第一章 キーランドと薬術院の君3
キールが、微笑んで応えた。
「その通りです。女性に、身体的に満足していただくのが、私の仕事です」
「あんた、なんでそんな仕事……いや、そんなって言って悪いけど。普通に、騎士団に入ればいいじゃないか。腕が立つだけでなく、立ち居振る舞いだって、その優美さ……なんらかの訓練を受けてきたはずだ。それがどうして……」
私は、コーヒーカップを傾けて、苦い液体を飲み下した。
リシュの言いたいことは分かる。
この大陸でも、性を売り物にする仕事は存在する。相当数。それは地球と変わらない。
けれど、たとえば日本と大きく違うのは、体を売る仕事をしている人が、極端に地位を低く見られるところだった。
日本でだって、そういう仕事に就いている人はそれぞれに偏見を受けがちだし、決して褒められたものじゃないという見方をされるのは、私だって知っている。ところが、ベルリでは、奴隷や野良犬と大差ない扱いを受けるのだ。それが最近まで問題視されることなく、公然と差別されてきた。
それが差別だと認識されることさえ、長い間なかったんだと思う。最近になって多少、同情や励ましの声が届くようになったらしいけれど、過渡期というにはまだまだ大勢の価値観は変わっていない。
リシュが、騎士として高い水準にあることが明らかなキールの現状に、強い疑問を持つのはもっともだった。国内で最大限に尊敬と賛辞を受けられる騎士団にいられるはずの人材が、最も見下される立場に甘んじているということなのだから。
キールは、リシュの前で背筋を伸ばす。礼儀正しさが、キールの場合は威圧感を生まない。これは彼が受けてきた訓練の成果というより、彼の人格からくるものだと、私は勝手に思っている。
「リシュ様。あなたがこれからどのくらいの期間、ハルピュイアにおられるかは分かりません。ですが、今もこの先も知っておいていただきたいのは、私はこの仕事に心から望んで就いていますし、もともと、ルリエルにこの商売を始めるきっかけをもたらしたのは、私だということです」
「え?」
リシュが私のほうを向いた。
「んー、まあ、そうね。その通り。嘘じゃないよ。あ、このビスケットおいしい。シナモン入ってる?」
「ええ。最近は、香辛料やハーブを練り込むのに凝り出しました」
嬉しそうに答えるキールに、リシュが「手作りなのかよ……」と小声で突っ込んだ。
そこへ、事務室のドアを開けて、やや低い声が割り込んでくる。
「キールの野郎の菓子は、そこらの店より上等だからな。そこのボク、ありがたく味わえよ」
入ってきたのは、ダンテだった。ダンテ・マーラー。キールと同じく、このハルピュイアのスタッフをしている男子だ。
男子というのは男娼館のキャストを務める男性の呼び方で、実年齢がいくつだろうとみんな男子と呼ばれる。
ダンテはキールより一つ年上の二十三歳で、青みがかった黒髪をオールバックにしている。それが癖で少し跳ねているので、まるでライオンみたいだ。
ダンテの身長は百八十八センチくらい。キールよりも筋肉質であちこち盛り上がっている体を強調するように、いつも薄手のシャツを着ている。今日も、白いシャツをまくった袖口は、浅黒い肌に押され、ぱんぱんに張って窮屈そうだった。
「おやボク、コーヒーも手をつけてないのか。苦いのは苦手かな?」
「ばかにするな。コーヒーくらい飲める」
ダンテが軽く目を見開いた。
「えっ……飲めるのか」
「……なんだよ、きょとんとして。飲めたら悪いのか」
私は、小声でリシュに告げた。
「実はダンテってコーヒーだめで、紅茶党なのよね。仲間ができたと思って、一瞬喜んだんだと思う」
「苦いのが苦手って、自分のことじゃないか……」
ダンテは事務室の奥のミニキッチンに向かいながら(自分用の紅茶を入れるためだ)、
