描けるペン
真壁俊夫は漫画家である。『まかべ☆としお』というペンネームで活動をしていた。
20代後半の時に1度だけ連載した漫画がヒットして、深夜帯でアニメ化されたことがあったが特に話題にはならず、真壁俊夫がメディアでクローズアップされたのはそれきりであった。
週刊少年漫画誌で連載が取れたのもそれが最後であった。
30代になると、創作の行き詰まり打破と悪化した腱鞘炎対策として、なけなしの貯金で機材を揃えデジタル作画に切り替えた。
物理的にアシスタントを雇うくらいなら単独でできないでもないデジタルの方が安上がりだった、ということもある。
真壁俊夫は、それからしばらくは生活の為に別のペンネームでポルノ漫画を描いたり、調理師免許を持っていたので炉端焼き屋の仕込みのバイトをしたりして暮らしていた。
その間、少年漫画誌や青年漫画誌編集部に読み切り原稿の持ち込みも繰り返していたが、めったに採用されることはなかった。
ポルノ漫画家としても「片手間で描いてるのがネームに出てますよね?」と、ある時、編集者に指摘され徐々に採用されなくなっていった。
使っている機材が古くなって故障が多くなり、アニメ化された頃に知り合った業界人とは連絡が途絶え、実家に挨拶にまで行った彼女に「もう待てない」とフラれ、視力の低下とネームが進まなくなっていることを自覚し始めた38歳のある日、真壁俊夫は気付いてしまった。
もう何も、描くことが無い、と。
「・・嘘だ。俺は疲れているだけだ」
真壁俊夫は自分の限界を信じたくなかった。
真壁俊夫は気が付くと古びたPCで中古の漫画用アナログ画材販売サイトを開いていた。アナログ画材等、もう何年も使っていない。
「今更・・ん?」
古びたPCの調子が悪くなり、画面がザラ付き出した。
「勘弁してくれよっ」
真壁俊夫はパソコンを軽く叩いて様子を見た。画面はガチャついた後、正常な状態に戻ったが、
「?」
妙な軸付きGペンにカーソルが合っていた。商品名は、
『描けるペン』
とあり、商品紹介には『天才的な漫画が描けますが風邪を引きます。』と記されている。
価格は500円。
「なんだそりゃ。くだらねっ」
PCはそのままに、真壁俊夫は1度席を立ち、冷蔵庫から割引シールの貼られた発泡酒缶を取り出し、開けて飲み、スマホで明日の炉端焼きのバイトと、それから約2週間のバイト以外の予定の無いスケジュールを確認した。
「・・っ!」
真壁俊夫は発泡酒缶とスマホをテーブルに置いて、PCまで駆けてゆき、描けるペンをクリックしてカートに入れた。
数日後、商品は真壁俊夫のコーポに届いた。
「なんだ、きったねーペンだなぁ?」
奇妙なGペンを、取り敢えずエタノール消毒する真壁俊夫。
「インク・・まだあるよな? というかいきなりペン入れ? いや、まぁ練習だ」
ケント紙はもったいないので適当な紙に描いてみることにした。
「・・・え?」
描ける、スラスラ描ける。手描きが一番早く滑らかに描けた20代中盤の頃より断然早く描ける。
ただ描けるどころではない、適当な落書きをするつもりが知らぬ内に、簡易な線でネームを描いていた。
最初からGペンで。
「え? あれ? 描けてる。いや、というか・・このネームっ!! 面白くねーか?? なんだ? 俺、マジかぁあああ??? ふぉおおおっ?! 描けるるぅううーーーっ!!!!」
驚愕しながら、次々と紙を取り替え、読み切り一回分のネームを描き上げてしまった。
「うおっ、面白ぇっ! 1枚目からケント紙で描きゃ良かった。・・あれ?」
急激に目眩を感じた。頭痛、悪寒、熱っぽさを感じる。
「うっ・・ぶえっくしょんっ!!!」
ギリギリ原稿が汚れるのを避け、首を背けて大きなくしゃみをする真壁俊夫。鼻水も出てくる。
「のぅあっ、寒いっ! マジか? ほんとに風邪引くのか??」
真壁俊夫は震えながら描けるペンを見詰め、もう1度、顔を背けてくしゃみをした。
