第一章 キーランドと薬術院の君6
キールは、わずかに首をかしげた。意外な質問だったのかもしれない。
「とてもいい気分ですよ。悩み、苦しみ、そう簡単には覆せない理不尽の中を耐えている人々を、自分の手で慰め、励ますことができるというのは。これは男女の区別なく、理解していただける感情かと思いますが」
リシュが、じろりとキールを睨む。
「……きれいごとだ。もっと、汚らしいものを見たり、嫌気がさすことだってあるだろう」
「ございますね。だからこそ、私に務められるうちは務め続けたい役割です。……少なくとも、肩書を頼りに、寄る辺ない者を裁くような生活よりも、ずっといい」
キールの笑顔には、嘘がなかった。
おかげで救われる、私も。
「……決まってるんだな、覚悟が」
「そのつもりです。さ、次は私の問いにお答えください。あなたが目指していた場所は……」
リシュが、ぱっとソファから立ち上がった。
私のほうへ駆け寄って来る。
「リシュ殿?」
「今答えるなんて言ってないだろ! じゃあな!」
「きゃあっ?」
リシュは入れたばかりの紅茶(激熱)を無理に飲み干し、事務室を出て行った。
「……行っちゃった」
「ご機嫌を損ねましたでしょうか。悪いことを考えているようには見えませんが、一応と思いまして」
「ん、分かってるよ。それより、今日のお客さん、どうだった?」
さっきと同じ質問をキールにしたのは、今度は別の意味を含んでいるからだったりする。
キールもそれを理解していて、質問の意図を汲んでくれる。
「今回も、感覚的なものですが。一時的な快楽では解決しない、陰を感じました。私生活で、苦しんでおられるのかもしれません」
「そっかー……じゃ、調べてみよう。トリスタンは自室にいるよね?」
「ええ。今日はトリスタンの予約は一人なので、余裕があるでしょう」
「うん。それでさ、出動することになったらなんだけど」
「はい?」
「リシュも連れて行かない?」
手渡したコーヒーのマグを、キールは受け取りながら、目をぱちくりとさせた。
「……なぜです?」
「さっきの、リシュの質問聞いてから。なんだか、そのほうがいい気がしていて」
「それも感覚的なものですか? ルリエルの」
「そう。だめかなー」
「なにをにやけているんです」
キールはコーヒーを一口飲んでから、ふうと息をついて答えた。
「だめではありません。西大陸最強の魔道士の感覚ですからね。信じましょう」
■■■
三日後、お昼の少し前。
かのマリューシー・トロアから、また書筒便で予約が入った。やっぱり、キールを指名している。
事務室には、ちょうどキールとリシュがいた。
「キール、急だけど今夜の予約だね。これが済んだら、……出かけようか」
「ええ、そうですね。リシュ殿」
「……なんだよ」
リシュはあれから、かいがいしくトリスタンを手伝って、庭仕事や館内の装飾に奔走してくれている。
この一日二日、トリスタンはハルピュイアを空ける時間も多かったけど、基本的な仕事はもうリシュは飲み込みよく覚えてしまったらしい。
「リシュも一緒に出てほしいんだ、私とキールと」
「え? でも、キーランドが今夜の仕事を終えた後って、真夜中じゃないのか?」
「そ。今日は、ダンテもカルスもトリスタンも、とんでもなく長時間拘束されるような予約もないし、私たちがいなくてもお店は大丈夫そうだから」
「……そういえば、おれ、そのカルスってやつ、あれから三日も経つのにいまだに顔見てないんだよな……」
そう言いながら、リシュは、壁にかけてある今夜のシフト表を見やった。
「なんだか今日、昨日までに比べてやけに予約に余裕があると思ったんだよな。……もしかして、その夜出かける用事のために、セーブしてたのか?」
キールが目を見張った。私も、おお、と小さい感嘆が口から漏れる。
「リシュ、いい勘してるー」
「持ち上げるなよ。……でも、なにか、意味ありげだな。分かった。用意しておく」
■
マリューシーは、時間通りにやってきた。
この日はミモザのような明るい黄色の花に囲まれて、二時間ほど、キールが十二分にマリューシーを満足させてくれた。
本当いうと、キールには、二時間というのは女性を身も心も満足させるには少々短いらしい。けれど、レディやマダムがそうそう長時間家を抜け出すのは難しいので、だいたい二時間から三時間くらいのコースが一番注文が多いのだ。
私が暮らしていた日本の家とは違って、ザンヴァルザンの一定以上の階級の人々は、家族であっても夜はばらばらに過ごす。だから夜のほうが、お忍びで通うところへは向かいやすい。
