小指
サッカーボールなんていつぶりに見たよ。
あれから何もかもが怖くなって、見てなかったな。
「もう激しい運動をすることは不可能かと、ただリハビリをすれば日常生活に支障がないくらいにはなります」
あの言葉を聞いた瞬間頭の中が真っ白になった。
あれからどうやって立ち直ったか覚えてない。
いや、まだ立ち直れてないのか。それすらも分からない。
ただ先生に言われるがままリハビリをして、退院もできて普通に暮らせている。
今はそれだけで充分なんて言う綺麗事で片付けていた。
「お兄ちゃん、早くとって」
何で俺はこの時あんなことを言ってしまったんだろう。
「何で1人でサッカーなんてしてるんだ」
なぜ俺はこんなことを聞く。
何が言いたいんだ。
「何でって。リフティングできるようになってお母さんに自慢するんだ」
まるであの時の俺だな。
あの時、俺は誰かに褒めて欲しかったんだ。
ただ、上手くなったね。とかすごいね。とか、言って欲しかっただけなんだ。
誰かに認められたかった。
1人でサッカーしてたら、何も考えなくていいから。
そんなこと嘘だ。
俺は、そう思うことによって考えるのを辞めたんだ。
自分がどれだけ上手くなっても褒めてくれる人なんていなかった。
それをわかってたから、考えないようにしていたんだ。
「そうか。じゃあ俺が教えてあげるよ」
「え、ほんと? お兄ちゃんリフティングできるの?」
この時の俺はただこいつにこの少年に自分を重ねていたんだ。
あの時誰かとしたかった。誰かと一緒にサッカーがしたいだけだったんだ。
「それなりにな」
俺は目の前のボールを取って、いろんな技を見した。
ボールを頭の上に乗せたり、リフティング中足を回してみたりと。
「お兄ちゃん。すっげー」
「すごいかこれ。誰でもできるようになるさ」
「え、僕にもできる?」
「ああ、できるさ。お母さんに見せるんだろ」
「うん! 教えてお兄ちゃん!」
それから俺は、少年にコツを教えた。
何度もやってみせたり、やってるところを見て、ダメなところを教えてあげたり。
楽しかった。
1人でするサッカーよりも何倍も楽しかった。
今日はこの気持ちになること多いな。
それから1時間ほど経った。
もう時刻は18時代に差し掛かろうとしていた。
外は暗くなってきたし、そろそろこの子のご家族も心配しているだろうと思いそろそろ終わるように説得しようとした。
「そろそろ暗くなってきたし。終わろっか。お母さんも心配しちゃうよ」
「お母さん、今家にいないんだ」
うわ、まじか。なんか複雑な事情だったりするのかな。
一応聞いとくか。
「どうして?」
「お母さん、身体悪いみたい。だから入院してるんだ」
そういうことか。悪いこと聞いちゃったな。
本当にあの頃の俺に似てるな。
ただ俺の場合、お母さんはもうこの世にはいなかったけど。
「そっか。じゃあ早くできるようになってお母さんに元気になってもらわないとだな」
「え。お母さんは僕がサッカーできるようになったら、元気になる? 病気治る?」
「ああ。元気になるさ。きっとな」
なぜ俺はこんなことを言ってしまったのだろう。
ただきっとお母さんは喜ぶだろうな。
親の気持ちなんてわからないし、実際俺には上手くなって喜んでくれる親なんてこの世にいなかった。
それでも理由はわからないが、喜んでくれる。その確信はあった。
「じゃあ僕頑張る。早くもっと教えて」
「今日はここまでだ。だめだよ。家の人が心配しちゃうだろ」
「えー。せっかく5回もできるようになったのに」
「5回できれば上出来だよ。暗くなる前に帰りな。続きはまた明日教えてあげるから」
実際教えることは苦ではなかった。むしろ楽しかった。
「わかったー。お姉ちゃんに怒られちゃうかもしれないし帰るよ」
お姉ちゃんがいたのか。
ここでお父さんじゃないんだな。
なんかますますあの頃の俺に似てるな。
「そうだな。お姉ちゃんに怒られる前に帰るよ」
「また明日ね。お兄ちゃん。約束だからね」
そう言いながら少年は小指を出してきた。
俺はそっとその指に自分の指を当てた。
ちっちゃい指だな。かわいいや。
「約束、な」
俺は約束をした。自分の小さい頃とよく似た男の子と。