part.4
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僕には行きつけの神社がある。
なんて言い回しをする人はあまりいないと思うけれど、そう言って差し支えないほど、僕はこの神社に足繁く通っていた。大学から自転車で10分ほどの場所に位置している。名を平坂神社という。
周囲を静かな森に囲まれた、大きめの神社だ。お正月には芋の子を洗うような光景が見られるけれど、普段はあまり参拝客はいない。僕はその数少ない一人というわけだ。
特に、大学に近い裏参道はいっそう静かで、僕はこの長い砂利道をゆっくりと進むのが好きだった。綺麗に整えられた道というのは、歩くだけで、自分の心が洗われていくような気がする。
だから、トレイの横を通り過ぎて、手水舎――境内に入る前に身を清めるところ――に先客が一人いるのを見かけた時、珍しいな、と思った。
補足しておくと、参道の最後はトイレの建物がある辺りでカーブしていて、その先は見通せなくなっている。ここまで来て初めて手水舎に人がいるのが見えたというわけだ。
大学生らしい男だった。日焼け防止に被るようなつばの広い帽子。半袖のポロシャツに短パン。ちょうど手荷物台に、大きなリュックサックを置くところだった。今から手水を行うのだろう。
僕はその姿を見て、既視感を覚えた。なんかかこう、どこか郷愁を誘うというか。そう、持ち手の長い網でも持たせてみれば――。
「あ!」
ひょんな連想から、僕は彼のことを思い出した。例の臼庭教室お抱えの虫捕り青年だったのだ。
何という偶然、と驚いたけど、すぐにそうでもないことに気がつく。彼は「神頼み」するつもりなのだと安部君に話していた。それは言葉通り、神社に参拝するという意味だったのだ。そして僕は、その言葉の連想からここに来ようと思い立った。必然と言うにはおこがましいけれど、十分あり得ることだったのだ。
しかし、どうしたものか。表の方と違い、こちらの手水舎には柄杓が一つしか無いので、このまま行っても待つことになる。なんだか急かしてしまうようで悪いし、それにちょっと気まずい。情けない話、僕はけっこうな人見知りなのである。
そこまで考えたところで、急に尿意が喚起された。さっきのコーヒーが効いてきたらしい。
もう悩む必要は無い。僕は先にトイレに行くことにした。振り向くと、入り口の鳥居まで、誰もいない白い道が続いていた。
玉砂利の道を外れると、すぐに乾いた砂の地面に変わる。歩きにくい砂利道に慣れた足が、ほんの少しの間、物足りなさを訴えた。建物に入った時、日陰は思ったよりも寒いのだと気が付いた。
『何村さんは、黄泉比良坂をご存じですか』
不意に、この間の彼女の言葉が、僕の脳内に蘇る。
『あの世とこの世をつなぐ坂ですよ。当社も、そういう場所なのかもしれません』
ああ、嫌なタイミングで思い出してしまったものだ。結局、あの人は作り話だと笑ったけれど、こうしていると、なかなか雰囲気があるじゃないか。森の奥から、魍魎どもの呻き声が聞こえてきたりして……はは、馬鹿な妄想はやめよう。
ハンカチを咥え、小便器の前に立つ。体温が下がっていく気がして、僕は思わず身震いをした。
その時だ。
すぐ外から、玉砂利を踏みしめる音が聞こえてきた。どの方角から聞こえているのかは分かりにくい。だが、すぐに、音の質が変わったのは聞き取れた。小石がこすれ合う高い音から、乾いた砂が踏みしめられる鈍い音へ変化したのだ。
こっちに、近付いてきている。
他の参拝客だろうか。しかし、トイレに入ってくる様子はない。砂を踏む足音は続いている。建物の裏に回ったようだ。
なんのために……。参道の周りは、一面の森だ。この辺りはまだ視界が開けているとはいえ、トイレの裏に何の用があるんだ。掃除でもするのだろうか。あるいは。
僕は、奥の壁にある窓の存在を、急に強く意識した。開いている。足音の主が、今にも覗き込んできそうな、嫌な予感がする。
早くこの場を離れてしまいたかったが、逃げ出すことは出来ない。なかなか出切ってくれないのだ。両手も塞がったままだ。
緊迫が最高潮に達した時、それは聞こえてきた。
「ごくらく……」
極楽?
「ぼ……り……」
呟くような女声だった。妙に作り物めいた、細い声音だ。
「じごく」
じごく。地獄。
背筋がぞっとした。神社には、まるで似つかわしくないような単語。どうして。頭の中が真っ白になる。昼間だというのに、誰がそんなことを囁くのか。
いや――そこにいるのは、何か。
確かめようにも、ハンカチを咥えているので、尋ねることはできない。いや、例えそうでなかったとしても、僕は気付かれたくなかった。得体の知れないモノに。
やっと終わった。急いで便器から離れ、手を洗い、ハンカチで拭う。開いた口で大きく息を吸い込む。
流れる水の音は、想像以上に建物の中で反響した。今ので気付かれただろうか。再びイメージが浮かぶ。異形の存在が、背後の窓から、じっとこちらを窺っている――。
濡れたハンカチをズボンのポケットにねじ込み、僕は振り返ることなく、外へ飛び出した。さっきまでの薄ら寒さが嘘のように、陽光の射し込む道がある。鼓動は激しく、奔馬が今にも喉から飛び出しそうだ。
僕はなるべく建物の方を見ないようにして、足早に手水舎へと向かった。
万が一にも、陰から覗く女の顔なんて、見たくはなかったからね。
何村がトイレから逃げ出すシーン、BGMは「天国と地獄」(運動会で流れるやつ)でお願いします。




