part.5
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しかし不思議な体験は、これだけで終わらなかったのだ。それはすぐ後に起こった。
「何だったんだ、いったい……」
手水舎には、もう人の姿はなかった。僕はさきほどの昂ぶりが収まらぬまま、柄杓を手に取ろうとして、動きを止めた。
そこには羽虫が止まっていたのだ。5センチに満たない細長い胴に、同じくらいの長さの羽。それが、裏向けて置かれた柄杓の椀部に止まっていた。
トンボだろうか。だけど、少し違うような気もする。薄い褐色の胴体に、触れれば壊れてしまいそうな半透明の羽。頭の中のイメージだけでトンボを描いたような、どこかちぐはぐな造形に、僕は不気味な印象を受けた。
木製の軽い柄杓をそっと持ち上げ、ゆっくり左右に振る。虫はふらふらと舞うように宙へ飛び立ち、やがて視界から消えた。
あれ?
その時、僕は違和感を覚えて、柄杓の中を覗いた。乾燥した木の色……濡れた形跡がなかった。当然、裏側も、柄も、すっかり乾いていたのだ。だから虫も止まれたのだろうか。
だが、おかしい。さっきまで、ここでは例の青年が手水をしていたはずだ。いくら暑いといっても、数分で柄杓が乾ききるわけがない。
いや。彼は、柄杓を使わなかった? 手水をしなかったのだとしたら、柄杓は濡れない。確かに僕も、水をすくう瞬間まで見たわけではない。
だけど、彼は何をしていたのか。ちゃんと荷物は置いていた。あのリュックサック。僕は手荷物台を見る。そこにはもう、何も残っていない。
……不思議なことに出会ってしまった。それも二つも。
せめて、この思わぬ手土産を、彼女が気に入ってくれると良いけど。
この神社には名探偵がいる。
短い階段を上り、境内に入ってすぐ、僕はその人の姿を見つけた。僕はこれまで、あまり探偵小説というものを読んだことがなかったのだけれど、まさしく彼女――堀水御衣子さんこそが、名探偵というのだろう。
心持ち、急ぎ足で彼女のもとへ向かう。
新雪のように清らかな白衣に、朝焼けのように鮮やかな緋袴。腰まで伸びた長い黒髪は一つにまとめられ、小さな雪原に一筋の流れを浮き上がらせていた。彼女は、この平坂神社の巫女さんなのだ。
思わず見とれてしまうほどの、神々しい姿だ。足を止めると、彼女も僕に気が付いた。じいっと僕を見つめた後、ふっと微笑む。
「こんにちは、何村さん」
鈴の音のような、澄んだ声音。さっきの亡者の声とは大違いだ。巫女服を身に纏った御衣子さんは、神に仕える者に相応しい清らかさと威厳を兼ね備えている。
僕はさっそく、手洗い場、それから手水舎での一件を相談しようとした。さて、どこから説明しようか――。
「手水舎とお手洗いで、何かありましたか?」
彼女が尋ねてきた。
あれ。僕は首を傾げる。両方、当たりだ。まるで、今まさに僕が言おうとしたことを予測していたような口ぶりではないか。
「どうしてか、と思っておられるようですね」
またしても、心を読んだような御衣子さんの発言。彼女は、しばしば唐突に、こちらが驚くような鋭さを見せる。
「えっと、僕が急ぎ足で来たことから推理した……ってことですか?」
「それだけでは、場所までは分からないはずです」
むう、確かに。御衣子さんは、「手水舎とお手洗い」と、きっちり場所まで言い当てたのだ。境内は数段高くなっていて、参道とは互いに見通せないというのに。
参りました、と両手を挙げてみせたら、
「ハンカチが飛び出しています」
やんわりと指摘された。あ、ほんとだ。僕はポケットからはみ出したハンカチを直した。
「それに、濡れていますので、お手洗いに立ち寄られたのかなと」
なるほど。トイレを挙げた理由は分かった。では、もう一つの方は?
「手水舎で何かあった、というのは?」
「手水をなさらなかったようなので」
御衣子さんは静かに答えた。ん……?
いや、そうなんだけれど。実は僕は、柄杓の謎に直面した後、手水をせずにここまで来た。
「その通りです。でも」
また謎だ。どうして僕が手水をしなかったと気付けた?
以前にも同じようなことがあったと、すぐに脳裏に浮かんできた。僕の指先に付いていた汚れから、手水をしていないことを見抜かれたのだ。だが、あの時とは状況が違う。なぜなら、その前にお手洗いで、文字通り、手を洗っていたからだ。
再び悩み始めた僕を見て、御衣子さんは頬を緩ませた。
「何村さん」
それから、背伸びをして、唇に人差し指を伸ばしてきた。うお。僕は硬直してしまう。白魚のように細い指が眼前に迫ってくる。
指は、僕の唇に触れる寸前で止まった。
「潤いが足りていないようですね」
指摘されて、咄嗟に唇に手をやる。乾いた唇のざらついた感触で、僕は気付いた。
トイレと手水との違い。手水では、口をすすぐ行程が入る。その時、唇は濡れるはずだ。
しかも僕は、その前にハンカチを口に咥えていた。濡れた手でハンカチを取り出すのが嫌だから、先に出しておくのだ。それで、唇は余計に乾燥した。
しかし普通、見ただけで唇の状態が把握できますかね……。やはり御衣子さんは、人ならざる視力を持っている。
「何村さんは、すっかり手水の習慣がついていました。しかし今日は違った。
手水舎になにか不備があり、手水ができなかった。もしくは、何か考えがおありで手水をしなかったと考えると、何村さんは急いで私のところまで来られましたから、理由は――」
御衣子さんはしなやかな指を立てて、ずばり真相を口にした。
「現場保存、とか」
「お見事です。御衣子さん」
そう。僕が柄杓を水で濡らさなかったのは、あの状態を維持するため。直接、御衣子さんに現場を見て、推理してもらおうと思ったからだ。だからこそ、僕は急ぎ気味に彼女のところへ駆け寄った。
「そこまでお見通しなら、話は早いです。見てもらいたいものがあるんです!」
踵を返して再び手水舎に向かおうとすると、裾を掴まれた。おっと。
「えっと」
「そうしてもかまいませんが……もう手遅れかも知れません」
「え?」
裏門を見やると、人の良さそうなお婆さんが現れたところだった。ハンカチで口元を拭きながら。
遅かったか――がっくりと肩を落とした僕に、御衣子さんはあくまでも静かに提案した。
「喉を潤しませんか?」