数日後、真壁俊夫はマスクを付け厚着をして額に冷却シートを貼って、とある電子漫画誌の編集部に来ていた。
真壁俊夫はもはや、一部のポルノ誌を除けば紙の漫画誌から相手にされなくなっていた。
「まかべ先生っ! いいねこの読み切りっ。最初からケント紙で描いてほしかったけど・・とにかくいいっ!! ウチは吹けば飛ぶような電子だからっ、すぐ載せちゃうよ?」
「ありがとうございますっ!! ・・ぶえっくしょんっ!」
原稿を手に、明らかに体調の悪そうな真壁俊夫に若干引く編集長。
「ま、まぁ、体調管理は気を付けてね。とにかくいいからこれ! これはバズるな~」
編集長の見立て通り、真壁俊夫の描いた『イカプーの洗剤』はプチバズり、続けて描いた『膨張するイカプー』『イカプーと伊豆』は2本ともプチバズることに成功した。
デジタル誌では中々紙の単行本は出してもらえない中、通販主体ながら読み切りを纏めたコミックは1万2千部発行してもらい、即完売。重版決定。デジタル版もそこそこの反響であった。
フラれた彼女は一切戻ってこなかったが、音信不通だったかつて仕事をしたアニメ業界人や、門前払いされていた大手出版社からも声が掛かるようになり、バイトも辞めることができた。
しかし、
「・・40度」
ベッドの上で体温計を見て、絶望する真壁俊夫。描けるペンを使えばいくらでも描けたが、風邪はみるみる悪化し、描くに描けない所まで来ていた。
幸い、単独作業をしているので不審がられることはなかったが、もうどうしようもなかった。
丸2日休み、風邪の症状はすっかり収まったが、さすがに体力は戻らない。フラつきながらも真壁俊夫は机に向かった。
バイトは辞めている。時間差でイカプーのグッズも徐々に発売される。物販とは虚空から発生する物ではない。ボイスコミックを作ろうという動きもある。
もはや真壁俊夫個人の仕事ではないのだ。
やりたいやりたくないではない、描かないという選択肢は無い。
「ううっ・・」
真壁俊夫は、机の上に無造作に置かれていた描けるペンに手を伸ばし・・
「・・いやっ!」
描けるペンを取らず、真壁俊夫はパソコンに向かった。
描けるペンを使わずとも、イカプーの描き型は既に覚えている。読み切りとはいえ3本描いたので流れも理解している。
1本だけでも描けば体調が戻るまでの時間は稼げるはず。そもそも怪しいペンに等頼らずとも自分は描けるはず。やれるはず。
それにイカプーのファンはそれなりにいる。仮にもう一つな出来であっても、1本くらいの空振りは許容されるんじゃないだろうか?
そうだ。それでいい。そもそも漫画を描いているのは自分であってペンではない。
自分には、地力があるんだ。
・・そう、真壁俊夫は信じ、実際案外スラスラと読み切りを1本仕上げた。
「う~ん」
今回はデジタルで描いたのだが、アナログの癖で思わずコピー原稿を編集部まで持ってきてしまった真壁俊夫。
1人で、編集も通さず描き上げてしまったので直接反応を見たかった。
「いやぁ、まかべ先生、今日はちょっと出ちゃってるけど、担当いるワケだから、相談してほしかったなぁ」
「すいません、風邪が治った勢いで描いちゃいました」
「『伸びるイカプー』。まぁ悪くはないですよ? デジタルで線が淡白になった分、背景や服装や髪をしっかりさせて画面がショボくならないようにしてますし」
「ありがとうございますっ」
「でも、ストーリーがなぁ。・・これ、2本目の『膨張するイカプー』の焼き直しですよね?」
「え?」
そうだろうか? そうかな? という気もしたが、そんなことないっ、と描き上げてしまった。
「まかべ先生ぇ~。まだ4本目ですよ? そういう繰り返しの構成にもなってませんし・・また正直に近々の自分の原稿から引っ張ってこなくても。その、アレですよ? ほら? インプットしてます? ちゃんとして下さいよ」
