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ふるかみ  作者: 大石次郎
2/2

灰帽

私と妻は冷えきった関係だった。どこで擦れ違ったのかはもうわからない。思えば最初から憎み合っていたのかもしれない。

互いに幾度も浮気をしていたのを知っていたが、より効果的に相手を傷付ける為に敢えて離婚することはなく、私達は年月を重ねていた。

この不毛な結婚をいつまで続けるのか? 私が鉛の重しのように強い疲労を感じ始めていたある夜、帰宅すると、妻はリビングで見知らぬ男と抱き合っていた。

互いに浮気は自宅までは持ち込まない。そのような不文律があると私は勝手に思い込んでいた。

しかし妻は、上気した艶やかな顔で私を見、


「アッハハハハッ!!!」


仰々しい舞台役者のように嗤って、より強く、私に気付いていない男を抱え込んだ。

気が付くとそれから小一時間が過ぎており、妻と男は顔の原型を止めない程に潰されて死んでいた。

近くには割れた花瓶とガラス灰皿と、血塗れの金槌まで落ちていた。

まるで覚えていないが、金槌と同じく血塗れの私は相当無理をしたらしく、身体中の筋肉が強張り、特に右肩は間接が外れそうで、少し動かしただけで激痛が走った。

素人が2人の人間が死ぬまで殴打するというのは、概ね健康な大人の男であっても大仕事になるらしい。

刑事ドラマのように効率良くはいかなかった。センスが無いのかもしれない。

私は痛む肩を庇いながらシャワーを浴び、肩に湿布を張り、着替え、警察に電話をしようかとも思ったが、警察に事情を話すのを酷く億劫おっくうに感じた。


「逃亡してみるか」


私は現金をあるだけ持ち、上着を着て、下着のみ詰め込んだ旅行鞄を持ち、二度とは帰らぬ自宅を後にした。

特に行く当てが無い私は、そのまま東北のとある駅までたどり着いた所で終電を見逃し、駅前のとっくに最後のバスが出たバス停のベンチに座った。

タクシーならばあった。閑散とした東北の街ではあったが、ホテル等もあるだろう。

だが、何もかも億劫であった。

深夜の駅前にはスケボーをする若者だけがいた。特別な設備はないので練習ではなく、ただ戯れているだけのようだった。

きっと、時間は無限にある、と感じているんだろう。


「・・・」


私はいよいよ何もかも億劫になり、出頭するか自殺でもしようかと思い、まず、まだ痛む肩を少し伸ばそうとした。


「ん?」


右腕を動かすと、何か布のような物に指先が触れた。見れば、それは古びた灰色のソフト帽であった。

誰かの忘れ物に違いないが、さっきまでベンチの上にそんな物があるとまるで気付かなかった。


「仕立てはいい物だ」


普段ならば、他人の被った帽子など好き好んで被ったりすることはまず無いが、今は酔っ払っているも同然だった。

私は灰色の帽子を手に取り、少しおどけた気分で被ってみた。


「っ?!」


一瞬で3つのルールを理解した。


1つ、既に旅は始まっており後戻りはできない。


2つ、いかなる事象もこの旅を妨げることはできない。


3つ、旅費は魂にて支払われる。


私は、この呪われた灰色の帽子の絶対的なルールを了解した。肩の痛みも、全身の疲労感も消えている。


「面白いじゃないか」


私は笑って、ベンチから立ち上がった。



それから7ヶ月余りは概ね楽しい旅だった。私はどこへでもゆくことができた。

必要な金銭、チケット、身分証の類いはいくらでも出せ、私が関わらなければ誰も私に注意を向けず、私が関わっても『旅人』としか認識されることはなかった。

私は全ての言葉を理解し、また話すこともできた。その地の常識等もすぐに把握できた。

疲労することも病むこともなく、何かの拍子に負傷しても私は旅費を支払うことで怪我をたちどころに回復できた。

私は万能の旅行者であった。

そうして、東アジアの山岳地帯に私は来ていた。

この一帯には狼や、よそ者を狙う前時代的な追い剥ぎの類いも出たが、誰も私に関心を持つことはできなかった。

高山病にかかることもなく、私は気の赴くままに、目も眩む谷沿いの細道の先にある村へと歩いていた。

鳥葬の習慣が残っているらしい。それを見にゆく。

歩きに歩いて、2日後にようやく村に着いた。


「こんにちは」


私が村人に挨拶をすると、村人達は微笑んで応えてくれたが、特に言葉を発することは無かった。

世界中、僻地の集落では似た傾向の所が多い印象があった。特に用がなければ会話することは特別重要ではないのだろう。

私は村に一軒だけあった酒場を兼ねた食堂で、干し肉と野菜の漬け物を炒めてクレープのような雑穀の生地で包んだ物と発酵乳の酒で数日ぶりに食事を取り、村を抜け、鳥葬が行われているこのコミュニティの聖地を目指した。

