死霊代筆
――放送終了後のラジオからは、死者の声が聞こえる。
そんな与太話を聞いたのは、いつだっただろうか? その時はたぶん酒を飲んでいて、鼻で笑った記憶がある。どこにでもあるような都市伝説。もう少し気の利いた設定じゃなきゃ、なんて、笑って。
――放送終了後のラジオからは、死者の声が聞こえる。
そんな与太話に縋ったのは、いつだっただろうか? その時もたぶん酒を飲んでいて、灯りは点けていなかった。どこにでもあるような悲劇。もう少し気の利いた設定じゃなきゃ、なんて、泣いて、泣いて。
今日も私は、深夜、ラジオに手を伸ばす。
――クル、シイ
――カナ、シイ
雑音交じりの微かな声がラジオから聞こえる。若い、少女と言って差し支えない年齢の子供の声だ。私は小さくため息を吐く。相手を指定する制度でもあればいいのに。
――クル、シイ
――カナ、シイ
死者たちはいつも、私のことなど構いもせず、自分のことだけを話している。痛み、嘆き、恨みつらみ。饒舌な者もいれば、今日のように拙い言葉を繰り返す者もいる。時には言葉にさえならず、唸り声を上げるだけの者も。淡々と自らの死の状況を語る声には肝が冷えた。彼ら彼女らが何を想ってラジオの向こうから語り掛けているのか、私にはまったく分からない。
――クル、シイ
――カナ、シイ
少女の声は、ぽつり、ぽつりと同じ言葉を繰り返している。私はグラスの琥珀をあおった。彼女の苦しみも悲しさも、私には知る由もない。ただ、こんな子供が命を落とし、天に昇ることもできず彷徨っているのだと思えば、やりきれない。
――クル、シイ
――カナ、シイ
「……君は何に苦しんでる?」
思わず言葉が口を突く。こちらが何を言ったところで死者に届くはずもない。なにやってんだか。苦笑いに口の端を上げた。
――ザザ
――ザザザ
雑音だけが聞こえる。今日の死者の嘆きは終わったのだろうか? これほど短いのは珍しい。たいていの死者は、ラジオの放送が始まるまで延々としゃべっているというのに。何の思いも残していない者は、こうしてラジオから話しかけたりはしないものだ。
――ザザ
――ザザザ
雑音だけが聞こえる。どうやら本当に終わったらしい。経験上、複数の死者が一日に登場することはない。死者には死者のルールがあるのだろうか? 誰がそれを定め、守らせているのか想像もつかないが、どうでもいいと言えばどうでもいいことだ。こちらでどうできるものでもない。私はラジオに手を伸ばす。久しぶりに、今日は朝日が昇る前に眠ることができる。
――クル…シ…
――カナ…シ…
ラジオの電源に触れた手が止まる。先ほどの少女の声が再び聞こえた。終わったわけではなかったのだ。一度途切れる、というパターンは初めてで驚く。私は出した手を引っ込め、代わりにグラスに酒を注いだ。
――クル…シ…マ…ナイ…デ……
――カナ…シ…マ…ナイ…デ……
苦しまないで? 誰かを案じている? これも、ずいぶんと珍しいことだ。今までラジオから聞こえてきた声は、大抵が自分の苦しみで手いっぱいの様子だった。
――クルシマナイデ……
――カナシマナイデ……
徐々に声がはっきりしてくる。虚ろだった言葉に感情と意思が宿る。そして――
――泣かないで
その声を聞いた瞬間、私は初めて、死者と繋がった。
それは不思議な体験だった。頭の中を他人の人生が、その記憶が映画のように流れていく。広瀬ちひろ、十歳。裕福でもなければひどく貧しいわけでもない、ごくごく平均的な家庭のひとり子として生まれた。両親は共働きで、さみしい思いをしなかったと言えば嘘になる。しかし決して両親はちひろを放置していたわけではなく、精一杯の愛情を注いでくれていたことを知っている。忙しい仕事の合間を縫って、両親はしばしばちひろを旅行に連れ出した。旅行はちひろにとって、両親を独占できる幸福な時間だった。
