第三章 リシュとザンヴァルザン妃王の君9
ブリーズが、突き出した手をゆるゆると力なく降ろした。
「どうして、ってぇ……? それは、ちょっぴり慣れたというかぁ」
「でも、リシュがうちの男子じゃないってことはすぐに知ったじゃない? ということは、厳密には、リシュ以外のメンバーと会った時が、男娼との初対面だったわけでしょ」
「それはぁ、気分の問題ですよぉ。理由なんてないですぅ」
ブリーズが照れたように笑う。
「ブリーズ。私ね――」
「はいぃ? なんなんですかぁ、ルリエルさんん。こんな時にぃ」
「――私、ヒューリー・ウルフグラフトの顔を知っているの」
ブリーズが動きを止めた。けれど、声色は変わらずに訊いてくる。
「ヒューリー? 誰ですかぁ、それぇ?」
「知っててとぼけてるのか、本当に名前も知らないのか、それは分からないけど。とっちでもいい。答えは変わらないからね、私たちの」
首だけを振り向かせていたブリーズが、体ごと私たちのほうへ向き直った。
キールとダンテが、剣を構える。
私は、一歩後ずさって、ブリーズと距離をとった。そして、告げる。
「ブリーズ。ハルピュイアで長期休暇を取っている二人はね、ただうちを留守にしているわけじゃないの。世界を回って、情報を集めている。特に、六つの悪魔と、七つの封印については。彼らのうちの一人が、以前、私に報告書簡を送ってくれた。カニシュカンドで、国軍とともに悪魔と戦った、七つの封印――ヒューリーという女性のことを。その似顔絵と一緒に。それが――」
「つまりぃ、それが、あたしとぉ」
「――あんたと同じ顔をしている」
ブリーズが、かくんかくんと顎を縦に揺らした。うなずいているというより、ただリズムを取るように。
「ふうんん。じゃあ、とっくに怪しまれてたんだぁ」
「偶然の可能性はあったし、何を企んでるのかも分からないから、手は出せなかったけどね。万が一戦いになれば、私が勝てる見込みは少ないし。でも、そうも言ってられなくなった」
「なんでですかぁ?」
「私がこの塔に来なくなった後、この二ヶ月、ヴェルヴェッチのいる振りを続けていたのはあんたね。どうしてヴェルヴェッチが『霧の塔』から消えたのか、それは分からなかったとしても、ここはあんたには都合がよかった。カニシュカンドでの戦いで、ひどく傷ついたあんたが、その体力を回復するのに。もと悪魔の根城だけあって、強力な魔素に満ちているし、威嚇しておけば人間たちがやってくる心配もない」
「体力を回復ぅ? カニシュカンドで、ヒューリーって人は死んじゃったんでしょぉ?」
「七つの封印でも、悪魔相手で、しかも不意打ちじゃ分が悪いもんね。でも、おそらくは、悪魔のほうも手ひどく痛めつけられた。かなりしっかり準備をしていた国の軍隊に、舐め切って攻め込んだんだろうけど、苦戦したのは計算外だったんじゃないの? そこで、その悪魔は、強力な魔力を持つヒューリーの体に、乗り移った。その時のヒューリーが、生きていたとしても、死体だったとしても」
もう、ブリーズは笑っていない。
「ひどいなぁ。だいたい、人間たちがやってこないって、こうして遠征になったのはあたしの後押しがあったからですよぉ?」
「あんたの、その舌足らずな喋り方は、人間の口を使い慣れてないから? もとの姿は知らないけど、本来は声帯で喋るわけじゃなかったりするのかな? 人間の姿になったからって、わざわざ日常的に人と話すことなんてないだろうから、練習なんてしてこなかったわけでしょ、この一年」
ブリーズが、私のほうへ、一歩進み出た。
同じだけ、私も後ずさる。
「ルリエルさんん、質問に答えてくださいよぉ」
「乗り移る、っていうのが荒唐無稽だ、とは言わないのね。私も半信半疑だったけど、できて当然だから、反論もしないのかな。凄いわね、悪魔って」
「ルリエルさんん」
「答えるわよ。あんたが、遠征を促した理由よね。悪魔が傷を癒すには、まず魔素の多いところに留まること。そして、人間から魔力を奪うこと。この二つを同時に、しかも大規模にやれる状況が作れそうだったからでしょ? 済まなそうな顔して、ぐいぐい推進してくれたわね。こうして、私とキールたちをおびき出して、始末してしまえば、あとの魔法師団じゃ――しかも騎士団がついていない状態じゃ、あんたにはかないっこない。きっと――」
そこでブリーズの目元が、弓なりに曲がって見えた。別に、褒めたつもりはないんだけどな。
「――きっと、王宮づきの魔法師団が、荒野の真ん中までわざわざ栄養タンクとして群れなしてやってきてくれるなんて、傷ついた悪魔には垂涎ものなのよね。国が動きやすいよう、七つの封印である私を加わらせるために、ハルピュイアに魔獣を放ったのもあんたでしょう」
ブリーズの前髪の間から、再びその双眸が覗いた。