灰色の帽子は、旅の目的地とそこへ至るルートも示してくれる。私は迷うこともなかった。

石を削った神像のある岩場の下方に小さな岩山の山頂が見える所に来た。そこが鳥葬の聖域であった。

神像のある岩場には先客が2人いた。10歳くらいの少年と10代中盤の少年だった。顔立ちが似ているので兄弟と思われる。


「こんにちは」


兄弟は私を振り返り、微笑みはしなかったが、代わりに口を開いた。


「写真は撮らないでくれ、それからここを言い触らさないでくれ。俺達は野蛮人じゃない」


「あれ、お父さん」


鳥が群がる岩山の聖域には比較的新しい遺体もあり、弟の方がその1つを指差した。腐敗と鳥によってズタズタになっていたが、残虐には見えない。

そこに憎しみや執着は介在せず、自然の循環の解体があり、移行の顕現けんげんがあった。


「カメラは持っていないよ。誰にも言い触らさないし、野蛮なんて思わないさ」


少年達の父を啄む鳥は鷲の一種であるようだった。鋭い瞳が光って見えた。


「・・死が、正しく扱われている。私は失敗したな」


「お前は人を殺したのか? お前から、正しい命を感じない」


兄の方が私を見て言った。弟は兄の後ろに素早く隠れた。

私は私が、この世ならざる者となったことを認めざるを得ない。


「お前が、虚しい悪霊になりたくないなら、別の命の助けろ。奪ったなら、返せ」


「それは傲慢じゃないかな?」


辻褄が合わない気がした。


「お前の恥など問題じゃない。死ぬ命を助けろ! 生かされた者達とお前の穢れはなんの関係も無いっ」


「・・少年は手厳しいな」


私は帽子の旅人になって初めて、酷い疲労を感じた。私は2人の認識から外れ、山に吹く聖域の死臭を含んだ冷たい風に紛れ、姿を消すことにした。


「忘れるなっ!」


「アーリマンっ」


弟の方はこの地に伝わる悪魔の名を叫んでいた。さすがにあんまりだと思ったが、訂正する資格は無く、私はその地を去ることにした。



それから数ヶ月後、私は中東のオアシスにいた。オアシスといってもそう華やかなでもなく、水が比較的豊富な砂漠の街、という以上の物ではなかった。

ぬるいコーラを飲んで砂漠越えをした身体を労った。最初の頃は気前よく旅費を使っていたが、これは有限。

最近の私は旅費を惜しんで身体の消耗をなるべく避けるようにしていた。

浅ましい、という自覚はある。

と、建物を挟んだ向こうの通りで爆発が起きた。騒然となった。


「テロだっ!」


「どっちの宗派だっ?!」


「知るかっ!!」


「女が爆発したぞっ?!」


私は爆発が起きた通りに向かった。逃げてゆく人並みも、気付かずに私を避けてゆく。

爆発は断食明けのパン屋を狙ったらしい。それは酷い有り様であったが、いつかの鳥葬の聖域に比べれば奇妙に整然としている印象もあった。

暴力と、その結果で完結しており、間に自然や生命が無かった。


「パン屋を狙わなくても」


彼らの宗教倫理的にもどうかと思ったが、この地域では4年程前の選挙を切っ掛けに、対立する宗派がテロの応酬を行っており歯止めが利かないようだった。

ふと、少年の言葉を思い出した。少年は命を助けろと言っていた。

まだ助かりそうな被害者もいくらかはいたが、私は医者でも救急救命士でもない。

何ができるだろうか? すぐに専門家が来るはずだ。

だが、崩れそうなパン屋から、まだ生きてる者を連れ出した方がいい気はした。全員は無理かもしれないが、これも旅の障害であるのならば旅費を払うことで数名は助けられるかもしれない。しかし、