「はぁ」
さりげなくつっかえされた自分のコピー原稿を見詰める真壁俊夫。
「それ載せちゃうと、グッズの展開に響いちゃうんで、ボイスコミックは微妙にズラします。翌月くらいかなー? 間に合うように、お願いします。まぁまずはネームをね、先に見せて頂きたいところですが? ね? 先生、ウチ、デジタルの中でもマイナー誌だけど、同人じゃないから」
編集長は口元に笑みは絶やさなかったが、目は冷え冷えとしていた。
「少し休んで、またあのペンで描くしかないか・・」
暗澹たる気分でデジタル出版社の入った雑居ビルから出て溜め息を吐いていると、スマホの振動を感じ、ポケットから取り出した。
画面を見る真壁俊夫。
「・・っ!! えーーっ?!!」
驚きのあまり、原稿を取り落としてしまう真壁俊夫。路上にイカプーが「ぷ~っっ!!!!」と言いながら引き伸ばされるカットが晒されていた。
実家のある奈良県に慌ててゆくと、地元の病院の病室で、車椅子に乗った父は案外血色の良い顔で出迎えてきた。
「俊夫、来たんか。ちょっと痩せたな?」
「痩せた、て。車に跳ねられたゆうから来たのにっ。おとん、元気やんかぁ?」
病室には真壁俊夫の兄と妹も来ていた。
そのまま世間話になったが、父はのらりくらりと話すばかりで要領を得ず、真壁俊夫は父は病室に置いて、兄と妹を病院の食堂まで連れ出した。
「え? おとん、今、どんな状態? なんやゴルフの話しかせえへんけど」
「腰も痛めてるけど、骨折は左足だけや。他はなんともないけど、間接がな。軟骨持ってかられたみたいや。パーン、て」
「パーン?」
兄からの久々の関西ニュアンスに、東京暮らしの真壁俊夫はすぐには意味合いを脳内で変換できなかった。
「年も年やからぁ、家に手摺付けてぇ、風呂も浅いヤツにせなあかんねやぁ」
久し振りに聞く、方言丸出しの妹の話すスピードの遅さに内心驚愕する真壁俊夫。
「金は?」
イカプーが多少売れたが、真壁俊夫は十分な貯金も持っているワケでもなかった。今年は課税も多くなる。
「事故の賠償やらなんやらが使えそうや。家と福祉車両改造はなんとか。あとは市のサービスでバスの割引と・・リハビリとマッサージの割引があるな。金の方は今んとこそこまでシビアにはならん感じや」
「ウチぃ税理士やしぃ、ちゃんとしたわぁ。この後ぉ、事務所で契約してるぅ弁護士先生とこ行ってくるわぁ」
妹は話し方はトロくてもこの種の対応は迅速だった。
「そうかぁ、せやったらええけど、相手は?」
「警察や。まぁ執行猶予やろ。せやかて、ええ家のボンで、女乗せてスポーツカーでわんわんいわしとったみたいやし、キャーン言うまでふんだくったるわっ」
「まぁ、そうか・・」
問題無さそうなので、真壁俊夫は帰りの近鉄からの新幹線への乗り継ぎを考え始めていた。途中、肉まんか柿の葉寿司を買いたい。
「俊夫っ!」
「お兄やんっ」
「ええっ? なんや??」
急に兄と妹に迫られ、真壁俊夫は困惑した。
「取り敢えず退院まで1週間っ! 風呂はかかるけど、簡単な手摺の工事やらが済むのは2週間後っ! それまでおとんの面倒お前が見てくれやっ。暇やろっ?!」
「せやぁっ」
完全に結託していた兄と妹。
「いやっ、暇とちゃうよっ?! 漫画描かんとっ」
「お兄やんっ、漫画なんやどこでも描けるやんかぁっ?!」
「俺んとこは2人目産まれたばかりで嫁がイライラしてるしっ、仕事も抜けられんっ。大阪から通うの無理やっ」
「いやっ、ちょっとっ? そんな急に言われてもっ、東京の家の冷蔵庫とポットやらそのままやでっ?! 仕事かて、道具が・・っ!」
鞄の中に描けるペンとインクを1瓶、持ってきていることを思い出す真壁俊夫。
「役所の手続きとかぁ相手側との交渉とかはぁ、ウチが全部するけどぉ。プラスおとんの世話とか、ウチ無理やぁっ、仕事あるしぃ」