三年前の夏、ちひろは両親に「海に連れて行って」とねだった。新しい水着を買い、眠たい目をこすりながら早朝に家を出る。近場の海水浴場への日帰り旅行。夏休み前、体育の授業でフォームを褒められた、その泳ぎを両親に見てもらうのだ。ちひろ、すごいね。上手だね。ただ、そう言ってほしくて。それだけの、楽しい日になるはずだった。それなのに――離岸流はあっという間にちひろを呑み込み、彼女の身体は海底に沈んだ。
彼女が最期に見た光景――暗い水底に沈み、遠ざかる光――から解放され、私は大きく息を吐く。ここが水底ではなく、息ができるのだということに安堵する。全身から冷たい汗が噴き出していた。死を追体験する、など初めてだった。鼓動がうるさいほどに響き、まだ生きていることを実感する。
少し落ち着きを取り戻し、私は顔を上げる。ラジオがある場所の上に、半透明に透ける少女が浮いていた。血の気のない青白い肌、しかしその身体に損傷はない。おそらく、彼女は自身の遺体を見ていないのだろう。彼女の彼女自身に対するイメージが生前のそれであることは救いだった。
「……ずっと、泣いているの。もう三年経ったのに、ずっと」
ちひろは拳を握り、固く目を閉じる。ぽろぽろと涙がこぼれた。半透明のその涙は床に落ちたが、床には何の痕跡も残さない。死者は現実に対し、何も残すことができない。
「忘れていいよ。忘れてほしいよ。苦しいなら、悲しいなら、忘れてよ。もう、泣かないで――」
かすれ声の嘆願に、私の心臓は鈍く痛む。少しだけ息ができない。無理やりに微笑みを作り、私はちひろに言った。
「忘れないよ。忘れられるはずもない。だって、大切だったんだ。何よりも大切だった」
ちひろは目を開き、私を見る。ならばどうすればいいのか、とその瞳が告げていた。私はちひろの目を見つめ返す。どうすればいいのか――考えるより前に、答えが口を突いた。
「手紙を、書いてみるか?」
「て、がみ……?」
ちひろが戸惑ったように自分の手を見る。半透明に透けた手は、何を掴むことも、何かを記すこともできはしない。
「伝えたいことを言ってごらん。私が代筆してご両親の許へ届けよう。どうかな?」
ちひろの表情が変わる。今まで、どうしても言葉を届けることができなかった。今、その手段を得て、変えることができるかもしれないという希望がその目に灯った。ちひろは幼いその顔に真剣な決意を宿し、私に向かって大きくうなずいた。
日が昇り、私は一通の手紙を持って郵便ポストの前に立った。夜明けと共にちひろは姿を消していた。私に、精一杯の言葉を託して。
言葉は両親に届くだろうか? 悲しみの只中にある二人に、死んだはずの娘から手紙が届いたら、いったいどう思うだろう。悪質ないたずらと怒るだろうか? 二人をますます傷付ける結果にならないだろうか? しかし、それでも――
「これは、本当にあなたの娘の想いなんです」
届くといい。届いて欲しい。そう祈りながら、私は手紙をポストに入れた。ことん、と音がして、手紙はポストの中に吸い込まれていった。
だいすきなパパとママへ。
会えなくなってから、もう三年がたちましたね。
おげんきですかって聞きたいけど、二人がずっと悲しい顔をしていたことを知っています。まいにち泣いていることを、知っています。
でもね、泣かなくていいよ。苦しまなくていいよ。海に行こうって言ったのはちひろだよ。パパもママも、なんにもわるくないよ。
パパとママに連れて行ってもらったのは、あの日の海だけじゃないよ。山にも行ったよ。遊園地にも行った。たくさん、たくさん連れて行ってもらったよ。おぼえてる? キャンプに言ったとき、パパが「夕飯の魚をつってくる」って言って、結局いっぴきもつれなかったんだよ。パパかっこ悪いって、ママと大わらいしたんだよ。
おねがいです。わたしと過ごした時間を、悲しい気持ちで書きかえないでください。最後の、たった一回の悲しい気持ちで、たくさん楽しかった気持ちを消さないでください。うれしいことがたくさんあったんだよ。しあわせってわらったことが、たくさんあったんだよ。どうか、思い出してください。どうか、わすれないで。
世界一しあわせだった、ふたりの娘より。