「・・・」


私は背を向け、自分の旅を続けることにした。程無く、背後で建物が崩れる音がして、周囲の人々の悲鳴と救命士はまだか?! といった怒号が聴こえたが私は灰色の帽子を目深に被り、砂漠地帯の砂塵の中に隠れ、誰にも認識されずにその場を去った。

私には、なんの資格も無い。



私が旅立ってから、1年と3ヶ月が過ぎていた。南米に来ていた。モーターボートでアマゾンの茶色い川を進んでいた。

オイルの焼ける臭いに加えて、濃密な水と泥と森の臭いがする。害虫や病の心配の無い私は、ポロシャツを着た船頭から渡された錆びた鉈で割っただけのパイナップルを噛りながら、ぼんやりとしていた。

川を綱引きの縄のような太さの大蛇が泳いでいる。この先にある遺跡を目指していたが、特に強い関心があるワケでもない。

ふと見れば、パイナップルを持つ私の手が一瞬透けた。


「もう、だいぶ払ったからな」


遠からず来る旅の終わりについて、私は途方に暮れるしかない。

遺跡近くの村の船着き場に着き、そこから3日、ジャングルを歩いて私は遺跡に着いた。

いや、正確には遺跡のあった場所に着いた。


「・・思いきったもんだ」


そこは高級住宅街になっていた。船着き場のあった村で少しは話を聞いておくべきだったかもしれない。

長く旅をする内に、私は現地の人々との会話をなるべく省略しようとするようになっていた。船頭にもただあの村の船着き場までとしか伝えていなかった。


「ここに遺跡があったんですよね?」


私は洒落たカフェにいた、カジュアルウェアだが全てブランドで固めた30代程度のカップルに聞いてみた。


「ああ、もう20年は前に取り壊されたよ。なんの許可も取っていなかったが、土建屋が顔の利くヤツでお咎め無しさっ!」


「あとになって学者と外国人達が騒いだから、街の端に博物館は作られているよ? 地元の人間は行かないけどねっ」


「祟られるからさっ! ハハハッ」


「そうねっ、フフッ」


私は苦笑してカフェを去り、その博物館に行ってみた。

そこは観光シーズンではないこともあり、人気はなかったが、思ったよりもしっかりとした建物であった。

富裕層向け住宅街としての体面もあるのかもしれない。

ガラスケースの中には補修された遺跡の一部や出土品等が延々と並べられ、レプリカに関しては無造作にケースにも入れられず並べ置かれていた。

博物館の奥には装飾された祭壇とも寝台ともつかない石の台座が展示されていた。

側に寄ると、年老いた男が私を見付けて歩み寄ってきた。珍しいことだ。私は特段この男に認識されようとはしていなかった。

この帽子の力は迷いの無い人間には効果が薄い。人気の無い博物館ではさすがに私は目立ってしまったのかもしれない。


「これは生け贄の祭壇であったそうですよ」


「へぇ、それはまた」


どう返答すべきか私は困った。冗談で返す相手にしては正直過ぎる印象があった。


「この博物館が地元の方々が来ない理由ですか?」


「もう少し根深い」


老人は極めて平坦で、冷静な視線を祭壇に向けた。


「今、この街に住んでいる人々は大昔にこの辺りを支配して遺跡を築いた人々の奴隷だったんだ。彼らは白人に敗れて滅びたよ」


合点がいった。


「白人達は石油を盗んだり、コーヒーやゴムの農園で我々の先祖をこき使ったが、少なくとも生け贄にしたりはしなかった。油田が枯れて彼らは去ったが、我々の中で、富を蓄えることに成功した者達もいた」


