から喝采が起きた。
信長兄ぃに付く。
その一言のみ。
それしか指示を出していないのにね。
本館から奥館へ続く渡り廊下の脇下、楓が地面に膝を付けて控えていた。
「若様。信長様が大殿の回復祈願に失敗した寺を放火したと報告が入りました」
はぁ?
親父の回復を僧侶に依頼しており、僧侶は信長兄ぃに「必ず、回復させてみせます」と誓っていたそうだ。しかし、親父は死んだ。
怒った信長兄ぃは寺に火を付け、「其方らの法力で見事に火を消してみよ」と言ったそうだ。
な、なにをやっているんですか。
今、信長兄ぃに付くって言い切ったばかりなのに、馬鹿なことは止めてくれ。
本当に大丈夫か。