むしろ、昼間のほうが屋敷や宮中に人目が多く、女性がいなくなればひどく目立ってしまうという話を聞いた。
「マリューシー様、お帰りになられました、ルリエル」
「おっけー! じゃあ、行こうか、リシュ」
「……ああ。ていうか、行先もなにもいまだに聞いてないんだけど」
「行先は、行けば分かるよ! ほら上着着て、庭に出て!」
ダンテとカルスはそれぞれ二階と三階の部屋で「仕事」中で、裏方はトリスタンが回してくれる。
彼らに館を任せて、私たち三人は庭の真ん中に出た。私は緋色の、キールは群青色のローブを着ている。
一方、カーキ色のマントを着けさせたリシュは、軽く頭を抱えていた。
「うわ……女の声が聞こえてくる。今日も、ほとんど叫び声じゃないか」
「ふっふっふ。まあ毎回こんなんじゃないけど、うちの男子のワザは、半端ないからね。分かんないけど」
その私の発言を、なにか、リシュが聞きとがめたようだった。
とはいえあまり時間をかけてもいられないので、早速、魔法の準備に入る。
「飛べ、――」
「え? 魔素を集めてるのか? 今? なにか魔法を……」
そう訊いてくるリシュをよそに。
「――火竜よッ!」
私の肩甲骨のあたりから、一対の、赤く燃える翼が現れた。
「う、うわああああっ!?」
「よしっ! キール、リシュ、つかまって!」
キールが、柔らかく、けれど確かに、私の腰を強く抱いた。
まだ驚いているリシュは、私が彼の両脇を後ろから抱えて、そのまま地面を蹴って飛び立つ。
「うわっ、うわっうわああああっ! た、高い!」
あっという間に、十メートルくらい上空までは到達した。でも、これ以上高度を上げると、魔素のコントロールがしにくくなってスピードが落ちるので、ここら辺が限度だった。
「いっきまーす!」
私の翼が羽ばたき、一気に加速する。南東へ向かって。
ハルピュイアに灯された明かりは、すぐに小さくなって後方へ消えた。
マリューシーさんが乗っていると思しき眼下の馬車も、あっという間に追い越してしまう。
「お、落ちる落ちる落ちるっ!」
「落ちないもんね! これは、炎の翼の羽ばたきで飛んでるわけじゃないんだから。翼の表面積全体から、下方に、錬成した魔素を放出して――」
「別に解説は頼んでないっ! なんで!? なんで飛んでるんだ!?」
「あの、マリューシーさんより早く、彼女の家に着かないといけないからね! 飛ばすわよっ!」
「うわあああああ!」
その後数分間、叫んだ後。さすがに慣れてきたのか、疲れてきたのか、ようやくリシュが静かになった。
「なんでもありなんだな……『七つの封印』つて……」
「なんでもってことは全然ないわよ。できることが増える度に、できないことの多さに、何度も打ちのめされそうになるし。この飛行魔法も、めっちゃくちゃ疲れるから、普段は馬車で移動してるもん」
空を飛んでいるのは優雅そうでいいと、カルスに特によく言われるけど、私のこれは攻撃魔道の応用みたいなもので力技なので、燃費が悪くて仕方がない。
「それでも、こんなに強力な魔道士なら、……羨ましいよ。いや、ルリエルだって、とんでもない努力をしてここまでになったんだろうけど」
したなあ。文字通り、死ぬほどの努力。
「下世話なこと言うようだけど、ルリエルはその、女性としても、肉体的に充実してるわけだろ? ……つまり、ああいうところの主人なわけだし」
「へ?」
夜の闇の中を、風を切って飛ぶのは好きだった。
車で、窓を開けてドライブするとこんな感じなのかもしれないな。バイクのほうが近いかも。
……などと考えかけていたのが、リシュの言葉で中断される。
「へって」
「どゆこと?」
「どういうって、……そういえば、さっきの、ハルピュイアの男子の技術が半端ないけどそれは分からないって、それこそどういうことだよ」
「え、だって、分かんないわよ。なにをどんな風にしてるのかなんて。仕事中のところを、見てるわけじゃないし」
口をとがらせる私に、リシュが首をかしげながら、
「いや、だって、この男娼館の主ってことは、ルリエルは男子全員と、その、試してるんだろ? どんな風なのか」
試す。
言葉の意味に、ようやく理解が追いついて、私は、激しい赤面を自覚した。
「は、はあ!? そんなの、試してるわけないでしょ!? わ、私と、みんなが、その、そんなこと、するわけないでしょうが!!」
「ええ!? だ、だって、それじゃあどうやって仕事任せてるんだよ!?」