「運命に勝ったんですね」


「どうだろう?」


老人は少し不安な視線を生け贄の祭壇を見詰めた。


「我々と彼らが似ている気がして、同じ輪から抜け出せないんじゃないかと。もっと良い、本当の暮らしがあったんじゃないかと、最近そんなことばかり考えるんだ」


「生活に困らなくなると不安になる物ですよ。彼らもその不安を贖おうとしたのかもしれません」


私はしばらく老人とその虚しい祭壇を見詰め、博物館を後にした。



約2ヶ月後、私は北極に来ていたが酷いことになっていた。

雪が降りしきっていた。スノーブーツ等で身を固めていたので少々灰色のソフト帽子は奇妙な組み合わせで、ふざけているのかと思われかねない格好になっていた。

だが、今、私はそれどころではなかった。私の隠れる物陰近くにライフルの銃弾が着弾した。


「悪魔めっ! 姿を表せっ」


狙撃手は雪を被った氷塊の上から怒鳴ってきていた。

私の格好が不興ふきょうを買ったわけではなく、どうも私を敵と思い込んでいるらしかった。

世界を旅していると一定数、認識させるつもりのなくても私を見付けてくる者達がいて、その内の少なからずの者から私は疎まれる傾向があった。

さすがに狙撃されたのは初めてだったが。


「何かっ! 誤解があるようですがっ?!」


叫び返してみる。


「お前のような者がいるはずがないっ。トナカイもっ、軍の哨戒機もお前に気付かずっ、吹雪さえお前を避けたっ!!」


どうやら私は観察されていたらしかった。そう言えば今朝から視線を感じないではなかった。


「貴方イヌイットの方ですよねっ?! 私を狩ってもなんともなりませんし、それに止した方がいい。貴方が私の旅の障害となれば、効果の範囲内となってしまいますっ」


私はそれを一番恐れていた。無益と言うより他無い。

私は雪と氷に紛れ、距離を取ろうとした。離れれば離れる程、見付かるつもりの無い私を認識することは難しくなる。

それでも狙撃手は驚くべき視力と洞察力と直感。何よりこの豪雪を物ともせずに追い続ける身体能力で私を執念深く追い、狙撃を続けた。

イヌイットの猟師は小柄であっても極めて優れた戦士であると、本等で断片的に知っていたがこれ程までとは思わなかった。


「儘ならない・・」


私には正しいルートがわかる。あと少しで針葉樹の林に入る。海の上の雪原と違い、干渉可能な事象が多くなる。

また狙撃された。近い。捉えつつある。私はやむを得ず、林に入った。

隠れ直したばかりで居場所を知られてしまうが、ここまできたらどちらにしろであった。


「私が立ち去るだけではダメなのでしょうかっ?!」


「悪魔は殺すっ!!」


「私は貴方の親の仇か何かになった覚えはありませんがっ?!」


潜んでいた木の幹を正確に撃たれた。幸い、狙撃手の銃は貫通力の低い物であるらしく、木が私を守ってくれた。


「息子は2人とも紛争と事故で死んだっ! 妻は錯乱し入院したっ! 甥は私の猟場を継ぐのを拒否してカナダへ行ったっ! 市は私の猟場を狭めようとしているっ! 悪魔だっ! 悪魔が策謀しているっ! お前の仕業だろうっ!」