「漫画は空いた時間でも描けるやろ? 連載ももう無いんやろ? 2週間だけっ! 頼むわ俊夫っ。お前だけが頼りなんやっ」
「お兄やんっ」
「俊夫ぉっ!」
「・・・っっ」
断り切れる物ではなかった。
数時間後、数年ぶりの誰もいない実家に帰り、仏壇で母や祖父母に線香を上げ、事故以前からまともに片付けられていなかったらしい実家を目に付く範囲でざっと掃除した。
それから東京の友人とコーポの管理会社に連絡して冷蔵庫やポットや戸締まり等の始末を付けた。
一段落すると、関西ローカルのタレントが盛った世間話ばかりするテレビを見ながら父が大量に買溜めしていたカロリーオフの発泡酒を飲み出したが、既にここに居場所は無く、浮き上がった感覚を覚えただけだった。
故郷に帰りたいと思い続ける人もいるらしいが、自分はそうではなかった。人として欠陥があるに違いないがそれは大した問題ではない。つまり、
「描かないと」
真壁俊夫はテレビを消し、描けるペンを取った。
「・・・25分。だな」
経験上、描けるペンを使って原稿を描き始めてから、初期症状はともかく一気に風邪の症状が悪化するのは30分を過ぎた辺り。
逆に考えると30分未満ならそこまで目に見える悪化はしない、はず。
これまで1日の間に作業時間を区切っても通して作業をしても、体調の悪化度合いに変化はなかった。
おそらく『1日のペンの総使用時間』でカウントされている。
1日の作業時間を25分にすれば体調を保てるのではないか?
元々体力が回復しきっていないというのもあるが、父の世話をしながら風邪を悪化させてはどうしようもない。父に風邪が移るとさらに面倒だ。
1日25分。これを2週間。描けるペンを使用すれば驚く程早く描けるがさすがに脱稿まではゆけそうにない。それでもネームまでなら描ける気はした。
結果的にやり方が不自然過ぎてまた編集者に相談できないが、何しろ天才的なネームが仕上がるのは間違いない。それを見せれば納得してくれるだろう。
編集長が提示した締め切りに十分間に合う。今回の試みが上手くゆけば、体調をキープしながら、この奇妙なペンを使って、月刊連載くらいはできるのではないか?
真壁俊夫はそのような野心も潜ませながら、有り合わせの、父が回想録を書くのに使っているらしい原稿用紙の裏にネームを描き始めた。
原稿を前にペンを握った時点でわずかな発熱と共に即、タイトルを思い付いた。『蜃気楼のイカプー』。これしかない。
スマホのタイマーできっかりセットして25分。真壁俊夫はネームに取り掛かった。
「やってやるっ! どこでも描ける? 空いた時間でも描ける? ああっ、そうだよっ!! 無くていい商売っ、始めちまってんだっ!! うおーーーーっ!!!!」
描けるペンは真壁俊夫の全てを引き出していた。持っている物以上さえも。
仕上がるネームの欠片はこれまで以上に高度で、高度過ぎてペンを握っていない状態では一見よくわからないくらいだったが、今はとにかく描き上げることを優先し、難解さはさほど気にはしなかった。
それから昼間は、病院で我が儘放題不満放題な父の相手をした後、よく見てみると庭や使っていない部屋が荒れ放題の家の手入れをし、さらに手続きは妹がしてくれたが実際担当者に会っての諸々の対応に追われた。
体調万全でも疲労困憊になるところだが、体調が悪い上にさらに悪くなる描けるペン使用を毎夜行っている為、加速度的に真壁俊夫の体調は悪化していった。
1週間後、なんとか庭と部屋の整理と、手摺取り付けや一階の段差対策の工事を済ませ、車椅子から松葉杖に代わった父の退院手続きに向かう所まで漕ぎ着けた。
が、体調は最悪で、真冬のように厚着をしマスクを付け、実家の車を運転するのも不可能であった為に駅からはタクシーで病院まで来ていた。
そんな真壁俊夫を見て、ロビーで待っていた妹は仰天した。同じ奈良にいても妹も多忙であるので、直に会うのは1週間ぶりであった。
