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part.7


 7


 それにしても、と御衣子さんは僅かに眉をひそめた。


「極楽と地獄というのは解せませんね。『天国と地獄』ならともかく」


「ああ、音楽の」


 御衣子さんは、よく運動会のBGMで使われるあの曲のことを思い浮かべたのだろう。歌劇『地獄のオルフェ』序曲第3部。「天国と地獄」の他にも、「地獄のギャロップ」という呼称もある。


 過去に、連れられて観に行ったことがあるのだけど、ずいぶん愉快なお話だったと記憶している。家に帰ってからも、あいつとああだこうだ言って、笑い合ったっけ。


 しばし昔の思い出に浸っていると、


「何村さん」


「はい」


 彼女はやや俯いたまま、僕に言葉を投げかけた。巫女服の彼女は、考え事をしている時でもしゃんとしている。僕も自然と背筋が伸びた。


「お手洗いから出た時、言葉の主の姿は確認なさいましたか?」


「いえ。あの時はちょっと怖くて、一刻も早く立ち去りたい一心でしたから」


 ちょっと、と年甲斐もなく強がってみせた僕だけど、本当はかなり怖かった。こうして、明るい休憩所の中で話す分にはさほど怖さは感じないけど、あの薄暗いトイレの雰囲気も相まって、下手なお化け屋敷よりも心拍数が上がったのではないだろうか。


「いいのです。……確かに、建物の裏に回ると、参道からは見通せませんからね」


 御衣子さんは合点がいったように頷いた。彼女は平坂神社の巫女であると同時に、宮司さんの一人娘でもある。当然、建物の配置などは頭に入っているのだろう。


「はあ、わざわざあんなところの裏に行く人の気が知れませんね……ただでさえトイレって暗いイメージがあるのに」


「すみません」


 いつもは凛とした佇まいの巫女さんが、しゅんとなったような気がして、僕は慌てた。御衣子さんは全然悪くありませんって! むしろ掃除は行き届いていましたし!


「でも、意外とあそこの裏は明るいんですよ。木が少なく、お日様が当たるので、湿気もあまり感じません」


「へえ。そうなんですか」


 方角を考えると、そうかもしれない。トイレは参道の南側に位置している。影になる正面ほど陰気な場所ではないのだろう。


 御衣子さんは再び黙り込む。いよいよ思考に没頭し始めた様子だ。


 彼女だけに頭を働かせるのは悪い気がして、僕も疑問点を整理してみることにした。判然としないことが多すぎる。


 1点目。僕がトイレで聞いた、不思議な女の声。極楽と地獄。これは安部君の友人である男子学生が関係していると思われる。しかし、その方法と動機は不明。


 言葉自体の意味も分からない。極楽と地獄とは何なのか? また、「ぼ」「り」という音も聞こえた。続けると「ぼり」。「堀」? 御衣子さんの苗字は「堀水」だけど、関係はあるのだろうか。


 2点目。乾いていた柄杓。虫捕り青年は、手水をせずに引き返した。トイレに戻ることが理由だったのだとしても、また同じ疑問が残る。何のために?


 3点目。彼は当初の目的を果たせたのだろうか。彼が追いかけていた虫は何だったのか。


 彼は今、どこにいるのだろうか。


 ……だめだ。皆目見当がつかない。


 案外、日当りが良いというトイレの裏で、日向ぼっこでもしたかったのかもしれないな。僕の脳裏に、とりとめの無い妄想が去来する。


 あの学生が、よく陽の当たる草原で、うたた寝をしている。夢の中では、彼は極楽浄土の住人で、天女と戯れなどしつつ毎日を過ごしている。ある日、彼はモンシロチョウを追いかけているうちに、誤って地獄に入り込んでしまった。


『これは何かの間違いです。僕を天へお戻しください』


 必死に申し立てをする彼に、なぜか閻魔様の格好をした臼庭女史が厳かにのたまう。


『白いチョウチョが必要なんですよ。取ってきてくれたら、お話をつけてあげないこともありません』


がさっき、取逃がしてしまいました……』


『それはいけませんねえ』


 数瞬ほど思案してから、鼈甲眼鏡の閻魔女王は、ぱしん、と杓子を片手に打ち付けた。


『残念です。舌を抜いてしまいましょう』


 ――草原で横になった彼の口から、苦しげに「じごく……」という寝言が漏れる。しかしその声は、まるで別人のように、妙に甲高い……。


 いけない、つい阿呆なことを考えてしまった。御衣子さんは真剣に悩んでくれているというのに。


「僕だけ何もしないのも申し訳ないなので、もう一度トイレの方まで行ってきます。もしかしたら、また彼に会えるかもしれませんし――」


 腰を浮かしかけると、「いえ」御衣子さんに待ったをかけられた。


「その必要はないかと。そろそろお見えになりますから」


 え?


 耳を疑うような言葉だった。あの青年がここに来るって?


 僕は御衣子さんのことを、まじまじと見つめてしまう。静かに微笑みを湛えた彼女が座している。どこか晴れ晴れとしたその姿に、一瞬、天女の面影を見てから、僕は口を開く。


「もしかして、御衣子さん。謎が解けたんですか?」


 天女は優雅に首肯した。


「はい」






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