1.織田信秀が死んだ日
天文二十一年三月三日。
この日、尾張の覇者である織田-信秀、俺の親父が死んだ。
俺は悲しくはなかった。
戦国大名の親子関係は希薄だ。
生まれると乳母を与えられ、父親とも母親とも一日一回の挨拶程度しか顔を合わさない。
俺の母親は愛妾であった。
城に住む正室とは違う。また、運が良ければ、城に暮らせる側室でもない。
愛妾以下は主人が通う別邸や実家に住む。
俺の母に至っては、養父の中根-忠良に下げ渡された。
この『下げ渡し』とは、主の側室や愛妾を与える行為であり、主から絶大な信頼を得ているという名誉な行為である。
主の愛妾である母上は養父より強い発現力を持った。
俺にも乳母が付いたが乳を飲むのみの関係であり、乳離れした時点で外された。
普通、乳母が幼い若様の教育係となり、物心が付く頃には侍女長になることが多い。
下手をすると、子供は母上より乳母を慕う。
乳母は主に仕える家臣の妻がなり、子供は家をよくする教育が行われる。
何故、母親では駄目なのか。
母親は政略結婚でくる者が多く、嫁いできた実家の繁栄を優先する。
そんな子供に育って欲しくないからだ。
中根家では、俺の教育は母上が取り仕切る。
その家に都合のよい乳母ではなく、織田家に尽くす子供を育てる名目があった。
ただ、俺は普通の子供ではなかったし、母上も自分の趣味を押し付けた。
熱田神宮の舞い姫を目指していた母上は神官の俺に稚児舞のレッスンを付け加えた。
舞の基礎と言って、雅楽を叩き込んだ。
実に迷惑な話だ。
さて、親父が死んだ日は、午前に熱田神宮の神事があり、午後から宝物庫で書籍の整理という名の読書を楽しんでいた。
宝物庫には窓がなく、風を取り入れる隙間の灯りのみで薄暗い。
俺は隣の窓のある部屋で持ち出した本を読んでいた。
「若様。若様。見て下さい。これは若様が捜されたいた宋書ではないでしょうか」
「紅葉、見せてくれ」
「はい、すぐにお持ちします」
宝物庫を整理していた紅葉が宋書らしき本を持って出てきた。
表紙に貼られていた題目を示す紙が剥がれ、何の本が判らない状態だった。
俺の仕事はそんな題目を書き直し、書物の状況が悪いならば写本し、虫食いだらけにならないように影干しすることだ。
但し、俺の侍女が指示を出して部下にやらせている。
俺は本の確認と言って読書を楽しみながら部下の問いに答えるのが仕事だ。
本を読むのが仕事とは、実に素晴らしい。
紅葉は小柄な女ノ子である。
控えめというか、おどおどする小動物にような生き物であり、トレードマークがおかっぱ頭の侍女長である。
毒に精通した望月忍びの家系である。
毒に精通するということが、漢方薬などの薬にも詳しく、知識も豊富であった。
宝物庫の確認で紅葉がいるとはかどった。
俺は紅葉から本を受け取ると確認する。
宋朝体で書かれた文字は、この時代の文字とも微妙に違い読むのが難しい。
俺はじっと見つめて確認した。
うん、間違いない。捜していた宋書だ。
「紅葉、ありがとう。助かった。これで新しい産業がいくつか始められる」
「…………」
「紅葉」
「…………」
「紅葉、どうかしたか?」
「いいえ、どうもしません」
俺の声に紅葉が反応せず、何度か声を掛けると、“はっとした”表情でやっと返事を返した。
頬も少し赤い。
仕事を与え過ぎて疲れているのだろうか。
「疲れているなら、もう今日は終わろうか」
「いえ、疲れておりません。ただ、若様に見とれていただけです」
「俺に?」
「はじめて中根家にお仕えした頃、若様と一緒に廊下の墨で読書をしたいたな~っと思い出していました」
「そうだった。訓練が嫌で抜け出して廊下に墨で隠れていたな」
「幼い若様は可愛らしい稚児でございました。中身は大人顔負けの知識を有し、稚児などと言えませんが」
「確かに。生意気な子供だったな」