「ちょっ? お兄やんっ?!」
「おお~、庭と掃除と・・風呂以外の工事は済んだからなぁ・・げほげほっ」
よろめく真壁俊夫を慌てて支える妹。
「それは電話やらで聞いたわぁっ、なんなんっ? おとん、俊夫が風邪引いてる、って言うてたけどぉっ」
「ま」
「ま?」
「漫画を描いてるんやぁ」
「はぁ? なんでそれで風邪ぇ??」
「天才や、天才のネームやっ、・・予定より、はよ描けとる・・はよ描けとるんねやぁ」
「何言うてんのちょっとぉっ? お兄やんっ」
「蜃気楼のイカプー・・あっ! イカプーっ」
意識朦朧としてきた真壁俊夫の前に、イカプーがもにょもにょと触手の脚で歩み寄ってきた。
「ぷーっ! まかべ先生っ」
「あかんあかんっ、ネームから出てきたらあかんっ。編集さんに見せへんとあかんさかい、原稿に戻ってぇ」
「お兄やん??」
「ぷ~、そろそろお別れなのです! これまで描いてくれてありがとうっ!!」
「イカプー?」
「お兄やんてっ、誰ぇ? いかぷうってっ?!」
「最後に、握手しましょう! まかべ先生っ」
イカプーは触手の手を差し出してきた。
「そうかぁ、名残惜しいわぁ」
真壁俊夫はイカプーの触手を握った。それはぷよぷよとしていて、なんだか懐かしい、夏休みの友達のような温かさがあった。
影のように揺らめいて、イカプーは掻き消えた。
「お兄やんっ? 何この手ぇ? お兄やん??」
真壁俊夫は微笑んで、支える妹から離れ、ゆっくりと倒れていった。
「っ?! お兄やーーーーーんっ!!!!」
妹は慌てて周囲の医療スタッフに助けを求めた。
3日後、真壁俊夫は病院のベッドで目覚めた。
「イカプーっ!!!」
「なんや、ほんまにそれ言うんやな」
ベッド脇の椅子で父が退屈そうに防波堤釣りを特集した釣り雑誌を呼んでいた。近くには松葉杖が立て掛けられていた。
「おとん?」
「逆になったなぁ、俊夫。へへっ」
「俺、倒れたんか・・え? どれくらい経った?」
「3日や」
「ああ、そんなもんか・・」
「医者は風邪を拗らせとるって、言うとったけど、昨日の検査で風邪自体はもう治っとった。後は体力やなぁ。リハビリせんと。俺もゴルフはもうあかんけど、釣りの、波止場釣りくらいやったら」
父の話が頭に入ってこない。漫画。イカプー。ネーム。Gペン・・・Gペンっ!
「ペンは?! 俺のペンっ」
「え? ああ、漫画描くヤツかぁ。睦代が今朝捨てとったなぁ」
「捨てたぁ~っ?!」
真壁俊夫は跳ね起きて父に詰め寄った。
「いやっ、俺はやめとけ言うたでっ? せやけど睦代が汚ない、変な感じする、てっ」
「睦代ぉーっっっ」
妹、睦代がバリバリ反抗期で平安貴族のような眉をしていた頃に、妹の切り過ぎた髪型のことを「亀頭か」としつこめに茶化した報復として仲間と寝袋を持って原付で隣県にツーリングに行っている隙に、秘蔵の綾波レイのフィギュアを全てネットオークションに勝手に売り出され、
「あの女やったらぁ出て行きやったわぁ。もう、うんざりやて。うんざりっ! 手切れ金も置いてきはったよぉ?」
とテーブルに封筒に入れた売却金を投げ置かれた時以来の殺意を抱く真壁俊夫。
だが、真壁俊夫は既に30代後半の大人である。どうにか思考を切り替えた。
「・・っっ。原稿は?」
「おっ? 漫画のヤツな。なんや机に置いとったのはさすがに捨ててへんよ? ちょっと素人にはようわからんかったけど」
「ネームっ! 俺のネームっ!!」
朦朧と描いていたが確か、7割は描き上げていたはず。それだけあればなんとか脱稿まで持ってゆける。
おそらくもう2度とこれ程の原稿は掛けない。せめて最後に、才気ある原稿で自分の若い時代の全てを捧げた漫画界に爪痕を残したかった。
真壁俊夫はまだフラつく身体で転げるように病室を出て行こうとしたが、ハタと気付いて父の方を振り向いた。
「俺、財布は?」
「家や」
