part.8 【解答編】
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「いや、彼が戻ってくるって……。どうして」
「すみません、断定したのは言い過ぎでした。来るかどうかは五分五分といったところでしょう」
「はあ」
ますます、彼女が何を考えているのか分からなくなる。
「あと10分待っていらっしゃらなければ、お手洗いを確認しに行きましょう。おそらくその場合でも謎は解けます」
巫女服の彼女は美味しそうにペットボトルの紅茶を飲んだ。どこかちぐはぐな光景だけど、なぜか御衣子さんだと心が洗われるような気がするから、不思議だ。
しかし、僕の話を聞いただけで、どうして真相にたどり着けたのだろう。まあ、彼女の鋭さは、今に始まったことじゃないのだ。
結局、10分も待つ必要はなかった。しばらくして、休憩所に1人の男が現れた。
「あの……」
その低い声を聞いて、僕は瞬時に、安部君の物まねは似ていたのだと悟った。
それは例の虫捕り青年だったのだ。
「こんにちは。H大学の方ですね」
御衣子さんが、すっと立ち上がる。
「え、あ、そうっす」
「当社でよろしければ、ぜひ虫の採集にご協力させてください」
見ていて面白いくらい、青年は驚いていた。そうだろう、唐突に色々なことを言い当てられたら。僕も初めの頃はこんな感じだったのだろうか。
少し愉快な気分で、助け舟を出す。
「御衣子さん。彼が困っていますよ」
「いけません、私ったら。まずはお話を伺ってから、ですね」
青年はそこで初めて僕に気付いたようで、目を見開いた。なるほど、授業を受け持ったこともあるはずだから、僕のことを覚えていてもおかしくはない。
「あ、七変人の……どうしてここに」
ん? 今、なんだって……?
しかし青年は、すぐに御衣子さんに向き直り、興奮を露わにした。
「いやあ、神通力って言うんすか? 巫女さんって凄いんですねえ。その通りです。お願いをしにきたんです」
……さっきの発言はよく聞きとれなかったからいいとして。
なるほど。虫捕りの許可を貰いにきたわけか。御衣子さんはそれを予想していたのだろう。一応研究の手伝いであるわけだし、ちゃんと筋を通すよう臼庭教授が指示している可能性はある。ただ確実性は高くないので、五分五分と表現したのだろう。
そして、彼が僕を見て驚いたということは、あの不気味な声は僕を脅かすために聞かせたわけではないということになる。僕は少し安心した。彼は別に僕に恨みがあったわけでもなんでもないのだ。心当たりはないと理解してはいても、心臓に悪い。
「御衣子さん。もしかして、虫の正体も分かったんですか?」
「はい。何村さんもご覧になっていますよ」
「え? あのトンボみたいな虫のことですか? でも、あれは目的じゃないって、さっき」
「トンボじゃないっすよ。先生も見てたんですね」
青年が口を挟んだ。
「その通り。何村さんが手水舎でご覧になった虫は、トンボではなく……ウスバカゲロウですね?」
彼は狐につままれたような驚き顔で、こっくりと頷いた。
僕たち三人は移動を開始した。もちろん行先は、トイレの裏手だ。
短命で儚いというイメージのあるウスバカゲロウだけれど、その姿かたちを目にしたのは初めてだ。言われてみれば、あの、見ていて不安になるような飛び方。実に儚げだ。
「貴方は、柄杓に止まっていたウスバカゲロウを見て、引き返したんですね。目的とする虫も近くにいると悟って」
「へへ。教授の虫講座は何度も受けていましたから、気付けたんです」
彼は頭を掻いた。
「先生に電話をかけたのは、その時ですね」
電話?
どうしてここでそんな単語が登場するんだ、と不思議に思う僕をよそに、青年は首を縦に強く振った。
「はい。そういう取り決めだったんで」
「ところで、どうして先生は自らお探しにならなかったのでしょう? お話を聞く限り、精力的に活動されている方のようですが」
御衣子さんはそこで、いきなり話題を変えた。学生は眉をハの字にすると、
「ブランコから落ちて腰を打ったんです」
「ブランコ?」
「蚕の繭の糸からできた縄で、ブランコを作ったんです。その耐久実験をしている時に……」
あの人、そんなことまでやっていたのか。
「さすがに手作りの縄では厳しかったのでしょうか」
「いえ、縄は大丈夫だったんですけど、枝が折れてしまって」
学生が雇われたのは、こういう経緯だったのか。つくづく元気な人だ。
「すみません、気になっていたものですから。話を戻しましょう。
電話をかけた貴方は、先生から指示を受けたはずです。……何村さんは乾いた柄杓に疑問を持ちましたが、何の因果か、臼庭先生の指示も『乾き』がキーワードだったのではないでしょうか。乾いた砂のある場所を探せ、と」
「ほんとすごい。ええ、その通りです」
乾いた砂? また突拍子もない言葉かと思いかけて、そうではないことに気が付いた。心当たりがある。
青年が持っていたケースには土が入っていた。そして、ついさっきも、そんな場所を歩いたではないか。乾いた砂地を。
「見えてきましたね」
トイレの建物がある周囲。玉砂利の道から離れたそこは、砂地になっている。そして、裏手にあたる南側は日当たりが良い。乾いた、さらさらの砂土だろう。
「貴方はいつでも指示を受けられるよう、通話状態を保ったまま、この裏に向かったんです」
青年の行動をなぞるように、僕たちは裏手に回る。地面に、あるものを見つけた。
「これが、臼庭先生が探し求めていたものですね」
そこには、いくつかのくぼみがあった。円錐を逆さにした、すり鉢状の、くぼみ。
「アリジゴクか」
「そうです」
ジゴク。地獄。
「もしかして、僕が聞いたのは」
「はい。臼庭先生の声だったんです。電話越しの」
あの時、この青年はトイレに僕がいることなど知らなかったのだ。彼は、電話で臼庭女史の話を聞いていた。その音声の一部を、僕の耳は拾った。作りものめいたと感じたのは、電話越しの声だったからか。
「アリジゴクは、ウスバカゲロウの幼虫です。だから彼は、近くに本命がいると悟った」
青年が頷く。その顔は、数週間の悲願を達成した、満足感にあふれたものだった。
「じゃあ、『極楽』というのは……」
「教授ったら、僕がこの巣を探している間も、ずっと蘊蓄を話し続けていたんですよ」
彼は苦笑した。だけど、表情は柔らかい。なんだかんだ変人教授とは上手くやれているようで、お節介にも、僕はホッとしたのだった。
「何村さん。ウスバカゲロウの別名をご存じですか?」
御衣子さんは、肩をすくめて、ふ、と脱力した。
「『極楽とんぼ』というんです」
『極楽と地獄』 了
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
……脱力してもらえると、うれしいな。