「今は、ふっくらとした頬が引き締まり、奥方様に似た光源氏が本から飛び出してきたと思えるほどお美しくなられました。ここから成長して男っぽくなるのが惜しいと思える美少女でございます」
「美少女と呼ばれて嬉しくないぞ」
「凜々しい千代女様と麗しい若様が並ぶと、絵に残したくなるほど美しく……もう溜まりません」
紅葉が一人語りを始めてしまった。
宝塚歌劇『ベルバラ』を見た後の女性陣の反応になり、感動した言葉だけが溢れている。
俺は母親似で顔も体もへなっとしており、いくら鍛えても筋肉が付かない。
だが、そんな俺の顔を紅葉が気に入っているようだ。
光源氏とか、言われてもな。
「紅葉。いくら愛を語っても若様に届いていないぞ」
「えっ、楓ちゃん」
「紅葉~、もっと熱烈に愛を語らないと若様に届かないぞ」
「愛なんて語っていません」
「そう、私にはそう見えたけどね」
あわわわ、紅葉が真っ赤になって小さくなった。
紅葉の後ろからにょきっと現れて、見下ろしているのは楓である。
楓は長身でないがすらっとした体型であり、顔も整っている。
きりっとすれば、十人並の上位に付ける美形……スタイリッシュな男装女子だ。
いつもやる気のない怠け者だが、天才肌の切れ者だ。
何をやられても無難に熟す。
「紅葉をからかうな。で、どうした?」
「熱田湊で琉球交易船の全船の無事を確認してきました」
「それはよかった」
「荷物の目録は後で提出するとの事ですが、若様が求めていた種がいくつか手に入ったようです」
「それは楽しみだ」
「他にも硝石が少々ですが手に入ったようです」
「それは助かる」
去年の夏に信長兄ぃがアイスクリームを披露したので、信光叔父上、信実叔父上に頼まれて硝石を融通した。つまり、中根、熱田神宮の迎賓館、末森、那古野、守山、勝幡の六箇所に硝石を使った氷を使った料理が伝わった。
他の者は信長兄ぃに頼んでいるが、黒幕の俺に辿り着かず、『門外不出』で断られている。
他にも津島が使っているが、津島商人が自分で硝石を融通している。
「最初は問題なかったが、鉄砲方が『硝石が足りん』と言っている」
「火薬球ですね」
「花火の開発で硝石が大量にいる」
「千代女様は武器使用を優先するように言っておりますが……」
「説得した。原理は同じ、火薬の配合が違うだけだ。開発は並行する。但し、量産は火薬球を優先し、花火玉が後回しだ」
「若様は納得したので」
「まさか。硝石が大量に手に入ったら交渉をやり直す」
「では、商人らに発破をかけておきましょう」
「頼む」
俺が楓にそう言った瞬間、さくらが扉を壊すような勢いで飛び込んできた。
さくらは儚い桜が持つ可憐な美しさとは無縁の女性だ。
黙って大人しく座っていれば、美しい桜の冠を付けられるが、どんな苦難も寄せ付けない強運を持ち、ドジっ子なのに愛嬌があって憎めない。
また、どうでも良い事で飛び込んできても驚かない自信があった。
「さくら、扉を壊す気か」
「すみません。ですが、急ぎの知らせです」
「何があった」
「大殿がお亡くなりになりました」
「遂に来たか」
「一同が今後の確認をしたいので城にお戻り下さい」
「判った」
俺は大宮司の千秋季忠に伝言のみを残し、中根南城に戻った。
親父は秋の終り頃に脳卒中で倒れた。
史実がどうであったかは知らない。
俺は親父が長生きするように名医を付け、健康管理を細々と行った。
酒の飲み過ぎ、糖尿病などにも気を使った。
末森の台所に人を送って栄養管理を徹底した。
しかし、その努力をあざ笑うかのように、親父は突然に倒れた。
それ以降、改善の兆しもなかった。
城に戻った俺は、事前に用意した予定通りの指示を出すと暇になった。
後は周辺の報告を待つのみ。
製造過程のグライダー工房がある内輪で向かった。
しばらくすると養父も親父の死を聞いたらしく、慌ててやってきた。
末森から俺を呼ぶ使者が来ないと……。
元服していないので当然だろう。
でも、何故か俺は養父に怒られた。
不条理だ。