「・・おとん、金貸して」
「俺もタクシーで帰るわ。等級低いけど、市から介護の認定パスもろてん。割引や、貴族やで?」
「知らんけど・・」
真壁俊夫は締まらない気分で父に割引でタクシーを奢ってもらい、実家に帰宅した。
「うおーーーーっ」
手摺だらけになった実家で、父に呆れられながら階段を駆け登ってゆく真壁俊夫。
かつての2階の自分の部屋を作業部屋にしていた。
病み上がりの階段ダッシュで頭がクラクラしたが、言ってられない。
今では小さ過ぎて作業し難い学習机に、ネーム原稿は・・・あった。
「よしっ!」
真壁俊夫は急いで椅子に座り、ネーム原稿を確かめた。
「この、天才のネームがあればっ! 俺だって・・っ?! これはっっっ」
自分で描いたネームを手に衝撃を受ける真壁俊夫。
それは、現れては消えるイカプーの魂の彷徨の物語であった。しかし、
「天才過ぎて・・・読めないっっっ、どう描くんだコレ????」
描けるペンを持たない真壁俊夫には、この難解なネーム原稿はまるで意味のわからない物だった。
「嘘だ・・そんなっっ、俺が描いたんだぜ??」
何度も原稿を見直す真壁俊夫。それでもわからない。
「なっっ」
席から立ち上がり、
「なんでっっ」
首を振り、
「なんで俺は天才じゃないんだぁああ~~~~~~っっっっ???!!!!!」
真壁俊夫は絶叫してネーム原稿を放り投げた。
一方で、真壁俊夫の実家のある区画を含む、担当エリアのゴミ収集を終えた収集車の助手席で、茶髪を放置した結果プリン髪になった20代中盤の清掃員が、鼻歌混じりに描けるペンをもてあそんでいた。
「お前ぇ、ゴミから拾ったんか? また主任にどやされんで? あのゴリラにっ。というかよくそんなんイジれんな」
運転席で迷惑顔の年輩の清掃員。
「先輩、自分、エタノール消毒液常備してますんでっ。それにコイツ、ビニールから飛び出してたんですよ? こんなん運命ですやん」
「運命? 大体なんやねんそのペン? えらい尖っとんな」
「Gペンですよぉ先輩っ。コレで漫画描くんですわ。そらもうイキってからにっ」
「イキらな漫画描けへんのか?」
「漫才と一緒ですわ。コレおもろいわっ、てイキり散らさな、おっかなくてやってられへんのですわ」
「怖いんかいっ。というかお前詳しいな?」
「自分、大学で漫研やったんですよ」
「はぁん」
「ふぁっ? 全然興味無いですやんっ」
「漫画とか、エロ本しか読まへんわ。アニメとか特撮とかドラマとか映画とか舞台とか歌手のライブとか小説とか絵本とかゲームも、共感性羞恥で見てられんっ。なんや大袈裟ちゃうか? 全部。嘘やろ」
「はい、今、全地球のエンタメファン敵に回しましたよ? マクロスの敵より酷いですやん。なんで全方位行くんですか? どんだけ戦いに飢えてはるんですか? 謝って下さい」
「嫌じゃっ!」
「ふぁ~っ、太いお人やでっ。前世、信長ですかぁ?」
「寺焼くどっ!」
「どんどん乗ってくるやんっ。怖いわ~」
プリン髪の清掃員は適当に会話の返しを入れつつ、改めて描けるペンを見た。何も知らない彼は、大学を卒業して以来、全く描いていなかったにも関わらず創作意欲がふつふつと湧いてくるのが不思議でしょうがなかった。
「まぁうち帰ったら、これでいっちょ、超天才でキャッチーな、すぐ売れてまうっ! オモシロ読み切り漫画ぁ、描いてバズってまおうかなぁ~っ?! なーんてっ、ヒヒっ。・・ん? ぶえっくしょんっ!!」
「おーい、窓開けてからくしゃみしろやぁ」
「すんません。あれ? 花粉症かなぁ? ぶえっくしょんっ」
「やめ、てっ!」
「ぶえっくしょんっ!!」
「わざとやろっ?」
「ぶえっくしょんっ!! ぶえっくしょんっ!!」
「・・?? いや、お前、大丈夫か?」
「風邪、かなぁ?? せっかく漫画のアイディア・・ぶえっくしょんっ」
早くも猛威をふるいだす描けるペンなのであった。