「・・なるほど」


宗教倫理上であったり相応の理由があれば多少旅費を支払っても、なるべく穏便に切り抜けようと考えていたが、その必要は無いようだった。


「不幸ではあるが強靭な貴方はっ、私以外にもやがて牙を剥くでしょうっ!」


「私は必ず勝利するっ!」


狙撃手は無闇に撃たなくなり、低い姿勢でジリジリと距離を詰めてきた。かなり大振りの狩猟刀も腰に提げていた。


「私は貴方を旅の障害と認めます」


帽子にいくらか旅費を支払った。そう余裕があるワケではないから正直厳しいが、ただ逃げるだけではどれだけの災いを残してしまうかわからない。

戦う術等知らない私でさえ2人の命を奪ったのだ。

雪が一瞬止まった後、猛吹雪が起こった。それは指向性を持って狙撃手に吹き付けた。

狙撃手は不屈の意志と頑強な肉体で吹雪の中を進んだが、銃口に見る間に雪が詰まり、銃身全体に雪が付いて益々吹雪を受けるようになるとライフルを捨て、代わりに狩猟刀を抜いて吹雪に突き刺すように細めた目を庇って構え、益々姿勢を低くして四つん這いになるようにして雪の中をこちらへ進み始めた。


「獣その物だ」


追加で旅費を払う必要は無かった。それは吹雪で運ばれていた。

氷柱つららである。


「っ!」


吹雪に乗った木の枝等から捥がれた数本の氷柱が狙撃手を襲った。

信じ難いことだが、狙撃手ほ先頭の氷柱の1本を狩猟刀で叩き割って防いだ。

が、後続の氷柱は狩猟刀を持つ右腕の付け根の辺りと左足、それから小さな氷柱が右目に突き刺さった。


「ううっ!!! 悪魔めっ!!!!」


うずくまる狙撃手。

死なない程度に干渉を加減したつもりだったが、帽子は狙撃手が一太刀は氷柱を斬ることを見切っていたようだった。


「南西に漁村があるっ! 貴方ならたどり着けるでしょうっ。誰を殺してもっ、誰も帰ってこないとっ! 忠告しておきますっ」


私は自虐を込めてそう言い放って、今度こそ吹雪に紛れて姿を消した。

その後の狙撃手がどうなったかは私の範疇では無い。



それから数週間後、私は太平洋をゆく客船に乗っていた。

船は医療設備と人員が充実しており、客も高齢者や健康に難のある者達が多かった。

勿論その同行者達も数多い。親族、恋人、愛人や個人で雇った介助者達等で、仕事で来ている者達以外は気楽な様子だった。

私も、相変わらず灰色のソフト帽子を被っていたが、それ以外は軽装であった。

船のプールサイドで寝椅子から身を起こし、トロピカルカクテルを飲んでいた。

いよいよ旅費を使い込んだので油断すると手が透け、グラスを落としてしまいそうだった。


「私も病人だから」


近くの別の寝椅子に横たわっていた痩せた女が話し出した。

水着は着ておらず、青いワンピースを着ていた。高価な物であることは一目でわかった。海の蒼を集めたようだった。


私はそこまで姿を隠していなかったが、この女もまた鋭いタイプのようだった。


「たくさん病人を見てきたけど、身体が透ける人は初めて見たよ」


「中々厄介な病でしてね」


私は笑ってごまかすしかない。女も笑った。


「この船に乗っている病人や年寄りは最後の旅のつもりでいるんだよ。保険にも入ってるし、乗る前に一筆、誓約書も書かされた。結婚届けみたいにね?」