「ふっ。苦手なものを苦手と言えるのはいいことだ。恥ずかしいことでもなんでもあるまい」
「……紅茶だって苦いし渋いと思うぞ。今は旬からも外れているし」とリシュがぼそりと言ったけれど、
「でも紅茶はいい匂いだろうが! おれ様はいい匂いのものが好きだ!」と返したダンテは構わずにお湯を沸かしに行く。
リシュは「おれ様……」と再び呟いた。
さすがにベルリ大陸にはガスや電気の代わりになるものはないので、熾火をとっておける釜がどの家のキッチンにも据えつけられている。
ダンテは太く長い指で器用に釜から炭を取り出すと、それを炉に敷き、やかんに水がめの水をくんで火にかけた。
「む。薪の残りが心もとないようだ。新しい木片を入れておくか」
「あ、はーい。火はつけておくからいいよ。種火よー」
私が指を鳴らすと、ミニキッチンの釜がぽっと一瞬火を噴いた。
「おお。ありがとうよ。しかし、ルリエルがいるとどうも火起こしを怠けてしまっていかんな」
「いいじゃない、使い減りするわけじゃないんだし」
その様子を見ていたリシュが、またなにか言いたげにしている。
「どうかした、リシュ?」
「『七つの封印』の魔道士が……火口箱みたいなことを……」
「特技って、実生活に使えてなんぼよね」
「特技……。そ、それに、さっきから気になっていたんだけど。ダンテ・マーラー。あなた、確か素手格闘の王者じゃないのか。その顔、髪、……見覚えがあるぞ」
ぴた、と、私、キール、そしてダンテの動きが止まった。
ダンテが、やかんのお湯の温度に見当をつけながら、手元を見て答えてくる。
「よく知ってるな、ボク。確かにそういう時代はあった。しかしその前は別の仕事をしていたし、今はこのハルピュイアで働いている。それだけだ」
「なんなんだよ。騎士みたいなのに、格闘王。経営者は西大陸最強と言われる魔法使い。この宿は、一体なんなんだ」
そのリシュの問いに答えて、また一つ、新しい声が事務室に加わった。
「それは男娼館ですよ、なにかと言われれば。自分めもまた、ここに勤める男子の一人ですしね……」
全員の目が、一斉に部屋の入り口を見る。
そこに立っていたのは、身長は百七十センチに少し足りないくらいで、闇色の髪をストレートに伸ばした、痩せ気味の男子だった。庭師用のエプロンをしている。
前髪が小鼻の上辺りまで伸びているので、こちらからは彼の目が見えない。
髪も黒ければ、服も黒い。私は、彼が黒以外の衣服を身につけているのを見たことがない。今年で十八歳のはずだけど、筋肉があまりついていなくて直線的な体つきをしているので、彼自身がヒト型をした植物のような印象がある。
ポケットがたくさんついたエプロンには、はさみやら鎌やら、いろんな道具が収まっているのだけど、それらの柄もどれも黒かった。
「あ。あんた、さっきの。……庭師じゃないのかよ。え、ていうか、それで前見えてるのか?」
「見えていますとも……。申し遅れました、自分めは、トリスタン・シシーと申します。リシュさん、先ほどのじょうろさばき、慣れておいででいないように見受けましたが、丁寧ないい水やりでした」
「それは……どうも?」
リシュは、私に耳打ちしてきた。
「なあ、トリスタンて、あの前髪は……顔の上のほうに傷でもあるのか?」
「あ、ううんそういうんじゃ全然ないない。ただ、あのほうが落ち着くんだって」
「ええ……よくあれで、娼館の男子なんてやれるな……。おれはてっきり、けがか、あるいは目の形に魂腑冷腐でもあるのかと」
「あはは、違う違う。……リシュが見ることになるかどうかは分からないけど、一応言っとくね。トリスタンの素顔はね……顔が、かなりイイよ」
「なんてことだ……かなりイイのかよ……」
リシュは、こくりと喉を鳴らした。
なかなかいいノリしてるな、この子。