やや垂れ気味だったはずの目じりが、今度は凶悪に吊り上がっている。
「傷ついた、傷ついたってぇ……。悪魔がぁ、人間にぃ、そんな簡単に傷つけられるわけぇ……」
「だって、リシュを逃がしたじゃない。余力のある悪魔なら、何手に分かれようが、馬車でコロコロ逃げる人間なんて簡単に捕まえられるでしょ。それができない程度には、悪魔は――あんたは弱っていた。カニシュカンドの軍と、ヒューリーによって。どっちも、優れた人たちだったのね。ひょっとして半死半生だったのかなあ、悪魔さんは」
その場にいた全員に聞こえるように、わざと大きな声で言う。
ぎし、となにかが軋む音が聞こえた。何事かと身構えたら、どうやら、ブリーズの歯ぎしりだった。
「憶測、だけでぇ……ひどいですねぇ……」
「安心して。その通り、どんなに怪しくても憶測であって、まだ確定じゃない。決定打はこれからよ」私は、人差し指でブリーズをまっすぐに指した。人間には決してしないしぐさだ。「魔法を使ってみなさい。あんた、ヴァルジの高官の前では強力な魔道を見せて信用させたんでしょうけど、私の前じゃ、構成が見づらい、ごく小規模な魔法しか使わなかったじゃない。今ここで、ある程度以上の魔力を使った魔法を見せてみて。私は、人間とそれ以外――悪魔が使う魔道を、見誤ったりしない。恐らくは、あんたが警戒していた通りに」
ブリーズが唇を引き結んだ。その、再び緩みかけていた顔から、表情が消える。
決定打だ。
できることなら。
戦わずに済むなら、そのほうがよかったけれど。
今ここで見逃せば、こいつは、いつか万全の状態になって舞い戻ってくる。
私は、元から決めていた覚悟を、努めて、再び強固に心に宿す。
怖くないわけではない。でも、今ここでやらなくてはいけない。
そういう瞬間が、生きていると、時々ある。
今、この時のように。
私は口を開いた。
「そういうわけで――」
私とキールとダンテは、前方に注意を払いながらも、素早く「彼女」と距離を開けた。
警戒のための距離ではなく、戦闘のための間合い。
「――あんたは、ここで倒す。ブリーズ・ブラッサム……、いえ。六つの悪魔の一つ、スノウ・アーチローダー」
■
暗く空いた、四角い入口を背景にして。
スノウのほっそりとした体から、魔力が解放された。魔法使いの私には、それが目に見える。巨大な鳥がオーロラ色の翼を広げたような、圧倒的な存在感。
スノウは、ブリーズとして軍からもらっていた、身を覆う装備品を次々に外していった。といっても、留め金を手で外したのではなく、魔力の操作によって、ベルトや部品を断ち切ったのだろう。革と金属でできた防具が、ぼとぼとと彼女の足元に落ちる。
「確かにぃ、不完全な状態では、あるが――」
周囲の気温が、急激に下がっていく。寒気だとか、気のせいじゃない。
スノウ・アーチローダー。魔道の王。氷雪の悪魔。そんな二つ名が、頭をよぎる。
「――たかだかぁ、人間の二人や三人で、……我にぃ、挑むのか……」
「必死になって人間様の魔力をあてにしていた悪魔のセリフじゃないわね」
魔力にあおられて、スノウの長い金髪や服が、ゆらゆらとはためく。その表面には、霜が降りているように見えた。もしかしたら霜どころか、凍結しかけているのかもしれない。
「トリスタン!」
私が名前を呼ぶと、後方にいた従者の一人が、ぱっとローブを脱いだ。
その下からは、彼を象徴する、闇色の髪と服が現れる。
キールとダンテにはもちろんあらかじめ示し合わせてあったので、その正体に驚きはしない。
「はい……、ルリエル……!」
「マジックポーションを!」
トリスタンは、革袋から二ダースほどの小さな薬瓶を取り出すと、ごとごとと足元に並べた。
「自分めが作れた、これが全部です……! さっきのさっききまで調合していましたが……」
「ほぉう、あれはぁ、お前の子飼いの男娼か……隠れてついてきていたとはなぁ……。それはぁ、魔力の回復薬か……? さほど特別な出来には見えん、お前の魔力量に対しては、焼け石に水だろうに……」
「そーね。あれはうちのかわいい男子が薬草や香草から調合したもので、市販品よりは大分質がいいくらい。私に使っても、戦術上有効なほど魔力は回復しないわ。私には、ね」
実際、薬術院の長にも、とても自主的に全面協力してもらって作り上げたものだけど、あれでは私の全力魔法数発分も回復しない。そんなことは先刻承知だ。
「なにぃ……? ならば、なにを」
「リシュ!」
もう一人の従者もローブを取る。そこには、法衣を着込んだ、銀髪の王子がいた。
スノウが目を細めた。それが笑みなのか、それとも別のものなのかは、判別がつかない。
リシュのほうは、燃え上がるような意志を視線に込めて、悪魔を睨みつけている。