「なんだか晴れやかですね」


「貴方は死神?」


「いえ、でも思えば死を巡って、旅をしてきたのかもしれません」


「それは面白くなさそうな旅だねっ!」


「ですね」


私と痩せた女は笑い合った。


「・・私はね」


痩せた女は語りだした。


「明るい森の家で育ったんだ。そこには湖があってね。ボートも。それから栗鼠りすが懐いていて、秋には木の実をあげるのが日課だった」


詩を朗読するように痩せた女は言った。


「それが、どこまでが、本当だったか? いくつか記憶が混ざってしまっているのか? 全部物語の中の出来事だったのか? 今の私には些細なことだけど」


悪ふざけをしたような顔でこちらを見る痩せた女。私は注意深く話を聞こうと決めた。


「入院ばかりしていると、本ばかり読むことになるけど、いつかそちらの世界の方がこちらの世界より大きくなっていったんだ」


「貴女は特別だったんですね」


「そう、特等席。随分前から、小さな文字を読み続けるは難しくなったけど、私はいつでも読み返せるんだよ。もう、私は物語の登場人物と同じだから」


「まるで、魔法使いです」


「そう! さすが死神さんは話が早いね」


彼女は心底楽しそうな笑顔だった。


「死神さんはどんな所で産まれたの?」


「私は・・」


私なりに語ろうとして、私は既に旅費として私のルーツに関する全てを失っていたことを今、初めて気が付いた。

しかしこの点に関して、私は彼女を見習うことにした。


「私は嵐の中、年中雷の落ちる断崖の古城の井戸の中で産まれました」


「凝ってるねっ!」


「本当はなんの特徴もない街の産院だと思います」


「言った側から書き変えてしまうの? 意気地の無い人」


「脆弱なので」


私達は笑いながら、それからしばらく竜や宇宙船や、殺人鬼や、アル・カポネの隠し資産について話し合った。


「・・ふぅ、久し振りにたくさん話したから、疲れちゃったよ。少し、眠るね?」


「おやすみなさい」


「ねぇ、死神さん」


「はい」


「私の最後の時は貴方が迎えに来てくれる?」


「・・貴女が、いつまでも、特等席で待ってくれているのなら」


「ありがとう、おやすみ」


彼女は眠りに就いた。私は彼女がただ眠っているだけか確認した上で、その場を離れた。

今は船の中なので、立ち去れはしないが、私は船が次の島に着くまで、追加で旅費すら払って、彼女と顔を合わせないように気を付けてやり過ごした。

彼女にこれ以上、何も失望させるべきではない。例え彼女がこの船に乗れる程裕福であったとしても、私は彼女達全般に対して、礼儀をわきまえるべきだと考えた。



それからいくつか船を乗り継ぎ、私はポリネシアのとある島に着いた。

気を抜くと身体全体が薄らぐようになっており、私の灰色の帽子もこの島以外の目的地へのルートを示さなくなっていた。


「いよいよ、か」


島の中心の火山から噴煙が上がっていた。現地政府から警告が出る程に噴火が確定的に予測されており、島民の避難が急がれていた。

私も島民を迎えにきた避難船に紛れて来ている。港は少しでも早く避難したい島民でごった返していた。

特に火山に興味は無い。帽子は私はマグマか何かで最後は死ねというのだろうか?

確かに自分はその程度の者であるとは思うが、これまでの旅と少し文法が違う気がして、なんだか落ち着かない気分であった。


「ラサ族と外国人を優先するっ!!」


乱れる港に溢れた群衆に対し、銃を手にした軍警察に護られた政府の役人達は鋭く宣言した。


「我々は国民だぞっ?!」


「金持ち優遇かっ?!」


「島では先住の我々の方が人口は多いっ!!」


「市長はどこに行った?!」


「子供と年寄りと病人を優先しろっ!!」


「年寄りと病人は見捨てろっ!!」


「おいっ! あの船っ、教会のヤツらじゃないかっ?! 自分達だけっ」


「地獄に堕ちろっ!!」


港の混乱は酷く、間を置かずに役人達は軍警察の者達にゴム弾と催涙弾の使用を許可した。

悲鳴と怒声の響く中、私は港を後にして火山の方へと向かった。

途中、乗り捨てられた年代物の四駆車を拝借した。キーも差したままだった。

私は四駆を乗り回すようなタイプではなかったが乗り込んで、渋滞している国道ではなく、ギリギリ通れる土が剥き出しの農道へ入っていった。

悪路を進むとやがて渋滞の最後尾を抜けた所まで出たので、私は国道に入り直した。


「これは相当だ」


地震は度々起こり、アスファルトは時折ヒビ割れ、私は進行することに随分苦労した。

港から見るよりも火山は遠く、道が曲がりくねっていることもあっていつまでも経っても近付けない気がしていると、火口ではなく、山の中腹の一角が裂け、激しく噴火した。

真水の水槽に墨を落としたように拡がった火砕流かさいりゅうが、麓近くの農園帯らしきエリアを焼き払っていった。

その近くに集落らしい物も見えた。火砕流の直撃は免れたようだったが、熱風の火砕サージに一薙ぎされ、集落全体で火災が発生した。

私の灰色の帽子は、その集落を差した。


「手に余る気はするが・・」


私は四駆車で強引に国道から草地に入り込んでいった。

時間差で火山弾が落ち始めていた。私は車への直撃を避ける為に、さらに旅費を消耗した。


「着いたことは着いた」


焼けゆく集落に着いて車から降りる頃には一先ず火山弾は落ち尽くしたようで、異臭はしたが、火災サージによるガスも風によって概ね吹き飛ばされていた。

元々、僻地特有の家屋の密集しない平屋ばかりの村であった為、火災旋風の心配も今のところ無さそうであった。

既に避難済みなのか? 周囲に人は見当たらなかった。いたとしても全滅しているのではないか? 私はやや困惑した。と、


「ウモォオオォーーーッッ!!!!」


凄まじい呻き声で、全身を燃え上がらせた牛が3頭、走ってきた。

正気を失った哀れな牛達は私に気付かず走り去っていった。銃でも持っていればとどめを差してやれたが、今は車のキーくらいしか持っていない。

私はさらに炎上する集落の探索を続けた。その数分後、


「お母さんっ! お母さんっ!」


燃え上がるソテツの木の向こうから声がした。行ってみると、12歳程度の少年が片足に火傷を負った母親らしい女性に肩を貸していた。

女性はかなり消耗しているようだった。

一瞬、また迷いを感じた。だが、私は消えかけていて、今になって鳥葬の聖域で課せられた戒めが強く私を突き動かしていた。

永く、旅をし過ぎたのかもしれない。私は自分の傲慢を許容した。


「車がありますっ! こっちですっ!」


私は駆け寄り、少年に手を貸し、女性の反対側の腕を取った。


「・・貴方は? 外国の方?」


「旅行者です」


「おじさんありがとうっ」


「いや・・よく御無事でしたね?」


「地下の食糧倉庫に隠れて・・母が寝たきりだったから、避難が遅れてしまって」


「お母様は?」


女性は顔を曇らせ、少年は泣きだした。


「今は御自分達のことを考えて下さい」


「・・はい」


私はなるべく急いで2人を誘導した。私に残された旅費だけで、全員を火災サージから護ることはおそらくできない。

来た道とは少し違ったが、最短で車を停めた所へ向かい、あと少しという所まできた。だが、


「助けてくれっ!」


燃え落ちた家屋に挟まれた中年の男がいた。身体が燃えている。


「ヌティさんっ」


「おじさん、あの人も助けてあげてっ! 友達のお父さんなんだっ」


「・・・すまない」


私は女性の腕を強く引いて先を急いだ。


「見捨てないでくれっ! 死にたくないっ!! 死にたくないっ!!」


女性は泣いて私が引くままに歩き、少年は何度も家屋に挟まれた男性を振り返った。


「ダメなの?! ねぇっ、おじさんっ!」


私は答えずに女性の腕を引き、歩き続け、車まで着くと、女性と少年を後部席に乗せ、自分は運転席に座った。

グローブボックスを探ると、未開封のペットボトル入りのノンシュガーの紅茶が入っていたので女性に渡した。


「半分は2人で飲んで、あとは火傷に」


「貴方は?」


「必要ありません。シートベルトを」


私はキーを差し、四駆車を出した。出せるだけ速度を出す。


「・・君」


私は少年に話し掛けた。


「これから先、何度も後悔して思い出すかもしれないが、勇気を持つことだよ? 他にしようのないことだから」


「おじさんも?」


「私は逃げて、逃げて、ここに来たんだ。勇気が無かったから」


少年はさらに何か言おうとしたが、火山の中腹がまた噴火をした。地響きが伝わる。


「火山弾はここまでくるっ! 急ごうっ」


私はさらに旅費を使って、時間差で落ち始めた火山弾を避けながら国道に戻り、そのまま来た時よりもかなり進んだ渋滞の最後尾まで来た。

すると、国道脇に停められた避難誘導をしているらしい役場のロゴが入った車両から少年とどこか似た雰囲気の男性が飛び出してきた。


「お父さんだっ!!」


「夫ですっ」


私は車を停め、女性と少年を男性に引き渡した。


「ありがとうございましたっ! 貴方も港へっ」


「いや、私はここで」


「えっ?」


私は男性を驚かせてしまったが、残り少ない旅費を使い、土煙の突風を起こし、姿を消した。



火山近くの高台に来ていた。火口から噴煙が上がり続け、上空で稲光りが続いていた。中腹からの噴火は断続的に続き、赤いマグマは地形を変えていた。

火山弾もあちこちに落ちてきていた。座り込んだ私は、身体がすっかり透けており、もう立ち上がることもできない。


「こうして、自然の怒りと誕生を見れた。分不相応さ・・」


私は灰色のソフト帽子を取って、目を閉じた。


「次の旅人に幸運を」


一際大きな燃える火山弾が、私に直撃した。



・・・吹き飛ばされた灰色の帽子は、一度、1本1本別々の糸に別れた。それは風に乗り、雨を受け、日を受け、月明かりを受け、たどり着けなかった人々と、旅立てもしなかった人々の思いを受け、1本1本織り合わさり、今度は可愛らしい灰色の羽根付き帽子へと形造られた。

帽子は気紛れな風に乗り、南欧のとある裏町の路地に置かれたゴミ入れの蓋の上に落ちた。


「はぁはぁっ・・もうっ、嫌だっ! 嫌だっ!」


路地に、10代中盤程度の1人の少女が駆け込んできた。涙を溢す少女の顔には殴られた痕があり、扇情的なネグリジェを着ており、傷だらけの素足であった。

少女は追手の気配を感じ、建物の陰に隠れた。


「あのクソガキっ!」


「見せしめに薬漬けにしてやるっ」


「遠くへ行けやしないっ! 探せっ!!」


追手の男達は一先ず遠ざかっていった。少女は力無くその場に座り込んだ。

少女は隠し持っていた折り畳み剃刀を左の手首に当てたが、肌を少し切っただけで想像以上の激痛を感じ、慌てて剃刀を離した。


「ちくしょうっ!」


少女は癇癪を起こして剃刀を路面に投げ付け、跳ね返った剃刀がゴミ入れの蓋に当たった。

灰色の羽根付き帽子が揺れた。


「何これ? ・・綺麗」


少女は思わず立ち上がり、帽子を手に取った。


「最後の御褒美、コレかぁ」


少女は苦笑して、灰色の帽子を被った。途端、少女は3つの帽子のルールを理解した。

一陣の風が吹き、少女の服装は下品なネグリジェから、童話の中のさすらい人のような旅装束に変わり、顔や手首の怪我や欠けた歯等も全て元に戻った。


「そうか、そうなんだ」


少女は建物の陰から出て路地を歩き始めた。追手の者達と擦れ違ったが、血眼になって少女を探す男達は、決して、少女を見付けることはできなかった。

そのまま少女は明るい表通りまで出た。


「さぁ、どこへゆこうかな?」


帽子の鍔に手を掛け、微笑んで歩き出す少女。それは彼女だけに許された、最後の景色へと向かう、滅びの旅の始まり。

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